十節 「休戦」

Ep.10‐1 双魚と双児


「相性が悪かったね」

 双児宮の片割れの少年――――片桐藍かたぎりあいは不敵に言った。口を開くのは主に少年の方だけで、少女の方は沈黙を保っているのが、場に不気味な雰囲気を与えていた。


 双魚宮ピスケスの傍らで、竜がなすすべもなく掻き消えていく。竜は彼女の想像によって、「竜は全てを焼き尽くす」という妄想によって編まれている。いわば彼女の想像力が強いからこそ、竜も強いのである。どんな手段を使ったのであれ、双児宮には竜の炎は効かない。そう彼女が現実として認識してしまった以上、文字通り竜はもう役には立たなくなってしまった。因みに、彼女の召喚する獣は基本的にひとつの攻撃・防御形態しか採れない。

「なんで、なの。どういうことなの、オリヴィエ!」

 少女は救いを求めるように彼女の悪魔をあおぎ見た。

「僕にも解りません。ただ、あれは権能によるものではありません。彼と契約した悪魔の能力によるものでしょう」

 彼女と契約した悪魔――――オリヴィエは溜息をついた。

「あくま……そうよ! お兄ちゃん、あくまはどうしたのよ?」

 片桐の傍らには悪魔など影も形もなかった。


「ふふん、僕たちが契約した悪魔は、特別製なんだ。僕たちと一体化してるから、目には見えないけどね。それはそれは強力な悪魔だよ」

 少年は誇らしげに言った。傍らの少女もくすりと笑った。

「そうか、概念悪魔――――」

 オリヴィエがはっと気づく。

「がいねんあくま?」

「はい。実態を持たないが故に、強力な能力を持つ悪魔のことです。契約者と半融合することで仮契約してるのでしょうね。年齢のわりに頭の良い君なら解るでしょう、アリス。あれは悪魔であり人間、人間であり悪魔。およそ不条理な存在ですよ」


 朱鷺山しぐれが契約した悪魔、ラプラスの悪魔も、この概念悪魔に該当する。「事実を視通す力」を彼女が得たのも、ラプラスの悪魔と契約した(させられた)ことに起因する。


 双児宮ジェミニ――――片桐藍と片桐憂かたぎりゆうが契約した悪魔は、ラプラスの悪魔と同じく、およそ悪魔と呼んでいいのかさえ疑わしいほどの代物だった。最早存在し得ぬ概念、世界から放逐ほうちくされたはずの奇蹟。

 名を、マクスウェルの悪魔といった。


 スコットランドの物理学者、ジェームズ・クラーク・マクスウェルによって提唱された架空の存在、架空の悪魔。それがマクスウェルの悪魔である。その悪魔の能力は、「エントロピーを減少させることが出来る」、早い話「物質の温度を自在に操作できる」といったもの。先ほどアリスの竜の灼熱しゃくねつの息吹を凍らせたのもこの能力の効用故である。


 大雑把な説明になるが、今ここに開閉式の仕切りによって区切られた、温度が同じ二つの部屋が存在するとする。二つの部屋の温度は均一だが、分子の運動は決して均一ではない。さてここで、マクスウェルの悪魔は「分子の動きを見る」ことができ、そして仕切りを開閉することによって、「二つの部屋に分子を振り分ける」ことが出来ると想定する。そうしてマクスウェルの悪魔により早い分子だけ集められた部屋の温度は上がり、遅い分子だけ集められた部屋の温度は下がる。つまり、この存在はエネルギーを起こすことなしに温度を自在に調整できることになる。これは熱力学第二法則、エントロピーの増大と矛盾する。とにかく不可思議な存在なのである。無論、齢八歳のいたいけな少女、加賀美アリスの理解の及ぶ範疇ではなかった。


「さて、次はこっちの番だ」

「まずい、ここは逃げましょう、アリス! 相性が悪すぎます! 残念だけど君と僕ではあいつには勝てません!」

オリヴィエの必死の叫びの甲斐もなく、

「へえ、どこに逃げるっていうのかしら」

 冷たい声で告げたのは、先ほどまで沈黙を保っていた少女。いつの間にか腰から離れ、アリスの後ろに回り込んでいた。彼、彼女は果たして、結合双生児ではなかったのか――――?

「やあ姉さん、やっと起きたんだね。じゃあ始めようか。権能――――『不合理なトゥルース・――』と言いかけて、双児宮は異変に気付く。権能が、発動しない? いや、これは。もっと根本的なところで、戦いが何者かに妨害されている? 身体が一ミリも動かせず、声すら出せない。

「何をしているんだ、お前たち」

 双児宮だけでなく、双魚宮までもがその人物にくぎ付けになった。凛と通る声、怜悧れいりな眼差し。口許の煙草から紫煙を燻らせているその人物は、天秤宮ライブラ――――葉月の唱えた休戦の提案に、しぐれと共に理解を示した人物であった。悪魔は連れてきているのかいないのか解らないが、姿は見えない。

「悪いが、戦いはそこまでだ。今日の集まりはそういう場ではなかっただろう?」

 優しく、諭すような声。しかしその裏には、いかなる反論も受け付けない凄みが双児宮には感じられた。

「約束の時間まであと二十分。大人しく待とうじゃないか。それに」

「それに?」

 アリスがおずおずと尋ねた。

「子供同士戦うところなんて見たくない。第一子供はもう寝る時間だろう」

 片桐藍は思わず噴き出した。いつの間にか身体の拘束は解けていた。

「余裕だね、僕たち二人を相手にしても勝てるってわけ?」

「そうは言ってないさ。おっと、……どうやらメインキャストのご登場だな」

 茂みの影から現れたのは、獅子宮レオ、如月葉月。背後にはベリアルが憑いている。

「えっと……来たのってこれだけ? もっと来るかと思ってたんだけどな。あはは、大見え切っちゃって恥ずかしい」

ぽりぽりと頭を掻きながら、葉月は言った。

 それから十分ほどのち、一人の少女が現れる。宝瓶宮アクアリウス、朱鷺山しぐれだった。

 彼女はどこか申し訳なさそうに、

「あ、あの……私で最後ですか?」と言った。


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