九節 「条件」

Ep.9‐1 桜杜自然公園にて(前編) 

 

 葉月に拾われてから三日が経っていた。如月家での暮らしは思いの外快適で、未だに記憶は戻らないものの、僕はようやくいくらかの精神の安寧を得られていた。葉月は僕……アマネにあまねという漢字を当ててくれた。尊敬している偉人の名前らしい。なんでも「哲学」という言葉を最初に考えた人だとか。よくわからないが、自分が立派な人間になったかのようで少し気恥しかった。

 面倒見がよく明るい葉月とは対照的に、皐月さつきは常に表情に暗さをたたえていたが、それでも僕には優しく、丁寧に接してくれた。

 ある晩、皐月にお願いごとをされた。

「姉さんには内緒ですよ」

 皐月は後ろめたそうに言った。

「姉さん、度々深夜に家を抜け出して街を歩いているようなんです。今は通り魔事件もあるし、万が一のこともあります。周さん、どうか姉さんを尾行してくれませんか」

 断る理由はなかった。居候いそうろうの恩返しとしては安すぎる位だ。

「うん、任せて」

 僕は快諾かいだくした。

 数時間後、葉月は皐月の言った通りこっそりと家から抜け出したようだった。僕も葉月を追いかけに、深夜の街へ繰り出す。

 時計の針は十一時四十分を指していた。七月最後の夜だった。


       ◆               


「あたしは誰とも争いたくない。だから、全員の権能イノセンスの全面的な封印を提案するわ」

 如月葉月が星の宮殿パンデモニウムで悪魔憑きたちに提案したのは、全面的な戦闘行為の禁止だった。ゲームの根底すら覆しかねない極めて異常な提案に、悪魔憑きたちが示した反応の多くは、困惑。

「ほう……それは魅力的な提案だ。僕も争いは好まない。しかしどうやって戦闘を、権能を封じる? 具体的な解決方法を示せなければ、お嬢さん、貴女の提案は絵空事に過ぎない」

魔羯宮カプリコーン

 追い打ちをかけるのは双魚宮ピスケス双児宮ジェミニだった。

「あはは、お馬鹿さんね。本気で言ってるの? そんなの無理に決まってるじゃない。あたしはこの力をもっともっと使いたいの。それでもっと「お友達」を増やすんだから」

「折角手に入れた権能イノセンスを放棄するって? 僕たちはこの異能を有効活用するべきだよ。たとえ戦闘用でなくても、この力は役に立つ。皆も有用性は身に染みて解っているだろう? 第一、権能を封じたらどうやって襲ってくる敵から身を守るのさ。お姉さんが守ってくれるのかい? 人殺しのお姉さん」

 我慢の限界に達したのか、白羊宮アリエス

「もう付き合ってられん、お前らは殺人ごっこに現を抜かしていろ、私には関係ない、夢だ、この話は夢なんだ」

と言い、面を伏せた。

「私も権能を手放すのは勘弁ね。争う意思はないけれど、私はこの能力で人を幸せにしたい。私はこの能力を守るためならなんだってするわ、悪魔にだって魂を売るわ」

 処女宮ウィルゴも言った。


 暫し、沈黙。

 獅子宮レオ―――如月葉月は唇を噛んだ。彼女とてうまく話が運ぶとは思ってもいなかった。ただ、彼女ですら思っていたのだ。「皆本当は戦いたくないに違いない」、と。その認識は甘かった。手にした権能に溺れる者。戦いたくてうずうずしている者。目の前のあまりの現実感のなさに現実逃避する者。皆信念は違えど、権能を手放すことには反対のようだった。

「聞いて欲しい」

 葉月は言った。

「あたしには一度も争うことなくこの戦いを終わらせる方法が頭にある。本当か嘘かは各自判断して貰って構わない。あたしはあなたたちの前に姿を見せる。これは、あたしの覚悟の証。お願い、神様」

 神――――八代みかげがにやにやして言った。

「いいのかい? 一度姿を晒せば、誰から命を狙われるかもわからないんだよ。自分の姿は知られているのに、相手の正体は解らない。情報の不均衡ほど不利なものはないのに」

「構わないわ。いざとなったら返り討ちにしてあげる」

 葉月は不敵に笑った。そして次の瞬間、葉月を覆っていたベールは雲散霧消した。どよめきが起こる。

「ほう、本当に姿を晒すとは……」

 魔羯宮カプリコーン――――連城恭助が感嘆の溜息を漏らす。

「誤魔化さなくてもいいよ。おじさんには最初から私が見えていたでしょ。私にもおじさんのしたり顔はしっかり見えてたんだから」

「あなたたち、お知り合いなのですか」

 金牛宮タウラスは少し驚いた様子だった。

「そこはボクが説明しよう。彼らは一度お互いに「悪魔憑き」として会っている。一度現実世界で鉢合わせすれば、容姿、位階等の相手の情報は筒抜けになるんだ。文字通り姿を晒しての真剣勝負というわけ。姿を隠して話が出来るのはここ、星の宮殿だけだよ」

「……俺は戦いにも、戦いを回避する方法にも興味はない。それに神の座なんていらないんでね。せいぜい期限まで傍観ぼうかんしてるよ。後は勝手にやってくれ」

 人馬宮サジタリアスは本当にさしたる興味もなさそうに言って、眼鏡の位置を直した。

「なるほど、覚悟は伝わった。君はこれから、どうするつもりだ」

 天秤宮ライブラが沈黙を破る。厳かな声が、宮殿中に響き渡った。

「あたしが指定する場所、日時に、現実世界で集合する。権能を封じる手段はそこで説明するわ」

 皆が、葉月に注目していた。彼女の一挙手一投足に、全員が緊張していた。この女の信念は、強い。一筋縄ではいかない。その場にいた誰もが、如月葉月という一個体に気おされていた。

「あたしの意見に賛同する人、しない人、来てくれるならどちらでもいいわ。まあ、来ない人はまずゲームに興味がないのだろうし、放っておいても安心だよね?」

 葉月は挑発的に言った。人馬宮が舌打ちをする。これは賭けだ。彼女の、渾身こんしんの賭け。

「じゃあ日時と場所を言うね。明後日、七月三十一日の午後十一時に、桜杜さくらもり自然公園の中央広場で会いましょう。魔導書グリモアを持ち悪魔を連れた状態でその場所に時間通りに来ること。それが休戦の条件よ」


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