第201話
「げぇ……、うええ……ッ」
桜色の唇から漏れる
唇から糸をひく粘液を指先で切り、チサトはふらふらとおぼつかぬ足取りで簡易トイレを出た。
「おいチサト、大丈夫か?」
パートナーのクーが心配して近寄り、チサトの背を撫でた。クーの
「ミュータントは人類の敵。それはわかっていたつもりなんだけどね……」
チサトたちの役目は前線から抜けてきた、あるいは迷いこんできたミュータントを始末することである。小型ならば単独で、中型ならば複数で囲んで対処していた。
やることはいつもと同じ。そう自分に言い聞かせながら戦っていたのだが、ミュータントのなかにひどく動揺を誘う者が現れたのだ。
野犬ほどの大きさの
襲い来る蜥蜴の群れのなかに友人の顔を見つけた。出撃前に、お互い必ず生き残ろうと誓い合った仲間だ。
戦いが終わっても派手なパーティーなどは出来ないだろうが、部屋に呼んでお菓子などを買い込んで、ちよっとした打ち上げくらいはしてもいいだろうと考えていた。
そんな相手が、蜥蜴の身体で感情のない目を向けてくる。焼け
チサトは泣いていた。嘔吐した。それでもハンドルからは手を離さなかった。隣で励まし続けてくれるパートナーまで死なせるわけにはいかなかった。
「クー、撃って! 殺して!」
不安げな視線を向けるパートナーに、悲痛な叫びをあげた。
「お願い、皆を死なせてあげて……」
返事の代わりに唸る機関銃。戦友に捧げる9ミリ弾の
ハンドルを強く握り締めすぎてチサトの指先から血の気が引いて真っ白くなった。投げ捨てるような勢いで弾丸を使いきり、補給所に戻ったときには指が固まりハンドルから離れず、クーの助けを借りてようやく引き剥がせたという有り様であった。
チサトは夢遊病者のように休憩所へと歩き出した。ぬるくて不味い、砂混じりの水が今ではひどく恋しい。
クーの肩を借りねば倒れそう、というほどではないが、手を繋いでもらわねば恐怖で叫び出しそうだった。心に隙間ができれば、
ただの妄想だ。だがこの場において人は妄想に殺されることもある。前回休憩所に来たときには、すぐ隣で銃声がして、振り向くと頭を撃ち抜いて自殺した者がいた。バカな真似をしたとも、解放されて羨ましいとも感じたものだ。
入れ替わるように休憩所から出てきたふたりの男女が見えた。並んで歩いているわけではない、手足のない女を男が抱き抱えているのだ。
足取りに
(綺麗……)
ただ女が美しいというだけではない。助け合い信頼し合い、力強く前へと進む姿に、チサトは絵画のなかに迷い混んだような錯覚をしていた。女に手足がないことは
呆けて立ち止まるチサトに気付いて、黒髪の女が『あっ』と呟いて顔を上げる。
「ええと、そうだ。……チサト、だっけ?」
眺めていた絵画の方から話しかけられたような奇妙な驚きのなかで、チサトは必死に記憶を辿った。
(そうだ、昨日、格納庫で会った……)
丸子製作所で装甲ジープの整備補給を終えた後で、恩人であるディアスを探してうろうろと歩き回っているときに出会った女性だ。
「そういえば名乗っていなかったわね。私はカーディル。で、こっちがディアス」
くい、と
(このひとが、ディアスさん?)
浅く日に焼けた肌、引き締まった身体。確かに歴戦の勇士といった風格を漂わせてはいるが、どことなく暗い印象を受ける男であった。チサトの中で肥大した英雄のイメージとはかけはなれており、失礼ではあるが拍子抜けしたというのが正直な感想である。
「荒野で女の子をふたり拾って帰ったことがあったじゃない。覚えている?」
「ああ……」
ディアスがどこか
チサトは青白い顔をしながらも気丈に背筋を伸ばしてから一礼した。
「その節は助けていただき、ありがとうございました。さらにはジープも修理費のみで譲っていただき、こうしてハンターとして復帰出来ました」
すると何故かディアスは、ばつの悪そうな顔して、
「……余計な真似をしただろうか」
「え?」
「結果論であるとはいえ、車がなければこんな戦いに参加させられることもなかったはずだ」
苦いものでも吐き出すような物言いに、彼が本気で申し訳なく思っているのだと伝わってきた。
チサトは、自分たちがこんな地獄にいるのはディアスたちのせいなのだろうかとしばし考える。否、少なくともハンターになったのはチサト自身の意志だ。その責任まで放棄してしまっては、なにがなんだかわからなくなる。
「……私は、ハンターです」
「ああ、そうだな」
「確かにこの戦いは最低です。辛いし、苦しいし、泣きたいし逃げ出したいです。ついさっきまで便所でゲロ吐いていました。それでも……」
自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきたが、言葉は次から次へと湧いてくる。今、思いの丈をこの男にぶつけてしまわなければ気が済まなかった。
「座して死を待つよりは、戦う機会があるというのはよほど幸せなことなんだと思います。だから、ええと……、感謝しているというのは、本当です!」
ディアスの口元に微かな笑みが浮かんだ。……と、見えたのは気のせいだろうか。
「君は、強いな」
それだけ言うと、話は終わりだとばかりにさっさと歩き出してしまった。チサトは
ディアスとカーディルの関係が、ただの同乗者であるとは思えない。最初からチサトが入り込む余地など無かったのだ。
恋に恋して、恋に破れて、胸のうちに残ったものは痛みと僅かな清涼感。憧れていた男は無口で近寄りがたいが、優しさと誠実さも持ち合わせていた。今はそれだけで十分だった。
チサトはクーに向けて、ぎこちない笑顔を浮かべて見せた。
「トップハンターが私みたいな小娘に向かって、強いな、だってさ」
社交辞令ではあるまい。単純に戦力として評価したわけでもないだろう。その心のありようを認めてもらえたのだと思う。
涌き出してきた勇気が、折れかけた心を補強していく。そんな自覚があった。
「通信機ごしに話したときも思ったことだが、変な奴だったなぁ」
クーが首を傾げながら言い、チサトもそれについては同感だと頷いた。
「変な人で、トップハンターらしくなくて……、すごく素敵な人だった」
チサトは明るく笑い、クーの手を引いて休憩所へと誘った。
「ねえクー、私ね、この戦いは勝てるんじゃないかって思えてきたの。根拠なんかなにもないけどね」
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