第208話
血で固まった髪の毛が数本、宙に舞う。
銃弾は空へと吸い込まれた。
チサトの体は浮遊感に包まれる。死んだのかと思えば、どうやらそうではないらしい。
大男が助手席側から身を乗りだし、チサトの手首を掴んで引きずり上げたようだ。
チサトの体がぶらぶらと揺られている。体格差は大きく、爪先が地面から30センチ以上離れていた。
パチパチと高速でまばたきをして、ようやく現状を理解した。この男は天使などでもなければ、髭を切りすぎた閻魔さまでもない。
「えぇと、アイザックさん……?」
「お、なんだ、俺のことを知っているのか」
「有名ですから。私も何度かミュータント討伐に関する講習を受けたことがあります」
アイザックがパッと手を放すと、チサトはよろめきながらもなんとかバランスを保って立つことが出来た。
アイザックは周囲に素早く視線を巡らせてからバイクに跨がり、言った。
「話は後だ。とにかく後ろに乗れ!」
「え、でも……」
「つまらん説教をするつもりはない。だがひとつだけ言っておくぞ。プラスチック爆弾はちょっとやそっと衝撃を与えた程度じゃ爆発しない」
「……はい?」
チサトは大きな目をさらに大きく見開いた。プラスチック爆弾など今まで使う機会はなかったのだ。単純に軽くて強力な爆弾くらいにしか思っていなかった。
鳥型のミュータントが数体、空から襲いかかるがアイザックは長刀を抜いてこれを一閃。何事もなかったかのように話を続けた。
「燃やしても暴発しないくらい安定した物質だ。爆破するためには通電するしかない。ベンジャミンのアホから起爆装置を受け取っているだろう?」
「あの、ベンジャミンとは……?」
「整備班長だ。無精ひげをオシャレと勘違いしているデブ」
「あ、はい」
班長、整備班長などと、相手を肩書きで呼んでいると本名がわからないときがある。
チサトはポケットをまさぐり、数センチ大の玩具のようなものを取り出した。真ん中にボタンのついた長方形のリモコンだ。
アイザックはそれを見て頷いた。
「効果範囲は聞いているか?」
「500メートルまでは保証する、と」
短い。アイザックは舌打ちしたい気分ではあったが、この混沌とした戦場で使えるだけまだマシなのかもしれない。そう考えることでなんとか苛立ちを抑えた。
「つまりだ、赤竜の野郎に一発叩き込んでやりたいならば、お前さんが付かず離れずの位置でタイミングを見計らってボタンを押すしかないんだよ」
チサトはクーの死体をチラと見てから暗い声で言った。
「それならボタンはアイザックさんに預けます。どうか、赤竜を倒してください」
アイザックはふんと鼻を鳴らして、
「嫌だね。こいつはお前さんが始めた戦いだ。協力は惜しまないが、何もかも丸投げされるのはまっぴら御免だ。ついでに言えば俺は運転とミュータントぶった斬りに専念していたい」
じっと手の中のリモコンに目を落とすチサト。いつまでもこんなところで立ち尽くすわけにはいかない、それはわかる。だがどうにも体が動かない。
「生きていなければ成し遂げられないこともある。それは時として、死ぬよりも辛いことだ。生き延びたことを申し訳ないなどと思うな」
アイザックの言葉は明らかに他の誰かを意識していた。それはきっと、チサトも知っている誰かだろう。
「赤竜が罠に食いつくまで逃げ回ってやるぜ。どうだ、乗るか?」
チサトはリモコンをぎゅっと握りしめ、ポケットにしまいこんだ。
まだやらねばならないことがある。
生きる勇気を与えてくれた人たちへ恩を返すために。
パートナーの死が無駄ではなかったという証明のために。
「乗せてください、お願いします!」
まっすぐにアイザックの目を見据え、こんな時だがぺこりと頭を下げてからバイクの後ろに飛び乗った。
「よし、行くぞ!」
発進。アイザックはバイクを左手一本で操りながら、加速のついでに猿型ミュータントを刀で両断した。血が吹き出すころには遥か後方、返り血を一滴たりとも浴びることはなかった。
(こんなクソみたいな状況だが、なんだか楽しくなってきたな……)
覚悟を決めたチサトの瞳に既視感を覚えていた。はて、どこで見たのだろうかと
ノーマンが一対一で中型ミュータントを倒したとき、あんな目をしていた。
(あの甘ちゃん坊やがいっぱしのハンターになって、やがて背中を預けられるまで成長したとき。そこで感じた楽しさと同じだなこれは)
若者が成長する姿を見るのが結構好きかもしれない。そんなことを考える自分自身が可笑しくて、また笑い出した。
チサトの座る位置からアイザックの顔は見えない。遠慮なく、にやにやと怪しげな笑いを浮かべることが出来た。
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