Ep.5‐2 運命の夜Ⅱ

 壮麗そうれいな屋敷の中を一人歩いていると、私は世界にひとり取り残されたようなどうしようもない寂寥感せきりょうかんを抱いてしまう。艶やかな紋様もんようの壺、色彩鮮やかな絵画、廊下をぼんやりと照らす行燈あんどんの揺らめき。一定の間隔をおいて陳列された品々は、美術館の空気を彷彿ほうふつとさせる。綺麗だけど、綺麗すぎて落ち着かない、あの息苦しいまでに張り詰めた清澄な空気を。先輩はいつも、こんな広い屋敷に一人で住んでいるのか。壁に掛けられた少女の画は、今の私の気持ちを代弁するように、額の中で不安げに私を見つめ返している。空っぽの長い廊下に、私の靴音だけが寂しく響いていた。


 程無くして、廊下の突き当りに行き当たった。そして気付く。地下への階段がゆったりとその口を広げているのを。私は先輩の言葉を思い返す。踵を返そうとして、キン、となにか金属がリノリウムの床を打つ音を聞いた。

「あっ」

 さっきデパートの服飾屋で購入した小さな指輪が、サイズが合わなかったのか私の指から抜け落ち、地下室の階段の中へ音を立てて消えていった。

 どうしよう。動悸どうきが荒くなる。私は指輪が抜けた空っぽの指を見つめた。別段高価なものではないし、また買い直せばいい。だけどそのデザインはとても気に入っていて、そして明日は初めてのデートで……。

「少しだけなら、大丈夫だよね」

 自分に言い聞かせるように、私は地下室への階段をゆっくりと一歩一歩降りて行った。


 指輪は地下室の扉の前で止まっていた。私は屈んで指輪を拾い上げる。すると、扉の向こうから何かを引きったような物音がした。ずるずる、ずるずる。空いた窓からの微風で軋む、無機質な扉の音ではない。もっとこう生々しい、何かが、確固たる意志をもって出している音。

「誰か、いるの?」

 返答が返って来ないことを分かっていても、私はそう問わずにはいられなかった。

やめよう。もう引き返そう。先輩が不信がる。私はばくばくと脈打つ心臓を押さえ、深く息を吸い込んだ。そして今しがた下った階段をかけ上がろうとし――その声にもならぬ声を聴いた。

「……て」

 つむじ風のように、ひゅうひゅうと鳴る音。ずりずりと床を這っている音。

 意を決し、私はドアノブを回した。きいい、と嫌な音を立てて、内側に開く扉。

「……けて」

 その刹那、扉の向こうに現れたものを見て、私は声にならない悲鳴をあげた。

「たすけて」

 そう掠れるように呟いたのは、裸の少女の半身だった。彼女の胸から下には何もなく、彼女はもがく様に両腕をばたつかせていた。彼女が這いつくばったらしい道には、ただどす黒い染みだけが広がっていた。

「おや、食事中に客人ですか。いけませんよ、お嬢さん。淑女たるもの、時分は弁えなければ」

 蚯蚓みみずのように這い回っている少女の下半分を丸飲みにしようとしている人ならざるモノ――悪魔を見て、私は短い悲鳴をあげてその場でへたり込んだ。

 悪魔は少女の両足を力任せに引き千切り、ばりばりと音を立てて彼女の腰部を咀嚼そしゃくする。

 私はただ、ぶるぶると首を横に振っていた。

「言ったはずだよ、地下室には入ってはいけない、と」

気付けば私の後ろには霧崎先輩がいた。

「とても残念だ、三神麻里亜さん。君とはいい友好関係を築けると思ったのだが……私は君を殺さなくてはならなくなった」

 霧崎先輩は心底残念そうに言った。

「どういうことなんですか、なんで先輩がこんな酷いことをするんですか? いや、まず何で先輩の家に悪魔が……」

「質問は一つずつしてくれよ、まあいい。まずは君にはこれを見てもらおうかな」

 部屋全体をパッと明かりが照らしだした。そして自分の瞳孔どうこうに映ったものを見た私は、いますぐに自分の両目をこの手で潰したくなる衝動に駆られた。

 部屋中の棚に並べられたのは、液体の入ったびんだった。中身は光が反射していてよく見えない。それでも、見えてしまった。判ってしまった。

「うぐっ」

 私は思わず嘔吐した。

 壜を満たすホルマリン溶液の海の中で海藻のように揺蕩っているもの。それらは全て――かつて生きていた少女の一部だったもの。眼球があった。毛髪があった。手首も脊髄も乳房も太腿も、子宮さえもあった。

「うっ、うええ」

 また嘔吐して、ぜいぜいと喘ぐように呼吸する。いつしか私の視界はぼやけていた。脳がうまく像を結んでくれない。体の全神経が、今ここにある現実あくむを拒絶しようとしている。私は眩暈を堪えながら、なんとか言葉を絞り出した。

「先輩が、そうだったんですね」

 霧崎道流は、危険だった。そう、解かっていたはずなのに――。

「ああ、私が少女連続殺人の犯人だよ」

 霧崎道流さつじんきはそう言って、私の周りをぐるぐると歩き始めた。

「なんで、どうしてなんですか、どうして先輩みたいな人が――」

「失望したかい、それとも絶望したのかな。私の正体がこんなものだと知って」

 先輩は歌うように言った。

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