Ep.25‐3 それぞれの距離
昏き水底から浮かび上がるように、彼女の意識はゆったりと覚醒していった。視界の端に捉えた電光掲示板は八月十一日の午後四時を示している。彼と別れてから丸四日以上が経っていた。欠け落ちた記憶を振り払うように、彼女は血の通っていない身体に鞭を打ってベンチから身を起こす。
別れ際の彼の寂し気な笑顔が去来する。紛い物の私は、何もしてやれなかった――――。いや、まだするべきことは残っていた。囚われの身の半身を、救い出さなければいけない。自分の身が消えていない以上、彼はまだ無事なはずだ。
「待っていて、藍。お姉ちゃんが、必ずあなたを助けてあげる」
宵闇の街中へと、彼女は歩を進めた。
◇
機器から発せられる青白い光に照らし出されたその部屋は、宛ら微力な光しか届かぬ深海の光景のようだった。ここは美桜市内の電気通信事業を一身に引き受ける電波塔、その最上階に位置する管制室である。権限を付された少数の人間にのみ立ち入りが許されるこの小部屋は、今やある人物たちによって占拠されていた。
「ねえ。前々から気付いてたケド。君ってひょっとして天才だったりする?」
片時も休むことなく、キーボードに女性のような繊細な作りの十の指を走らせていた少年は、自らの悪魔へと振り向くこともなく返答する。
「別にそんな大層なもんじゃない。はっ……、天才、ね。俺はその単語がこの世のあらゆる言葉の中でも一等嫌いでね」
曰く、「天才」は二種類に大別できる。
「天才って言葉にはな。ある種の「選択」がある。誰かに選ばれたか、選ばれなかったかという、な。それが堪らなく気に障るんだよ。他人に選ばれるのなんて冗談じゃない。俺は自分で選ぶ。選んだ。二度と俺にそんな言葉を投げかけるなよ、ルサールカ。俺は天才なんかじゃない。ただ、全てにおいて世の無能たちよりも少しだけ努力しただけだ」
淡々と言葉を紡ぎながらも、彼の両手は目まぐるしいスピードで次から次へとキーを叩き、プログラムを生成していく。
「フツーの人はそんないちいち深く考えてないって。自分たちよりも十歩とか百歩先を行っている人たちを、恨めしそうに遠目からそう呼んでいるだけ。大体そんな超人たちをさ、
タン、と一際大きな音が軽快に響いた。
「成功だ」
歓喜も感嘆も、今の彼には不必要な感情だった。ただ粛々と、目の前の計画を推し進めるだけ。そんな彼に代わるように、少女悪魔は歓声を上げた。
「すご~~~~い!! これであのデカブツも、あたしたちの思い通りってわけね。凄いよね、この街。いくら宇宙開発に力入れてたからって、あんなものまで置いてあるなんてさ」
「賛辞はいらん。それよりあいつらは見つかったか? あれから丸二日も猶予を与えたんだ。まだ見つかってない、なんてことはないだろうな」
モニターから半日振りに顔を上げ、翼は悪魔へと視線を向ける。彼女に任せていた索敵の成果を、問いただすためである。
「あ~~、ごめん。この街で水辺のあるところはほぼ全部、しかも同時に見続けていたんだけどね、どこにも映ってないんだよね。でも契約者が頑張ってる時にさ、悪魔が役立たずじゃ申し訳が立たないじゃん? それでルカちゃんちょっと奮発して、上下水道全て、果てはこの街の全世帯の台所、水洗トイレなんかも逐一覗いちゃったりしたわけ。大変だったよ、もう視神経が焼き切れるかと思っちゃったくらい。でもさ、そこまでしても映らなかったの」
「そうか……。お前に落ち度はない。俺の采配ミスでもある」
