interlude:side「H」 虚飾の花束

 街外れの小高い丘の上にある展望台から、彼女は宵闇よいやみの迫る街を眺めていた。

「好きだったの、ここからの景色」

「確かに、いい眺めだな」

 彼女の言葉をそのまま反復するように、悪魔は呟く。

「秋になるとね、麓からの道も鮮やかに色づいて、とっても綺麗なんだよ? アマネくんにも、見せてあげたかったなあ……」

 くすんだ空に浮かぶ青白い月は、分厚い雲にさえぎられようとしていた。


「葉月……。さっきのはな、正直お前も悪かったと思うぞ」

「うん、解ってる」

「別にいいじゃないか。お前にだって恋人の一人や二人いただろう? あのヘタレに昔の恋人がいようがいなかろうが、未練があろうがなかろうが、そんなことは大した問題じゃない。大事なのは今、だろ?」

「……いないよ」

 葉月は展望台の手すりの上で腕を組み、その上に自身の頭を乗っけながら、そう呟いた。

「あたし、恋人なんていたことないんだ。恋愛なんてしたことないんだ。一度もね。もう21で、来週には22だよ? あはは、本当、恥ずかしいよね」

「そうか。まあ、恋愛なんてするもしないも個人の自由だ。あんなものの経験の多寡で人間の価値は決まらない。気にするな」

「そう、だよね。昔はそう思ってたよ。恋愛なんて下らない。あんなの不真面目な人間がするものだって。真面目に頑張っている方が、いつか必ず報われるんだって。中学の時は真面目に勉強して良い高校入らなきゃ、高校辞めてからは家族のために必死に働かなきゃ。あたしの人生はいつだって未来に向けた投資だった。だから、を楽しむ術を知らないんだよね」

 葉月は自嘲的に笑って言った。

「あたしさ、。昔はさ、大人って年齢が一定に達すれば、自動的しぜん自覚的とうぜんになれるものだと思ってなかった? でも、違うの。あたしは体も心もいつまで経っても子供のまま。ずっと時間が止まってる。結局さ、あたしは駄目だったんだ。「今」がないあたしには、大人になるための積み重ねが出来なかった。今なら解るよ。学校は勉強するためだけの場所じゃないし、家族も扶養しされるためだけの存在じゃない。皆、繋がってたんだ。生活のモノ全てが、大人になるために必要なこと。そして、あたしはそれを踏み間違えた」

 彼女は展望台から降りるべく、長い階段を下り始める。

「人生ってさ、辛いよね。どんなにやり直したくても、どんなに過去に戻りたくても、してきたことは変えられないんだ」

「ああ、そうだな。だがな、こうも言える。今からすることなら、変えられるってな」

 葉月は自身の悪魔を振り返り、照れたように笑って、

「ごめんね、あなた悪魔なのに。こんなこと言っちゃっておかしいよね。慰めてくれてありがとう。もう一か所寄るところがあるんだけど、いいかな?」

  

