二十六節 「結集」

Ep.26‐1 契約者は集う(前編)

 これはなのだ――――


 夕闇に染まる病院の待合室で、御厨翼はひとり沈思黙考していた。ガラス張りの仕切りの向こうで、象牙色のタイルの上を忙しなく行き交う患者たち。彼ら彼女らの顔に浮かぶ悲痛や焦燥さえも、彼が現在抱えている痛痒つうようのほんのひとかけらにも満たないだろう。彼は爪が肌に食い込むほど両手を握りしめ、廊下の先の病室内の姉妹の歓談を想像する。

 

 先日の摩天楼での戦いで彼が朱鷺山しぐれから得た能力者の情報、そのうちの一人、天秤宮……法条暁。その名前が指し示す人物が一体誰なのかをはっきりと確かめたとき、彼が感じた感情は、一種の「諦め」だった。頭では解っていても、自身がこれから辿るであろう皮肉的な決断には、冷静さを保てなかった。


 つまるところ、俺は。神になることで結花を幸せにすると誓った俺は。。既に幾度も傷つけられた彼女の笑顔を、さらに踏み躙ることになるわけだ。

 御厨翼と法条暁。 

 。どちらの命も保たれる未来はどうやっても在り得ない。

 法条結花の恋人と法条結花の家族。

 。どちらの願いも実現する世界はどうやっても造り得ない。

 

 法条結花という少女にとって本当に幸せなのは、一体どちらの死だ――――?


 解っている。そんなこと、解り切っている。それなら、せめて。せめて、どうか。

『どうか、あいつを幸せにしてやってくれ』


       ◇


「お姉ちゃん、もう帰っちゃうの?」

 妹は縋るように、自身の姉を仰ぎ見る。

「ああ、すまない。これからちょっと、予定があるものでな」

「そっか、それなら仕方ないね」

 妹は悪戯っぽく笑って、

「ひょっとして、男のひと?」

「結花……」

 その言葉が意味する重みを、彼女は知っている。

「大丈夫、もう大丈夫だから、わたし。うん、きっと今でも、ずっとこれからも、男のひとは怖いと思うけど。お姉ちゃんが選んだ人だもん、応援するよ」

 妹のいじらしさに、姉は思わず苦笑する。

「いや、生憎そんな相手は生まれてこの方出来たこともない。仕事、仕事、仕事さ。私にはそれしかない。お陰で結花には迷惑ばかりかけてしまった。何にも、してやれなかった。私を……恨んでいるか」

 自虐的な姉の言葉にも妹は嫌な顔一つせず、 

「勿体ないなあ。お姉ちゃん、美人なのに」

 少し俯いて、結花は続けた。

「何にもなんてこと、ないよ。うん、本音を言うなら少し怖くて厳しかったけど。お姉ちゃんは昔はずっと面倒を見てくれたし、遊んでくれたし、わたしを心配してくれた。仕事が忙しくなっちゃってからはあまり話せなくて寂しかったけど、それでも会えたときはいつも嬉しかった。お姉ちゃんは、たった一人のわたしの家族だもん。恨んでなんか、ないよ。そんなこと、あるわけないよ」

 病室のドアをゆっくりと開け、そのまま振り返らずに。姉はただ一言、ありがとう、と言った。


 廊下の途中で、見慣れた少年と入れ違う。彼はいつも、彼女のひとつ前かひとつ後の面会時間を希望していたから、こうしてすれ違うのも一度や二度ではない。言葉を交わしたのは一度目だけだから、彼のことはよく知らない。それでも、願わずにはいられない。

『どうか、あの子を幸せにしてやってくれ』


       ◇


 少年はただ一人、恋人の病室の扉の前で立ちつくしていた。いつしか、窓の外では雨が降り出していた。石畳に跳ね返る雨音さえも、彼の神経を蝕み始める。


 今の俺に、何をしてやれるというのだろう?

 投げかけてやれる言葉なんて思いつかない。彼女のためにしてやれることなんて何もない。

 今の俺は、何のためにこの場所へと来たのだろう?

 付き合い悪くてごめん、みたいな謝罪をしたいからか、自分がしでかしてきたことの懺悔をしたいからか、それとも今夜で逢えるのが最後になるかもしれないという一抹の不安からか。

 

「翼くん、いるんでしょ? 何してるの、早く入りなよ」

 控えめで大人しい結花には珍しい、朗らかな声音を耳にして、翼は意を決して病室のドアを開いた。

 病室に入っても、翼は一言も発せずにいた。どんな言葉を紡いでも、今の彼には嘘になってしまうと解っているから。だんまりを決め込んでいると、

「ねえ、さっき廊下で女の人とすれ違わなかった?」

 予想外の質問に、翼はなんとか返答する。

「あ、ああ……」

「あの人ね、実はわたしのお姉ちゃんなんだ。美人でしょ? それだけじゃなくて、弁護士事務所もやってるんだ」

「へえ、それは凄いな」

 ああ、知ってるよ。

「翼くんは鳳月学園の法学部受けるんだっけ。将来はやっぱりあたしのお姉ちゃんと一緒で弁護士さん?」

「ああ、多分な」

 残念ながら、もう。そんな未来はないんだ。

(結花……。お前は、大丈夫なのか?)

