二十七節 「黒白」
Ep.27‐1(黒) 想いの交錯
わたしの恋人は、寂しい人だった。
自分にも他人にも興味がない人。
わたしはそんな彼を見ているのが辛くて、ひとりになって欲しくなくて、放っておけなくて、いつの間にか彼のことが好きになっていた。
ずっと、そう思っていた。
わたしが自殺に失敗して、病室で彼と再会したときに、その認識は変わった。
彼は感情表現が人より下手なだけだった。不器用でも不器用なりに、彼は彼なりにわたしをずっと気遣っていた。
だからわたしは、彼を人に紹介するとき、今度からこう言おうと思う。
わたしの恋人は――――
◆
「なあ、結花。もし俺がお前の大切な人を殺したら、お前はどうする?」
翼はそう言って、俯いた。結花は呆気にとられた顔で翼を見ていた。
「ああ……、混乱させて悪い。今のはものの譬えだ。俺がお前にとって憎むべき相手になったらどうする? って考えてくれればいい」
「翼くん、いきなりどうしたの?」
結花は怪訝そうに尋ねた。
「ここ最近さ……、何をやってもうまくいかないんだ。いや、うまくいってはいる。けれどさ、自分でももう「何がうまくいったか」が解らなくなってきたんだ。何が正しいことで、何が間違っていることなのか、境界が傾いできてる」
翼は懺悔するように、深く首を垂れる。
「なあ、俺が悪人になったら、もし人を沢山殺したり、社会における敵になんかなったりしたら、お前は俺のことをどう思う」
しばしの沈黙ののち、結花は口を開く。
「そうだな、まずは許せないと思う。でもね、それは翼くんのことが大切だから。あなたにそうあって欲しくないから、わたしは怒って悲しむと思う。でもね」
半呼吸置いて続ける。
「翼くんは翼くんだから。きっとそんな行動の裏にも、何か理由があるんだもんね、うん、きっとそうだよ。だからわたしは、もし翼くんが悪人になっても、頭ごなしに否定することなんてしない」
翼は息を深く吸い込んで、結花に問う。
「俺が、お前の大切な人を殺したとしてもか?」
「私の大切な人か、翼くんかなんて、そんなの選べないよ。だってあなたも、私の大切な人のひとりだから。お姉ちゃんも、麻里亜ちゃんも、翼くんも、皆。わたしにとって大切な大切な人たちだから。うん、きっと。本当に大切なモノって、他のなにかと比べたりするものじゃないよね」
その言葉で、気付いた。
御厨翼と法条暁、ただ一人しか生き残れないのなら。権利は平等に与えられるべきだ。
生き残る方は死ぬ方に対して責任を負わなければならない。それが勝者に課せられた重み、他者の屍の上に生きることの重責だ。
俺はその裁定を結花に委ねようとした。自分が負うべき役目から、最後まで眼をそらし続けたままで。結花にとってより大切なのは、恋人である俺ではなく姉である法条暁だと勝手に決めつけたままで、自分から戦いの舞台から降りようとしていた。
ああ、それは、なんて自分勝手な選択だろう――――
翼は俯く。そして決める。自分がこれからなすべきことを。即ち、法条暁との対峙、対話、対決。恋人の身内だからと言って加減などは出来ない。全身全霊をかけてぶつかるべきだ。これまで積み重ねてきたありったけの備えを以て、法条暁を打倒すべきだ。躊躇も韜晦も、憐憫もいらない。それは誰よりも暁自身に対する侮辱であり、自分に対する裏切りでもあるのだから。あれだけの覚悟を以て誓った。他の何を犠牲にしても、法条結花が笑顔になれる世界を創ろうと決意した。あの早暁の誓いをなかったことにしてしまえば、これまでの全てが無駄になる。立ち止まって何になる。一度決めたのだから、あとは突き進むだけ。それ以外に道などない。
俺は――法条暁と逢う。逢って話す。そして戦う。戦って決める。どちらが神へと至るべきなのかを。どちらが結花の傍で彼女と生き続けるのかを。
「ああ、ありがとう。やっぱりお前と話してると落ち着くよ。変なこと聞いてごめんな、少しの気の迷いだったんだ。許してくれ」
そう踵を返しかけた翼に、結花は言葉を投げかける。
「翼くんの方こそ、わたしを本当に許せるの? わたし、大事なことをずっと翼くんに黙ってた。ひとりで苦しんで、ひとりで泣くことが、自分に対する何よりの罰だと思ってた。わたし、もう処女じゃないんだよ。あんな人間たちに、隅々まで穢されちゃった。翼くんはそんなわたしを許せるの? そんな私を認められるの?」
答えはもう、ずっと前から決まっていた。そう、初めて会った時から、ずっと。
「そんなこと、関係あるか。俺が俺であるように、お前はお前だ。法条結花という一人の人間だ。法条結花は一人しかいない。俺は、そんなお前が好きだ。そんなお前を好きでい続けると決めた。だから、そんな心配すんな」
振り向かなかった。振り向いてしまえば、彼女の顔を見てしまえば、覚悟が揺るぎかねないと解っているから。
「翼くんは、優しいね。うん、きっとわたしは、そんなあなただから、好きになったんだよ」
帰り際、そんなありきたりな言葉を投げかけられる。
