Ep.27-3(白) 欠け落ちた月
暗闇のなか、ガラス張りの天井の向こうに、ぼんやりと月が見えた。僕は体をゆり起こし、ゆっくりと立ち上がる。操さんの洗脳から解放されて間もないからか、思考はぼおっと熱を持ち、四肢は麻痺したように動きが鈍い。
初めに聴こえてきたのは女性のすすり泣く声だった。姿は見えない。けれど僕はその声の主を知っている。何かにけつまずいて、派手に転んだ。頭を強かに打ったけれど、大した痛みじゃない。そう、彼女が抱えていた痛みに比べれば。
「……!」
名前を呼ぶ。
彼女の吐く息が近くに聴こえる。
距離が近い。
「――、――」
言葉がうまく繋がらない。
暗闇のなかを這って進む。
彼女の裾に手が触れる。
「もう、大丈夫だから」
そう言って、僕は僕に名前を与えてくれた人を抱きしめた。
「もう、いいよ」
彼女はそう言って、僕の腕を振り払った。
「わかってた。とっくのとうに気付いてた。あたしはね、自分のことを守ってくれる都合の良い人間が欲しかっただけなの。ごめんね、アマネくん。もう、無理しなくていいよ」
「……」
「あたしは、もう、大丈夫だから。ひとりでも、大丈夫だから。だから、もうあたしには構わないで。あの人のところへ帰って」
「葉月……。僕は……」
「今まで、ありがとね。ここまで生き残れたのも、あなたのおかげ。でも、もういいの。なんかもう、どうでもよくなっちゃったの、あたし」
「どうでもよくなんか、ない。葉月、君は……強い
彼女はゆっくりとかぶりを振った。
「ううん、違うの。あたしはね、本当は誰よりも弱い人間なんだよ。今までずっと誤魔化してきたけど、もう限界。もう、取り繕うのも耐えられない……」
彼女は自分自身を押しつぶすように呟いた。
「あたしの強さは全部、偽物なんだよ」
◆
その女性の願いを聞いたときに悪魔が一番初めに感じたのは、紛れもない困惑であった。
「おい……。なんだよ、それ。折角の一度きりのチャンスなんだぞ。なんかもっとこう、あるんじゃないのか。理想の恋人が欲しいとか、使いきれないほどの財産が欲しいとか」
「そんなの叶えたって、虚しいだけよ……。そんなものを手に入れたとして、肝心のあたしには何もない。何も、ないんだから……!」
彼女の気迫に押されながらも、悪魔は問答を試みる。
「第一そんな抽象的すぎる願い、叶えても効果があるのかすら解らんぞ。もっと具体的に、どうなりたいのか教えてもらわないと」
「いいの。やってよ、悪魔なんでしょ。あたしは……『強くなりたい』、強くなりたいの。強くなれば、もう人に嫉妬しなくて済む。強くなれば、あたしを見下した連中を逆に見返せる。強くなれば、過去の過ちに苛まれることもなくなる。強くなれば、正義の味方にだってなれる。強くなれば……」
彼女は落ち窪んだ眼窩で、ぶつぶつと取り憑かれたように呟き続ける。
悪魔は暗い部屋の中、出逢ったばかりの彼女の辺りを見回す。
彼女の傍らには大量の空の酒瓶、そして薬の箱。彼女が一種の酩酊状態にあることは明白だった。彼女はもう、死にかけていた。肉体的にではなく、精神的に。正気を失った女の瞳に宿っているのは、ただ生存への執念だけだった。
悪魔は黙って、彼女の様子をうかがっていた。
そんな悪魔を尻目に、彼女は呪いの言葉を吐き続ける。
「あ~~あ。人生何も良いことなかった。母親は若くして勝手に死ぬし、父親はクソ男だったし、まあもうこの世にいないんだけどね、それで残ったひとりきりの家族にはシカトされるし、高校は中退だし、二十歳超えて恋人はできたことないし、会社の上司にはセクハラされるし、給与は全然足りないし、ああ~~、もう! 生きてて何も良いことないし、死にたい、死にたい、あたしもう死にたいんです! 悪魔さん、悪魔なんでしょ? なんとかしてよお~~」
酔っているのか薬のせいなのか悪魔には判断がつかなかったが、もう彼女は頭どころか呂律さえも回っていないようだった。自身の足元で縋るように手を伸ばす彼女を見下ろしながら、悪魔は思考する。
悪魔自身、なぜそんな「弱い」人間を契約相手に選んだのか不明瞭だった。決して同情や憐憫の類ではない。悪魔はそんな生易しい感情からは一番離れたところにいたからだ。冷静に、冷徹に、最後まで勝ち抜けるだけの人間を選ぶはずだった。
「……わかった。お前の願いを叶えてやる」
「本当、本当なのね! 夢じゃないのね!」
悪魔はそんな彼女を嗜めるように、言葉を続けた。
「ただし、条件がある。お前はお前自身の意志で願い続けるんだ。『強くなりたい』、『弱さを見せない』と」
「解ったわよ。早く、願いを叶えてよ」
そうして彼女は、願いの成就と同時に権能を授かった。
かの名は『月下美刃』。自分の肉体を、自分の思うように強化する能力。
自分を「強い」と思い込むことで、本当に「強く」なる能力。
それは彼女の呪い、彼女の歪みを何よりも醜悪に体現している。
借物の強さ。虚構の肉体。ただ精神だけが、ゆっくりと確実に摩耗していく。
それでも彼女は自らを喜び、自らを尊んだ。
それからの彼女は見違えるようだった。
会社に行くとき以外は引きこもりがちだった私生活は一変し、外を出歩くようになった。世間への怨嗟や憎悪に歪んだかつての表情は消え失せ、その
願いを叶えてやった悪魔自身、驚いてもいた。
(嘘だろ……。まるで別人じゃないか。たかが『暗示』で、ここまで変わるものなのか……?)