 空元気のように見える結花の様子が気にかかって、そう掠れた声で呟こうとして、止める。人の心配を出来る立場か。今一番大丈夫じゃないのは、他ならぬ俺じゃないのか。

「いつか、翼くんとお姉ちゃんとわたしとで、どこか遊びに行けたらいいね」

 その言葉を聞いて、翼は今度こそ何も言えなくなる。

「翼くん、どうしたの? 今日はなんだか元気ないね」

 病人に心配されるなんて、俺も、もう限界か。

 

 堰を切るように、翼は結花へと言葉を絞り出す。

「なあ、結花……。もし俺が、お前の大切な人間を殺したら、お前はどうする?」


       ◆


 得るべき答えは既に得て、定めるべき指針は既に定まった。

 そして、少年は戦場へと向かった。冷たくて暖かい、夏の雨に打たれながら。


       ◇


「もう、三日ですね。周さんがいなくなって」

 皐月から投げかけられた言葉にも反応を示さず、葉月は黙って古びた机の中心を虚ろな眼差しで凝視していた。

「姉さん、寂しいのは解りますけれど。仕方のないことだったんですよ。周さんにも何か事情があったんだと思います」

「うん、そうだね……」

「周さん、良い人でしたよね。人見知りであまり話せませんでしたけれど、もっと色々と話してみたかったです」

「うん、そうだね……」

 葉月は机の上に積もっていた小さな埃を払って、皐月を正面から見る。

「なんだか、不思議だよね。前まではずっと、あたしが弱虫なさっちゃんを慰めてたのに。これまでと立場が逆。これじゃ姉の面目丸つぶれだよ、あはは……」

「そんなこと、ないです。姉さんはいつだって、ずっと強い人です」

 慈しむように、労わるように皐月は机に突っ伏した姉の頭を優しく撫でた。

「好きだった……。あたし、好きだったんだ……、アマネくんのコト」

「ええ、解ってますよ。あの人が家に来てから、姉さんの笑顔が増えましたから」

 葉月は静かに嗚咽する。

「もう一回……。もう一回で良いから、抱きしめて欲しかった……! 守るって、言って欲しかった……! なのに、どうして一回喧嘩しただけで、いなくなっちゃうのよぉ……。何で? 何でぇ?」

 年甲斐もなく泣きじゃくる葉月を、皐月はそっと抱きしめる。

「ごめんなさい、姉さん。ずっと傍に居たのに、寂しさを解ってあげられなくて。ごめんなさい、もっと話したかったのに、話をできなくて。これからは、もっと姉さんと話しますから。これからも、ずっと姉さんの傍に居ますから。だから、泣かないでください……。お願いだから、泣かないで……」

「ごめんね……。もう、大丈夫だから。ごめんね、さっちゃん」

 泣き止んだ後、葉月は徐に身体を起こす。そして自らの運命を噛み締めるように、壁掛け時計の時刻を確かめる。いくら彼女が精神的に不安定な状況にあったとしても、通常ならここまで取り乱さないだろう。そう、彼女にとっては先ほど皐月と交わした抱擁さえも、この世で最後に人肌に触れる機会となるやもしれぬのだ。彼女に最後に残された家族とも、今生の別れとなるやもしれぬのだ。時刻は八月十二日、午後八時少し前。法条との約束の時間が迫ってきている。

「ごめん、さっちゃん。あたし、そろそろ行くね。アマネくんを探しに行かなくちゃ」

 皐月は止めない。彼女の想いを知っているから。

 葉月は身支度を整え、そして法条との集合場所へと向かう。去り際、皐月が、自身よりずっと寂しがり屋で臆病な家族が、堪えきれないように呟くのを、彼女は確かに聞いた。

「姉さんだけは、いなくならないでくださいね」

 葉月は皐月に、そして自身に固く誓言せいごんするように、ゆっくりと呟いた。

「大丈夫。安心して待ってて。お姉ちゃんは、絶対に帰ってくるからね」 

      


       ◇


 集合場所の小さな神社には、既に法条暁の姿があった。

「遅れてすみません、法条さん。行きましょう」

「その前に、験担ぎに少しお参りしていこうか」

 なにを呑気な、と思いかけて、法条暁という鋼鉄のような女性にもそんな遊び心があったのか、と葉月は思わず苦笑する。

「まあ、それも良いですね。お参りなんて暫くぶりです」

 境内への階段を登っていくうち、葉月はあることに気付く。

「そういえば、ここって……」

「ああ。私たち二人がアリスちゃんに石像に変えられた場所だよ。朱鷺山くんがいなかったら私たちは脱落済だったか。早いものだな、あれからもう一週間か」

「それって……縁起が悪いんじゃ……」

「私はさ、そういう風にはあまり考えなくてな。失敗できない何か大きな物事に挑む時はさ、成功した時のことよりも失敗した時のことを考えるんだ。何故かその方が逆に上手くいきやすい」

「それは……どうしてですか?」

 怪訝そうに、葉月は尋ねる。

「そう言われてみると不思議だ。どうしてだろうな……? 根っからの悲観主義なのかもしれないな、私は。ああ、それでも、大体の場合において、失敗するという恐怖が成功するという過信に勝る、からかもな」


 石段を登り切り、法条は葉月に切り出す。

「葉月君。ずっと言いたくて、言えなかったことなんだが。君にひとつ、お願い事があるんだ」


       ◆


 交わすべき言葉は既に交わし、誓うべき約束は既に誓った。

 そして、女たちは戦場へと向かった。冷たくて暖かい、夏の雨に打たれながら。






       

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