五節 「運命(前)」

Ep.5‐1 運命の夜Ⅰ

 三神麻里亜が神を信じなくなったのは十二歳のとき、家族を失ってからだった。

 それまでは信じていた。怖かったとき、辛かったとき、彼女はいつでも神様にお願いしていた。だから、両親と兄の訃報ふほうを聞いたときも当然そうした。

 『いつか家族が何事もなく帰って来ますように』、『早く悪い夢から醒めますように』、そう神様に祈っていれば、願っていればきっといつかは報われる。そう思っていた。

 だけれど。家族はもう二度と帰って来なかったし、起きてしまった事故じじつは変えられなかった。どんなに強く願っても祈っても、残されたのはただの無力感げんじつだけだった。

 彼女は悟った。神とは、人間が幻視するまじないに過ぎないことを。

 彼女は諦めた。自分の身に降り掛かった不幸うんめいから逃れることを。

 彼女は憂いた。自分の心の中にはただ一つの願望みらいもないことを。

 そうして彼女は神を信じる心を、すなわち自分の中の理想ねがいを切り捨てたのだった。


       ◇


 目が醒めると外はすっかり暗くなっていた。私はベンチからゆったりと身を起こした。馴れない買い物で疲れてしまったのだろうか、眠くなると何処彼かまわずうたた寝してしまうのは私の悪い癖だ。デパートの客はまばらになっていて、私の周りには誰も……いや、違った。微笑ほほえみを浮かべながら私の横の席に座っているのは……。

「こんなところで寝ていたら風邪を引いてしまうよ、三神麻里亜さん」

「奇遇ですね、霧崎きりさき先輩。こんなところで何をしているのですか」

 私は寝ぼけ眼を擦って、少し厭味いやみったらしく言ってみた。

「じっくり見ていたのさ、君の可愛い寝顔をね」

「気持ち悪いですよ」

「冗談だよ」

 嫌な顔一つせず、鷹揚おうようと構えているのは流石だった。

「もう夜も遅い。近頃は危ないから、早く帰りなよ」

「いえ、夕飯を食べてからにします」

 私は少し怯みながら言った。どうしてか、この人を見ると私は不安を覚えてしまう。彼女の相貌そうぼうは一見完璧に見えて、指一本でも触れれば崩れ去ってしまうような危うさを抱えている美術品を思わせる。

「そうか、ならどうだろう、良かったら私の家で夕飯をご馳走ちそうさせてくれないか」

 しまった。墓穴を掘ってしまった。少し躊躇ためらったものの、断るのも悪い気がしてしまった。それに、結花ちゃんが言っていたことが真実なら、霧崎道流の境遇は私と似ている。ひょっとして今まで先輩を避けていたのは同族嫌悪から来るものだったのかもしれない。私は、広いテーブルに自分ひとりで座る寂しさを知っている。たった一人で作った食事を、たった一人で食べる切なさを分かっている。だからどうしても断れなかった。

「先輩がそうおっしゃるのなら、お言葉に甘えて」

「良かった。じゃあ私の家へ案内するよ」


       ◇              


 霧崎邸は駅前のデパートから程近い、閑静な高級住宅街の中ほどに位置していた。瀟洒な外観からは想像もつかぬ、シャンデリアや衣装箪笥、暖炉などの豪奢ごうしゃな西洋の内装の数々。絢爛けんらんな道流の容姿に引けも取らぬ豪邸だった。

「凄いですね」

 私は心から感嘆した。なるほど、一流の人間は一流の環境で育つというわけだ。

「海外の調度品を集めるのが、両親の趣味でね」

 私は少し躊躇いながらも聞くことにした。聞かないわけにはいかなかった。

「あの、失礼ですが、ご両親は……」

「いないよ、不幸なことにね」

 それから先輩は、高級そうなマホガニーの机の上で食事の準備をしながら、ゆっくりと語り始めた。三年前、彼女が十五歳のとき、強盗に両親と姉を殺されたこと。姉は透流とおるさんといって、先輩以上に美人だったこと。両親の教育はとても厳格だったが敬虔けいけんなクリスチャンで、だからこそ自分は光桜女学院に入れたことなど。先輩はときに悲しそうに、ときに楽しそうに、過去の出来事を偲んでいた。私は少し意外だった。あの霧崎道流でも、こんな顔を見せるのかと。

「私にはね、友達がいない。誰も私を対等な存在として扱ってくれない」

 晩餐ばんさんが済んだ頃、不意に先輩がそう漏らした。

「そんなことは、ないと思います。皆先輩を尊敬していますし、憧れています」

 社交辞令だと思われたかな。私は少し不安になった。

「皆私の表面しか見てないのさ。きっと中身も完璧な人間だと思っているだろう」

 外見が完璧なのは否定しないですね、と内心思いながらも私は言った。

「違います。皆先輩のことが好きだから、大切だからこそ気軽に触れ合えないのだと思います。誰も先輩を嫌ってなんかいません」

「そうか、壁を作っていたのは私の方だったのかもしれないな……。流石だね、麻里亜さん。誰に対しても落ち着いた視座からの意見はとても参考になる。礼を言うよ」

 先輩ははにかんでそう言った。

「いえ……どういたしまして」

 私は照れ臭くて顔を伏せた。先ほどまでの緊張はほころび、先輩に対する警戒心も薄れつつあった。

「さて、私はお茶を淹れてくるよ。少し待っていてくれ。その間屋敷を自由に見て回っても構わないよ。ああ、地下室だけは入らないでくれよ、危ないから」

「解りました、そうさせて貰います」

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