彼女の果たした願いは何も、彼女を本当に「強い」人間に仕立て上げたわけではない。ただ彼女の思考に少し介入し、「自分は強い」という認識をほんの少しばかり植え付けた、ただそれだけのことだった。ときおり情緒不安定にはなるものの、契約を果たした獅子宮、如月葉月は極めて強力かつ強靭な肉体と精神を保つようになった。環境には恵まれなかったのかもしれないが、素地があったのだろう。
殺人鬼を打倒したときなど、悪魔でさえ歓喜の念を抑えきれないほどだった。
(いける……。この女の「思い込みの強さ」は本物だ。「自分を強い」と思うことで強くなる権能と合わせれば、神さえも夢物語じゃない……!)
そう悪魔が確信を強めたとき、その人間は降ってわいたように彼らの前へと姿を現した。彼女は彼に救いを求めた。守り守られる対象として、彼を新たに見定めた。自分の弱さを、自分の力ではなく、他人の強さで埋めようとした。
そうして、強くなったはずの彼女は、また弱くなってしまった。
◆
「あたしはね、弱い人間だったの。だから悪魔に願ったの。『強くなれますように』って。ふふ、幻滅した? あたしはこれまであたしが憧れていた正義の味方とやらを、ただ演じていただけだったんだよ」
葉月は力なくそう呟いて、蹲った。
なんて声を、掛ければいいんだろう。
きっと何を言っても、彼女を傷つけてしまうことには変わりがない。
でも、彼女が偽物の強さを振りかざしていた偽物だというならば、僕は、偽物なんて言葉で表されるのも烏滸がましいほどに歪んでいる。
僕はずっと隠している。仲間となったしぐれや法条だけでなく、葉月にも、そして、麻里亜にさえも打ち明けなかったことがある。
そう、自分がかつて悪魔ネヴィロスで、そして……。
でも、彼女と同じ偽物だから解ることだってある。僕は三日前、公園でひとり気付いたのだ。
「君は偽物なんかじゃない。たとえ君が「偽物」の強さを願ったとしても、そう願った君自身は紛れもない「本物」なんだよ。葉月、君は弱いのかもしれないけれど、僕はそちらの君の方が好きだ。強がりで誤魔化した弱さなんて見たくない。君はもう、強がらなくていいんだよ」
「駄目、駄目なの……。本当のあたしを知ったらアマネくん、失望しちゃうもん! あたしはもう、これまで通りには戦えないんだよ? もうあなたを守ってあげられないんだよ? あなたにまで見放されたら、あたしを守ってくれる人はもう誰もいなくなっちゃうもん! あたしもうこれ以上、あなたに迷惑かけたくない。鬱陶しいって思われたくないっ!」
「それは、それだけは違うよ、葉月」
だって、僕たちには仲間がいる、法条やしぐれだけじゃない。僕たちに憑いている悪魔たちだって、皐月だって、もういないけれど麻里亜だって。僕たちはただ生きているだけで周囲に責任を負っている、周囲に迷惑をかけている。
他人に一切負担をかけずに生きることなんて殆ど不可能だ。
「迷惑をかけてもいい。鬱陶したくたっていい。だって僕は、そんな葉月が……大切だから」
僕は息を深く吸い込んで、飲み込んでいた事実を告げる。
「葉月、僕はね、本当は悪魔なんだ」
「何を。何を言ってるの、アマネくん?」
「悪魔だった僕の『人間になりたい』って願いを、命を懸けてまで叶えてくれた人がいたんだ。そのおかげで僕は今、こうしてここに立てている。僕は彼女に多大な迷惑をかけてしまった。でも、彼女は怒らなかった。嘆かなかった。だから僕はもう、後悔なんて出来ないんだ。彼女の願いを、想いを、嘘にしたくないから」
「あたしは……。あたしは……」
「葉月が今したいことは、何?」
「あたし、法条さんと合流しなきゃ……」
「解った、行こう。仲間のところへ」
子供のように泣きじゃくる彼女の手を引いて、僕らは再び歩き出す。以前のようにはいかなくても、きっとまだ道は続いている。その道は険しいかもしれないけれど、僕は僕を救ってくれたこの人と一緒に、その道を歩みたい。そう、確かに想ったんだ。
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