でも、きっと、その言葉だけで、彼は救われたのだ。
この先彼はずっと思いだすだろう。別れ際の彼女の、寂しげで儚げな、けれど優しい言葉を。どんなに絶望に心が塗りつぶされても、どんなに希望を踏みにじられても、彼女と過ごした時間を思い出せば、彼の心はきっとそのたびに何度でも救われるのだ。
結花をこれからもずっと見ていたい。結花とこれからもずっと過ごしたい。誰よりも、ずっと傍で。
そう、たとえ法条暁を殺し、神という名の裁定者へと身を窶してでも。
「明後日だよな、お前の誕生日。それまでに、やるべきことを終わらせてくるよ。少し時間がかかるかもしれないけど、またすぐに会える。じゃあな」
「うん。待ってる。ずっと、待ってるからね」
病室のドアを後ろ手で締め、彼は自らが罠を仕組んだ箱庭へと向かう。今は後ろを振りかえらずに、ただ進むだけ。その先に、自分の求める未来が確かにあるのだと信じて。
得るべき答えは既に得て、定めるべき指針は既に定まった。そして、少年は戦場へと向かった。冷たくて暖かい、夏の雨に打たれながら。
◆
神は既に、この世界に飽いていた。
けれど、まだ彼女にとっても関心の種はあった。
即ち、次の神となる可能性が一番高い人間が、今宵どんな決断を下し、どんな苦痛に喘ぐのかを。
「やあ、晴れ舞台を見にきてあげたよ。正直なところ、君には驚かされたよ。ふふ、初めてのイントロダクションで「案外、優勝候補は君かもだ」なんて予見した自分の慧眼が怖くなる。取り敢えず気は早いけど「おめでとう」と言っておこうか。現状、神様に一番近い契約者は君だ」
少年は警戒心を露わにし、数歩下がる。
「何をしに来た、八代みかげ」
「ボクを名前で呼ぶか。別に何も。一度戦いが始まってしまったら、ゲームマスターはよっぽどのことがないと戦いには干渉できないんだ。安心してそのロケットを敷地内に撃ち込むといいよ。それで次の神様が決まる」
翼はため息をつき、彼らしくない大げさなそぶりで告げる。
「ふん……。期待に沿えなくて悪いな。ロケットは使わない」
「へえ、苦労して用意したんだろうに、そりゃまた何で?」
「気が変わったのさ。俺はどうしても、あいつと話がしたい」
「法条暁かい」
「ああ、そうだ。だから、ロケットは使わない。まあ、あいつを誘き出すには、このくらいの用意が必要だったと考えてるよ。それだけでこいつは役目を果たした」
「ふうん。まとめて吹き飛ばしちゃったほうが楽でいいのに。その決断を後で悔やまないことだけを願っているよ」
みかげはくすくすと笑いながら言った。翼は舌打ち、神を見据えた。
「要件はそれだけか?」
「ううん、もう一つだけある。あの鬱陶しい小悪魔がいないついでに聞いておきたいことがあってね。君、神の定義について考えたことがあるかい? 神が果たしてどういった類のものなのかを」
「まあ……薄々感づいてはいるよ。このゲームはどうも、うまく出来すぎてる。八代、どうせあんたも大したことのない存在なんだろ」
「言ってくれるね。ボクの人形のくせしてさ」
みかげは拗ねたように鼻を鳴らした。
「ああ。人形なのかもな。けどな、人形って言ってもマリオネットみたいな操り人形なんかじゃない。俺たちはもうとっくに、あんたの手を離れてんだよ。あんたこそ何様のつもりだ? いつまでも子離れできない親みたいだぜ?」
極黒のコートと純白の髪を闇夜にたなびかせ、神は高らかに宣言する。
「神様のつもりさ。でも、確かにそうかもね。君の言うことにも一理ある。確信したよ、ボクは君が好きだ。……時に御厨翼、こんな格言を知っているかい? 『物語に銃を登場させたならば、それは必ず一度は使用されなければならない』」
「チェーホフか」
「うん。まあ
「それで、何が言いたい」
みかげは目を眇め、試すように翼を見やる。
「つまりさ、このロケット、アーベントレーテについても同様ってことさ。君の手を離れたとき、こいつは果たしてどうなるんだろうねえ?」
「お前、まさか」
「そおんな怖い顔すんなって。折角の美形が台無しだぞ? まあ、せいぜい足掻きなよ、人間の苦悶ってやつは本当に何度見ても癖になるからね。数時間後あの箱庭の中で誰が生き残り誰が命を散らすのか、ボクはボクなりに楽しませてもらうことにするよ。今宵の主役の座は君だ。良い演目を期待しているよ」
神は笑って、姿を消した。夜闇にみかげの嗤いが木霊する。翼がその場から離れても、彼女の笑い声は彼の耳朶に執拗に残響していた。
その忌まわしき音を振り払いながら、翼は待ち続けた。法条暁が、中枢部へと辿り着くのを。策は既に仕掛けた。彼女は見破ってくるのだろうか? それとも俺の仕掛けた罠にはまり、地金を晒すことになるだろうか? どちらでも構わない。彼はただ、法条暁と完全な形で対峙したかった。彼の頭にあるのは、ただそれだけだったのだ。
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