十七節 「決意」

Ep.17‐1 殺戮の悪魔

       

 朱鷺山しぐれは独り、法条の事務所で目を醒ました。意識は朦朧もうろうとし、思考は搔き乱されて統一を保てない。それでも、彼女ははっきりと自覚した。

 自分はまた、失敗したのだと。また、人の役に立てなかったのだと。

 大企業の令嬢として生を受けたしぐれにとって、「人にとって価値のある人間になること」は至上命題だった。自分の価値を示せなければ、生きる意味はない。他者より優れていなければ、生きる価値はない。それが彼女に与えられた帝王学だった。特別な人間であることを強いられた彼女は、しかし不幸なことにどの分野においても優秀とは言い難い人間だった。そんな彼女に親は早々に見切りをつけ、彼女の妹の教育の方を優先させた。

 彼女はいつだって失敗ばかりだった。そしてある日悟った。自分は特別な人間でもなんでもないんだと。ただ運悪く生まれる家を間違えた、ただの凡才なんだと。その気付きは、彼女の心を溢れんばかりの無力感で満たした。


 しかし、あれだけ覇を轟かせた朱鷺山グループでさえ、彼女がこの世界で最も強いと思っていたものさえ、姿を消すことになった。一家無理心中により丸焦げになった両親や妹の死体を見て、彼女は笑った。自分が最も恐れていた人間たちの末路も、こんなものなのか。じゃあ、凡人以下の私は、どうすればいいんだろう?


 しぐれは葉月や法条にこの先見捨てられないかと心配になった。彼女はいつもそうだった。周りの人間に置いていかれていくことを、見捨てられることを、何より怖れている――――。

 この先のことを考えて、しぐれは独り、静かに嗚咽おえつした。


       ◇          

 

 僕と葉月は、しぐれがあの悪魔を「視た」という駅前のホテルへと小走りに向かっていた。

「やっぱり、しぐれちゃんの頑張りを無駄には出来ないよ。せめてあの悪魔が何処を根城にしているのか、それだけでも突き止めなきゃ」

 彼女の横顔は真剣だった。僕が口を挟む余地はどこにもない。

「あの悪魔は……放っておいたら何の罪もない人たちを日に日に増して殺していく。そんなの見過ごせるわけないよ。法条さんやしぐれちゃんが動けない今、現場に向かえるのはあたしたちだけなんだから」


 程無くしてホテルの前についた。

「これって……グランドとかなんとかついてるから立派なホテルかと思ったのに……」

 葉月が恥ずかしそうに下を向いた。

 僕は気まずそうに建物の外観を望む。さんざめく装飾ライト。入口の謎の噴水。怪しげな看板。それはもう、絵に描いたような見事なラブホテルだった。いやちょっと待った、なんでしぐれはここが判ったんだ?

 そんなことを僕が考えていると、

「おい、何ぼんやりしてる。二度目だから流石に分かる。奴はまだ中にいるぜ」

 葉月の悪魔、ベリアルの一声により、僕たちの間に流れていた気まずい雰囲気は露と消えた。僕はこの悪魔が少し怖くて苦手だったが、この時ばかりは流石に感謝の念を抱いた。

「そうね、行きましょう」

 僕と葉月は、ゆっくりと怪しげなネオンの揺らめくホテル内へと入っていった。程無くして鼻をつく、血と臓物の匂い。折り重なる裸の男女の死骸が、そこら中に転がっている。どの部屋を開けても、鋭利なナイフのようなもので切り刻まれた手足や首が転がっているばかりだった。まるで安っぽいホラーハウスだ。……死体が本物でなければの話だが。

「なによこれ、酷い……」

 葉月は呆然として言った。といっても常に警戒の手は緩めず、その瞳は前方の薄暗闇へと向けられている。

「見事なまでの皆殺しだな、流石に一級悪魔は躊躇いがない」

 ベリアルが呆れたように呟く。

 僕はもう、感覚がとっくに麻痺していた。死体が機械か、人形のようにしか見えない。

「待て。一度止まれ。奴はこの上の階にいる」

 ベリアルが静止を促す。僕たちは息をひそめ、暗闇から上階へと続く階段を見つめた。

「どうする?」と僕が口を開きかかけた、まさにその時。

 階段の手すりの影がまるで意思を持ったかのようにゆらゆらと立ち上がり、鞭のように躍動して僕たちに襲い掛かった。

 葉月の判断は早かった。即座に権能イノセンスを発動し、僕の身体を掴み華麗なバックステップ。着地と共に竹刀を構え直す。

「見つけたぞ、羽虫め」

 嫌な笑いを浮かべて階上から姿を現したのは、あの悪魔の契約者、成瀬雅崇なるせまさたかだった。

「白羊宮は……死んだはずじゃ?」

 葉月は動揺したのか、彼女の悪魔を仰ぎ見る。

「そうか……今度は契約者の身体まで乗っ取ったのか」

 ベリアルが気色悪そうに目を細めた。

「いかにも。こやつはなかなか使い心地も悪くない、我はやはり人間選びには長けていたようだ」

 彼の周りの影は触手のように蠢き、今にも葉月に襲い掛からんと機を窺っている。

「この前は不意打ちだったけどね……今回は真っ向勝負よ。もうこれ以上、あなたに好き勝手にはさせない」

「それはどうであろうな……万全でなかったのはこちらとて同じ。我はあの時は幼子おさなごの憑依体であったが故」

 互いに睨み合う両者。僕は固唾を飲んで成り行きを見守った。

 ホテルの廊下に月明りが差し込み始め、両者のシルエットを浮き彫りにする。

 音が、爆ぜた。葉月は僕の前から一瞬で立ち消え、目前の悪魔に突進する。対する悪魔も、足元の影を躍動させ彼女の手足を絡めとろうとする。攻防は一瞬だった。要は、前しか見ていなかった者と、後ろも視野に入れていた者の違い。葉月の突進は道半ば程で封じられた。葉月の後ろから彼女を締め上げているもの。

「ふん、所詮はこの程度か。我の権能『影の皇国シャッター・アイランド』が操れるのは自分の影だけではない。このように繋がっていれば、お前たち自身の影も操れる。特攻は愚策だったな、女よ」

 悪魔の影が葉月の影と重なった瞬間、勝負はついてしまった。彼女がするべきことはいかに勝つかではなく、いかに僕と一緒に逃げるかだった。僕は口を噛み、そしてあまりにも単純な解決策に至った。

「首を斬るか、股から真っ二つに裂くか。死に方としてはどちらが好みだ?」

 自信に溢れ悪魔がそう言うのと、僕が灯りのスイッチを押すのは同時だった。影は一瞬にして消え去り、葉月は解放された。

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