第四章 「恒久平和のために」

二十二節 「報復」

Ep.22‐1 崩壊への階(前編)

 階下には不快感が充溢じゅういつしていた。媚びた視線を送る水商売風の女。髪を派手に染め下品な声で嗤う大学生の集団。見るからに卑しそうな背格好の中年の男。人馬宮、御厨翼が憎み蔑み疎んじてきた、ありとあらゆる不快なモノが吹き溜まっていた。まるでこの世から彼が嫌いなモノをありったけ、このバーへ集めたみたいに。翼は胃の底からせりあがってくる不快感を戻さないように、ひとつのテーブルへと確固たる意志を以て歩みを進めた。高級そうな服を着、中身のない自慢話を女の前で延々と垂れ流している茶髪ピアスの男の前で、彼は歩みを止める。

「お前が早川慶太か」

 不意に声を掛けられ、不快そうに振り向く男。

「あん? 誰だ、お前」

「法條結花という女の子を知っているか」

「知らねーよ、つうかいきなり何だよ、邪魔するなお前」

 翼は苛立ちを抑えきれず、語気を荒げて聞いた。

「質問を変えよう。お前とその仲間は、女子高生に乱暴を働かなかったか」

 男の顔がみるみる歪んでいくのが、はっきりと見て取れた。

「ねえちょっと、それってどういうことなの」

 先刻まで早川の益体のない話を聞いていた女が、怪訝そうに彼を見た。

「お前は黙れ。あーそうか、そうゆうこと。お前、あのJKの知り合い? 兄貴か? それとも恋人だったりして! なに、訴えんのか? 無駄だって、俺の親父が揉み消すからさ。それに少年法ってのもあるしさ、残念だったねお兄さん」

 臆面もなく罪を認める男に殴り掛かろうとする自分を押し殺し、翼は低い声で命じた。

『ベラベラと余計なことを話すな。聞かれた質問にだけ手短に答えろ』

 途端に、早川青年の身体が弛緩し、

「はい、僕は、三人の友達と、女子高生を輪姦しました」

 翼は続ける。

「他の三人の名前は?」

 ぶつぶつと名前を読み上げる青年。その顔は強張り、瞳孔に光はない。死にかけの金魚みたいに、パクパクと口を開閉している。言葉には意思も感情も籠っていない。翼がする質問に、どこまでも無機質に答えていくだけ。早川の横にいた女は豹変したように従順になった早川の様子を見、不審がっている。

「……お前は彼女にしたことに対して、悪いと思っているか、少しでも反省しているか」

 御厨翼は、人間が嫌いだった。でも、それでも、それだからこそ、きっと何処かで人間の善性を信じていた。信じていたかった。そう、次の言葉を聞くまでは。

「思って、ないです。少しも、反省して、ないです」

 翼は目を伏せ、少し悲しそうな笑みを浮かべた後、

「そうか……。じゃあ、お前は生きる価値のない人間ゴミだ」

 胡乱な目で空を見つめる早川に右手を翳し、そしてあまりにも冷たい声でこう告げた。

『出来るだけ苦しんだ後に、自殺しろ』

 さあて、どうなるか見物だな。彼はカウンター席へ移動し、遠くから様子を覗った。早川はびくっと大きく身体を震わせたあと、右手をゆっくりと先ほどまでステーキを刻んでいたナイフに這わせた。

 翼は片時も見逃さないよう遠くのテーブルを凝視する。先ほどの女が不安そうに早川を揺さぶっている。

「ねえどうしちゃったのよ、しっかりしてよ」

 何だよお前は。そんな害虫に気を掛けるな。触れるな。取り乱すな。それじゃあまるでそいつが被害者みたいじゃないか。違う。そいつは絶対的な加害者だ。頼むからそんな奴に関わらないでくれ。そうでないと、お前も、お前にも能力を使って――。翼の思考が過激さを増す中、遂に早川はナイフを大きく振り上げ、そして深々と突き刺した。早川は力任せにナイフを引き抜く。再び刺す。胸を、腹を、首を、顔を、額を。滅多刺しにされた全身から止め処なく噴出する赤黒い液体。女は悲鳴すら上げない。いや、あまりの予想外の出来事に上げられない。惨憺たる様に翼は思わず目を逸らした。

「何で、だよ」

 驚きの声は他ならぬ翼自身の口から洩れたものだった。

 ああ……助からない。もう、


 女が呆気に取られた顔のままテーブルに崩れ落ちるのを待たずして、早川は次の標的ターゲットにしたのであろう中年の会社員の心臓に凶刃を突き立てていた。沸き起こる悲鳴。猥雑ながらも一応の秩序は保たれていたバーは、一転して阿鼻叫喚の地獄と化した。早川は奇声を上げながら近くの人間に斬りかかっている。翼はカウンターの向こう側に身を隠し、歯軋りする。駄目だ、もう所構ってはいられない。

「くそっ、おいっ、ルサールカ! 見ているんだろ、出てこい!」

「はいほーい、こりゃまた何か面白いことになってるねえ。一体どんなご用件かにゃ?」

巫山戯ふざけている場合か! 見れば解るだろう! 俺はあいつに自殺しろ、と命じたんだ! なのに何故他人を殺す? まるで意味が解らない!」

「あ~~、そんなこと? そうだね、何でだろうねえ?」

 ルサールカは真剣な顔で少し思案した後、

「こうは考えられないかな? つまり、

「どういう……ことだ」

 翼は錯綜する思考を必死に押しとどめながら、そう自らの悪魔に問うた。

「だからあ、キミが「出来るだけ苦しめ」とか変な命令するからだよ。キミか慶太くんのどちらかが、そう認識してたからじゃないの?」

 翼は黙りこくった。彼女の言は彼の理解を遥かに超えていた。 

「まあ百聞は一見に如かずっていうかあ、ちょっと慶太くんの顔よく見てみ?」

 翼は早川の顔を遠目から見た。その顔は何故か、酷く悲しそうに、苦しそうに見えた。意思を剥奪され、殺戮を行うだけの機械と化した手足。絶望と諦観とで塗り潰されながらも、早川は翼の下した命令に必死に逆らっているように見えた。

「辛いんだろうねえ、悲しいんだろうねえ。本当は人なんて殺したくないのに。彼女も自分で殺しちゃってさあ。可哀想にね~~。まあ、悪魔のあたし的には? ニンゲンの不幸とか苦しみとか大好物だし? 万事オッケーって感じなんですけどねっ!」

 邪気のない笑顔でこの上なく邪悪なことをのたまう自身の悪魔にも、「言葉で人の意思を捻じ曲げ、意のままに操る」という自身の権能にも、もはや翼は恐怖以外の感情を抱けなかった。彼は今になって漸く認識した。そして、その認識はあまりに遅すぎた。

 ああ、俺は。――。


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