       ◇


 日はすっかり暮れて、西の空には分厚い雲が垂れこめていた。目指していた場所には先客があった。その人物を見止め、葉月は敵意の籠った語調で相手に問うた。

「どうしてあなたが、ここにいるんですか?」

 声を掛けられた人物はゆっくりと振り返り、そして意外そうな顔をする。

「おや、また会うことになるとは。奇遇だね、お嬢さん」

「それはまあ、二人とも生き残っているんですから、会うこともあるでしょうね。……そんなことを訊いているんじゃないです。質問に答えて下さい」

「なに、ここに眠っている六道りくどうやよいさんと、昔多少の面識があったという、ただそれだけのことだよ」

「……お母さんと、何処で?」

「高校と大学が同じでね。彼女とはいつも成績を巡って争う仲だった」

 葉月は目の前の人物の顔を正面から見つめて、問う。

「お母さんのこと、好きだったんですか?」

「嫌いだったのなら、わざわざこんなところまで花を供えに来ないよ。彼女は本当に素晴らしい女性だった。ああ、これは本当だ」

 噛み締めるようにそう言って、男は立ち去ろうとした。

「あたしと、戦わないんですか」

「今はそういう状況じゃないだろう。それに、知人の娘と殺し合うなんて無粋な真似はしたくない。僕は平和主義者なんだ。帰って小説でも読むことにするよ」

 その去り際の後ろ姿に、葉月は問う。

「お母さんが好きな小説、知っていますか?」

「ルース・レンデル『死が二人を別つまで』」

 そう答えた男は振り返り、問う。

「君の名前は何というのだね」

「如月、葉月です。変な名前でしょ」

「いいや、とても奥ゆかしい響きだ。大切にしたまえ、その名前」 


       ◇


 男が完全に立ち去ったのを見止めた後、葉月は人気のない墓前に座り込み、嗚咽を漏らし始めた。

「ねえ、ママ、ママ、聞いて……! 今日ね、初めてのデートだったの。葉月、頑張ったよ? 楽しんでもらえるように、喜んでもらえるように、精一杯尽くしたよ? なのに、なのに、なのに! ちっともあたしのことなんて見てくれなかった! 気にかけてもくれなかった!」

「おい、葉月……」

 幼女のように泣き叫ぶ彼女を見咎める悪魔に、葉月は振り返り言った。

「解ってる、解ってるわよ。? でも今だけは許してよ。お母さんの前でくらい、少しくらい弱い所を見せてもいいでしょう?」

 彼女の苦悩を悪魔は推し量れなかった。悪魔であるがゆえに。そう、自身の父親を殺めていようが、如何に戦闘で強かろうが、彼女は未だ、年頃の女性なのだった。 

「皐月だってそう。ずっとあたしを避けてる。あはは、そうだよ、家族には振り向かれないし、学校辞めてから誰も遊んでくれないし、二十二年間恋人は出来ないし、あたしなんて本当は誰からも必要とされてないんだ。誰もあたしを見てくれていないんだ。あたしは皆に、こんなに尽くしてるのに……。あはは、あはは……。ママ、ママ、寂しいよお。戻ってきてよお。?」

 虚ろな目で葉月は滔々とうとうと言葉を紡ぐ。周との繋がりが壊れ始めた今、彼女の心は大きくかしぎ始めていた。


「みっともないところ見せちゃったよね。ごめん」

 葉月は立ち上がり、自身の悪魔に謝罪する。

「いや、別に構わない」

 暫しの間思案した後、悪魔は口に出す。

「なあ、経験がないのが嫌なら、契約の強化ついでに俺とするか? 別に下心ってわけじゃない。悪魔は三大欲求なんてもんは当の昔に剥奪されて、もう必要ないものだからな」

「ありがと。気遣いだけでも嬉しいよ。でもね、それはできない」

 葉月は空を仰いで、恍惚とした表情で続けた。

「だって、処女はじめてって自分が心から好いた人に、心からの愛の証として贈るものでしょう? 真実ほんとうの愛の証を、悪魔になんてあげられないもの」

 真実の愛ってなんだ。いやその前に、お前の愛は重すぎる。だから今まで恋人が一人も出来なかったんじゃないのか。

 今の彼女に投げかけたら烈火のごとく怒るであろうそんな言葉を辛うじて飲み込んで、ベリアルは言った。

「お前も拗らせてんなあ」

。でも、もし終わった後にアマネくんだけ経験あったって解ったらショックだなあ。うっかり枕で殴り殺しちゃうかも。さっちゃんにも姉として言っておかなきゃ。付き合うなら自分が心から好いた人で、経験するなら相手も未経験な人にするべきだって」

 ああ、とんでもない女に目を付けられてしまったな、お前。悪魔ベリアルは密かに、周青年へと深い同情の念を抱いたのだった。 

 

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