Ep.27-2(白) 贖えぬ罪業
双子の分離手術は滞りなく終了した。片桐藍と片桐憂、異形の双子はひとりずつに分かたれ、支障なく日常生活を送れるほどに回復の兆しを見せていた。異形と蔑まれる日々は、確かに終わりを迎えたのだ。
姉はやっと普通になれた、と喜んだ。
弟は普通が何なのかが解らなかった。
片桐憂は以前の日常を忘却し、未来へと歩き出した。
片桐藍は以前の日常に執着し、過去へと囚われたまま。
生まれたときから、何をするにも一緒だった。何処へ行くにも一緒だった。
周囲は自分たちを嘲笑ったけれど、藍はそれでも心の中では幸せだった。
けれど自分たちは別たれてしまった。その方が普通だからという身勝手な理由で。
姉だけは、理解してくれると思っていた。たとえ日常へと戻っていったとしても、彼女だけは自分を見捨てないでいてくれると思っていた。まだ物心すら覚束ない幼き日、病院のベッドの上で投薬の苦しみに喘ぐ姉から投げかけられた言葉のひとかけら。
「藍ちゃん、この先どんなにつらいことがあっても、一緒に生きようね」
その言葉だけは、彼にとってはいつまでも色褪せない、本物の言葉だった。彼の救いだった。そう、その時までは。
姉さん、今度一緒に……。
「はあ? あんたと一緒に出掛けるなんて出来るわけないでしょ。てか何で? 折角あの気色悪い身体を治してあんたの顔を見なくて済むようになったのに、何でわざわざまたあんたと一緒に行動しなくちゃいけないわけ?」
何で、何でそんなことを言うんだ?
「決まってるでしょ。あんたのことがこの世で一番大嫌いだからよ」
嫌だ。そんなのは嫌だ。僕には姉さんしかいないんだ。そんなことを言わないで。
「前からずっと思ってたけどね……。気持ち悪いのよ、あなた」
違う。姉さんはそんなことを言わない。言っちゃいけない。だって、僕にとっての姉さんはあの日の姉さんだけなんだ。だからお前はもう僕の姉さんじゃない。
◇
御厨翼は知っていたのだ。片桐藍の最大の弱点にして、最大の過ちを。だからこそ彼は自身が操る対象として藍を見繕い、彼を自身の傀儡に仕立て上げた。
「姉だけが、唯一の心の拠り所だった。何せ生まれた時からずっと一緒だったんだからな。だが、そんな姉ですらお前を否定した。やたらと人と関わりたがるお前を、気持ち悪いってな。だからお前は」
それは彼を壊す最大の呪文。彼を縛り付ける罪業の鎖。
だからお前は、姉を殺したんだろ?
◇
片桐藍は足元に転がる片桐憂の残骸を悄然として眺めていた。かつての自分の半身。半身でありながら、自分を最も深い絶望へと追いやった、愛おしくて憎らしい自らの姉。
「姉さん、僕は……。こんなつもりじゃなかったんだ。殺してしまうつもりなんて、なかったんだ」
蹌踉とした足取りで歩みだした彼の前には、いつの間にやら一人の男が立っていた。藍は黙って彼を見上げる。
「気は済んだかい、片桐藍。そろそろ君も、夢から覚める時だよ」
……夢? 決して、夢などではない。自分はたった今、愛する姉を殺したのだ。そう、今でもこの手に残る、彼女の細い首の感覚。
「違う。夢、なんかじゃない。姉さんはここに、ここにいたんだ」
藍は自身の姉だったものを両手で持ち上げ、男へと見えるように掲げる。
「ほら、こんなに血が出てる。内臓だってぐちゃぐちゃだ。ほら、もう彼女は死んだんだよ」
男、連城恭助は悲しそうに微笑んで、納得したように呟いた。
「ああ……。君には「そう」視えているんだね」
そして連城は口にする。片桐藍の根幹を揺るがす真相を。
「僕にはね、ただのゼンマイ仕掛けの人形にしか見えない。片桐憂はもう、とっくにいないんだよ。だって君は、彼女を、もうとっくの昔に亡くしているんだから」
たとえば、桜杜自然公園で、双魚宮と矛を交えたとき。
「そうだろう、だからさ、あの怖いお姉さんが来る前に戦おうじゃないか」
「受けて立つわ。ねえおかしなお兄さん。その隣にくっついているお人形さんはなに?」
「姉さんを、人形って呼ぶな!」
違う。姉さんは人形じゃない。
加賀美アリスには、ちゃんと見えていた。
たとえば、桜杜自然公園で、獅子宮が悪魔憑きたちの集合を確認したとき。
それ以上待っても、新たに現れる者はいなさそうだった。葉月は辺りを見渡し、
「五人、か……」
と少し残念そうに呟く。
違う。五人じゃ、姉さんが含まれてない。
如月葉月には、ちゃんと見えていなかった。
◇
片桐藍は歯車仕掛けの人形の残骸を胸に抱きながら、茫然と連城の語る「真相」を聞いていた。
「仕掛けはね、至極単純なことだったんだ。僕が真相に至れたのはね、片桐藍、君の権能の効果を法条くんから聞いたからだ」
「僕の、権能……?」
「ああ、そうだ。『不合理な真実』、自分にとって不都合な事象を改変してしまえる能力。自分に不都合な事実を、見なくて済む能力」
片桐は項垂れ、ぶるぶると首を横に振った。
「違う、僕は、僕にはちゃんと見えている。姉さんは、姉さんは……」
