十六節 「家族」

Ep.16‐1 法条暁の受難  

 法条暁は、優秀なだった。時に冷徹に、時に温厚に、彼女の弁舌は法廷を支配した。限りない悪を退け、他の誰よりも正義を信奉する彼女を知る人々は、彼女を正義の女神ユースティティアと呼んで深く崇敬すうけいしていた。

 人権派弁護士に転向してからは表舞台から退いたものの、彼女の威光と実績は褪せることなく人々の間に膾炙かいしゃしていた。

 彼女は幸せだった。人々から感謝され、「正義」を貫ける今の職業はまさに彼女にとって天職であった。だが、彼女は気付かなかった。いや、気づけなかった。

 そう、正義ひかりを背負うものの側にこそ、最も暗いかげが存在していたことに。

 彼女は家庭を省みなかった。妹のことは、とうとっくに自立した大人として扱っていた。私などが道を示さなくても、結花ゆかは歩いていけると、彼女はずっと信じていた。

 彼女は理解できなかったのだ。自分が当たり前に持っている強さが、他人にも備わっているとは限らないという、当たり前の事実に。


 そして暁は今、最大の罰を受けている。

「間に合って、くれ」

 歯軋りを押さえきれず口の端から血が滲む。彼女はそれを意にも留めず、タクシーの運転手に行き先を告げる。

「美桜市立病院まで」

 声は彼女も驚くほど冷たかった。

 思えば、自分が最後に妹の結花と会話したのはいつだったろう? 仕事に夢中で、私はずっと彼女を放置してきた。あの子はずっと、孤独に耐えていたのか。

 医師曰く危険な状態とのことだった。覚醒の望みは薄く、目覚めたとしても脳に深刻な機能不全が起きる可能性が高いと告げられ、暁の視界は像を上手く結べなくなった。車窓からの景色は色を失い、糖蜜色とうみついろの街灯の灯りだけが次々と後ろへ走り去っていく。まるで世界が、暁を一人置いて過ぎ去ってしまったかのように、彼女の心は果てしない寂寞せきばくの荒野に置き去りにされていた。


 永久とわかと思われた数十分が過ぎ、彼女を乗せたタクシーは病院の前に到着する。

 タクシーの運転手は暁に一瞥をくれると、

「そんなこの世の終わりみたいな顔しなさんな。あんたの世界は、まだ終わってないんだから」

と、何やら警句じみた言葉を暁に残し、走り去っていった。

 暁は煤色の病院を見上げる。まるで捕らえたものを決して逃さぬ監獄のようだ。ここに、彼女がずっと置き去りにした妹が、触れ合うことをしなかった家族が、収監されているのか。


 暁は階段を駆け上がり、神にも祈るような気持ちで、病室のドアを開けた。

「あんたが、結花の姉か」

 病室には先客がいた。硝子細工がらすざいくを思わせる線の細い体躯たいく、眼鏡を目深にかけた知的な顔立ち。多少の気難しさを匂わせ、どこか全体的に危うさを感じさせるものの、極めて均整の取れた顔立ちの少年だった。面皰にきびひとつない陶器のような肌と、中性的な顔立ちから、白皙はくせきの美男子と大袈裟な表現を用いても差し支えは無いだろう。しかし今、抑えきれない苛立ちによって少年の美貌は激しく歪んでいた。

「今の今まで、何処で何をしてたんだよ、あんたは!? たった一人の家族を放り出すほどの用事でもあったっていうのか?」

「……君には関係のない事だ」

 暁は努めて冷静に振る舞った。そうしなければ、ベットに人形のように横たわる妹にすがってしまいそうだった。

「結花は……こいつは意識がある間ずっとあんたの名前を呼んでた。なのに、なんであんたは一番重要な時にこいつの側にいなかったんだよ!? もう目を醒まさないかもしれないんだぞ!? ……死ぬかもしれないんだぞ!?」

 少年の怒りは頂点に達したのか、彼の形相は修羅を思わせるほど歪み、彼の剣幕は病室の空気を強く震わせていた

「過ぎたことをいくら悔いたところで、叶わぬ思いをいくら嘆いたところで、事実はなにも変わらない。私は……」

 暁は言葉が続かなかった。

「弁護士サマだかなんだか知らないがな、あんたは世界で一番の大馬鹿だ。くそっ、ふざけんなよ」

 少年は瞑目する結花の顔にそっと手を這わせた。

「そうだな……君の言う通り、私は世界で一番の愚か者だよ。私に結花のかぞくである資格はない」

「わかったらもう……出てけよ。これ以上ぐだぐだ話されたら、ぶん殴ってしまいそうだから」

 暁は目線を落とし、もうこの場にいる意味はないことをはっきりと悟った。

「ああ……すまない。最後に一つだけ訊いていいか? 君は、結花とはどういう関係だ?」

 少年は少し照れたように俯いて、

「恋人、だよ……」

「そうか。君のような人に巡り合えて、結花は幸せだったろうな」

 暁は静かに病室のドアを閉めて、その場から立ち去った。


       ◇           


 少年は暫し沈黙を保っていたかと思うと、隣の空いたベッドを乱暴に蹴り飛ばした。

「くそ、本当に帰りやがった、あの女。意地でもこの場にいさせてくれって言うところだろ、あそこは」

 少年はふらふらと立ち上がり、暫く病室を歩きまわった。

 ずっと連絡の取れないことを不審に思い、彼女の家に行って目の当たりにしたものは、「お姉ちゃんに会いたい」と呟く虫の息の結花の姿だった。急いで病院に連絡したものの、医師に先ほど淡々と告げられたのは、絶望的な言葉の数々。 

 左手首の大量失血と、重度のガス中毒。回復は絶望的ですね。ご家族の方はどちらに? もし覚醒したとしても脳に重度の障害が――――。

 

 少年は思案していた。

「ああ、決めた。決めたぜ。結花、お前を助けるためなら俺は何だってやる。お前には、返しきれないほど借りがあるからな――」

 彼は彼女と初めて会った日に思いを馳せる。儚げで、触れれば今にでも崩れてしまいそうだった彼女。それでも、独りきりだった自分に、初めて興味を持ってくれた少女。

 世の中の人間など、全て下らないと思っていた。しかし特別な人間であることを貫けるほど彼は強くなく、また凡夫たちと馴れあうほど彼は弱くなかった。彼はいつだって独りだった。

 そんな彼に、ある日突然芽生えた仄かな恋心。決して色褪せない希望。法条結花は彼――――御厨みくりやつばさにとって何よりも大切な、誰よりも守りたい相手だった。だから、たとえほんのわずかな希望だとしても、救える手段があるのならば彼に迷う理由などない。

。『法条結花の意識を戻したい』」


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