ルサールカの水鏡遠視によって翼が探し出そうとしていたのは他でもない、先日全校生徒を処断した際に取り逃した二人の契約者のことである。生徒の中に自分以外の契約者がいることは、低い可能性とはいえ彼とて想定済みだった。しかし、まさか二人もだとは。更には片桐と自分とで作り上げた鉄壁の包囲網から脱する術までも有していようとは。決して油断していたわけではない。それでも自らの想定の遥か上を行く事態の深刻さに、二日前の彼が少なからず焦燥を抑えきれなかったのも事実だった。
正体不明の敵と鎬を削り合うこのバトルロイヤル、自らの素性・能力が敵へと知れ渡ることは実際のそれよりも遥かに致命傷と成り得る。彼ほどの人間が、その前提の重要性を理解していないはずがなかった。すぐさま宝瓶宮と金牛宮の本名・素性を調べ上げ、一刻も早く亡き者とするべく、ルサールカの水を介した遠見の能力により居場所を探っていた。しかし敵もさるもの。金牛宮は自身と宝瓶宮、朱鷺山しぐれを一早く遠視の届かぬ山間部の小屋へと隔離。この二日間の一切をそこから一歩も出ずに過ごし、結果として翼の包囲網を辛くも擦り抜けていた。一見慎重すぎるようにも見える金牛宮の迅速な判断は、翼の前では功を奏したと言えた。
「まあ、いい。それより問題はこれからだ」
翼は目下の問題に頭を巡らせる。まだだ……あと一つ、いや二つか。駒が足りない。残った七人もの契約者の悉くを抹殺するには、如何せん戦力が心許無い。自分と、片桐と、それから……。やはり、動くのが早すぎたのか……? 御厨翼は何も、自らの計略に絶対の自信を持っているわけではない。状況に応じてそれらを臨機応変に再構成し、より堅固なものに再構築する柔軟さも彼は持ち合わせていた。そも、一個人が想定できる状況には、どうやっても限りがある。いくら策を巡らしたところで、他人の行動を完全に推測するなど人間の身では不可能だろう。推測対象が個ではなく群体であるならばなおさらだ。現実の舞台は打つ手がおのずと限られている
「え~~~~っと。落ち着いて聞いてね。今からここに、二組の悪魔憑きがやってくるよ。電波塔の近くの池に映った。こんな郊外の
珍しく言葉を詰まらせた自身の悪魔を訝し気に見やり、翼はある種の違和感を覚えた。ルサールカと過ごしてきたこの二週間ほどの短い日々の中でも、彼女がおくびにも出さなかった表情。それが何であるか言葉として明確に認識する前に、ルサールカの変調は消え去ってしまった。
「……何か、なよなよした感じのお兄さん。どうする? 藍ちゃんで掃っとく?」
翼の心はこの想定外の事態においてさえ、冷静に冷徹に状況を検分し……やがて一つの確固たる解を弾き出した。思わず口の端から笑みが漏れた。それは翼が予め用意していたいくつかの計画のなかでも、完璧や完全とは程遠いものだった。通常なら
「ルサールカ。いいか、よく聞け。今からだ」
少年の声は静かに、されど純然たる決意をもって響き渡った。
「今からって……。ちょっといくらなんでも早過ぎない? 準備も万端とは程遠いし……。まだ時間はある。あの子たちの行方も掴めてないのに……」
動揺している少女悪魔を尻目に、翼は努めて平静だった。
「文句は言わせない。いいか、計画通りにな」
「……解った。まあ、うまくやるよ」
ルサールカは思案したのち、彼へと言葉を投げかける。
「時間に余裕があるならさ。ユカちゃんに会ってきたら? ほら、いくら射程からずれてても万が一ってこともあるじゃん?」
翼は顔を上げ、そして窓の向こうへと目をやった。夕焼けで燃えるような街並みの中に息づく温かな人々の営みを、彼は確かに感じ取る。
「そうだな、それも悪くない。この街が無くなる前に、別れを告げてくるよ」
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