連城はため息をつき、片桐から「片桐憂と呼ばれる人形」を取り上げる。
「君は契約時、自分自身に権能をかけたんだ。この人形を、片桐憂だと認識するように。姉を殺してしまった不合理な
◇
御厨翼が知っていたように、連城恭助もまた、片桐が掩蔽した事実に辿り着いていたのだ。即ち、片桐藍は自身の姉である片桐憂を殺害しているという事実に。片桐憂はとっくの昔に死んでいるという真実に。
「だが、自分自身に能力をかけて認識レベルから姉という存在を生み出すには、計算が合わない。それだけではただの記憶の改竄に過ぎないからね。ここからは多分に推測が入ってしまうが、恐らくは。君は願い事でその人形に命を吹き込んだんだろう? 自分の意志で操作出来るように、あるいは、自分の意志と関係なく動く自動人形のように。自動か他動か、まあそんなことはどちらでもいいことだ。ともかくこれで、君は片桐憂を復活させることに成功したんだ」
連城は目を伏せる。
「どうして君は願い事で姉を生き返らせることを選ばなかったんだい?」
「そんなの……。決まってる。生き返った姉さんが僕を責めるのが、怖かったからだ」
片桐の顔から、反駁の意志は消えていた。連城の言葉から逃れるようにただ静かに地へと蹲り、ただただ慟哭していた。それは偽物に縋り、偽物の事実を真実として認識しなければ自身の罪に耐えられなかった少年の、断末魔ですらあった。
「顔を上げなさい、少年。戦う意思を亡くそうと、大事な姉を亡くそうと、君はまだ生きているのだから。さあ、君はもう自由だ」
片桐はそう優しく声をかけられても、一向に顔を上げなかった。燃え盛る炎の中で、自らの犯した罪を再び突き付けられた咎人の叫びだけが、ただ延々と響き渡っていた。
「僕が説教なんて、流石に柄じゃないな」
連城恭助は思考する。片桐藍と同じように、けれど片桐藍とは異なる手法で、自らの愛する人間を蘇らせた連城恭助は思考する。
片桐憂と六道やよい、二人の蘇った死者。自分にしか見えない幻想、他人にも見える現像。終わりの時、果たしてどちらが幸せだったと言えるのだろうかを。
◇
鷺宮紗希は早乙女操が完全に振り返らないうちから、数瞬の躊躇いもなく操に三度発砲しだ。いかなる抵抗も許さない早撃ち。操は呆気にとられた表情のまま、通路へ倒れ伏す。銃弾の一発は眉間に、残り二発は両胸に当たり、吸い込まれるように操の体内へと消えていく。実弾であれば確実に死んでいたはずの操は、軽く脳震盪を起こす程度で済んだ。
「……っ? これは、一体どんな能力なのでしょうか?」
「ふん、教えるはずがないだろう。能力の効用が解らなければ、手の打ちようもあるまい。お前はもう終わりだ、とだけは言っておこう」
「ふふ、何を仰っているのでしょうね。私には……」
操は紗希へと『処女には向かない職業』を発動する。性差すら関係なく、一撃で彼女の魅了へと落ちるように。
しかし、紗希には全くもって変化が見られない。
「あらっ? おかしいですね」
そう小首をかしげる操の頬を、紗希のブーツの底が容赦なく蹴る。操の身体は通路へと強かに叩きつけられ、小さな悲鳴を上げて動かなくなった。
「眠っていろ。私は中枢部へ向かう」
紗希は気絶した操の身体を跨ぎ、深層部へと進もうとして、通路を塞ぐ大柄な悪魔を仰ぎ見た。
「契約者は倒れた。そこを退いてもらおう」
「ああ、悪いな」
そうサタナキアは呟き、道を開けてやる。
「そこの毒婦と違い話が通じて助かる。なに、安心しろ。命まではとっていない」
そう言った紗希は、自身の変調を確かに感じ取る。
「ああ、違うんだ。悪いなってのは、あんたに危害を加えることになっちまって悪いなってことなんだ。……本当に悪いな。本来なら、あんたみたいな女と契約したかったところなんだが」
サタナキアは心底残念だというようにため息をついた。
「何を、した……?」
紗希は震える手で、自身の右腕を押しとどめようとする。しかし彼女の意志に反し、彼女の銃はしっかりと狙いを定めていた。他ならぬ、彼女自身の蟀谷に向けて。
「恨むなら女に生まれた自分を怨んでくれ。『撃て』」
硝煙が上がる。紗希は先ほどの操と同様倒れ伏し、通路へとその身を横たえた。
「……なんだ、空砲か。あるいは能力の縛りか? 命拾いしたな。用心深いね、他人に操られる可能性も考慮して実弾は込めてなかったか。いいぜ、ますます俺好みだ」
悪魔サタナキアの能力、「女性支配」。対象が「女性」でありさえすれば、如何なる命令でも一度だけ下すことができる。この上なく限定的だが、この上なく効力を発揮する代物。既にサタナキアは操から「私に致命的なダメージを与えた相手を操りなさい」との命令を下されていた。
「俺はここから動けないし、暇になっちまったな。中枢部のあいつの様子でも見に行きたかったが」
サタナキアは気絶した主を揺り起こしたい気持ちを抑え、通路で力なく羽搏いていた。
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