第196話

 一糸まとわぬ姿の男が培養槽から出てふらふらと歩き、その場にうずくまった。


 酷い吐き気がするが、胃の中に吐き出すものなど何もない。人格のダウンロードを済ませたあとに気分が悪くなることなど初めてのことだ。


 原因はわかっている。あの女、カーディルの一方的な罵倒が心の隅に引っ掛かっているからだ。


「世界の真理を知らぬ愚か者が……メス豚が! 勝手なことをぬかしやがって!」


 嘔吐感に耐え、胸を押さえてドクは叫んだ。


 自分にもかつて、愛する者がいた。他人と関わることを煩わしいと思っていたが、彼女といる時だけは不思議と心が休まった。


 世界を崩壊へと導き、彼女とオリジナルを死に追いやった連中と、今の自分が同じであるなどと認められるはずがない。そんなはずがない。


 妻の名を呼ぼうとして、口を半開きにしたまま動きが止まった。粘つく泥のような不安が心の中へと一気に流し込まれる。


 名前が、思い出せない。


「イナ……ナサ……ナサルサ、そうだナサルサだ!」


 一時しのぎのような安堵感を得て、ドクは力なく笑った。


 狂っていない。

 まだ狂ってなどいない。

 本当にそうだろうか?


 世界の行く末を見届けるために自分はこうして生き長らえている。だがそれは人類の滅びを見ることと同一ではないはずだ。


 人類が逞しく生き延びてミュータントにも負けないと確信したならば、そこでデータを消去してこの世から去るという選択肢もあったはずだ。見届けるとは、そういうことだろう。


「違う、違う! 君を殺した奴らを、人間ども全てが自ら産み出した化け物に食い殺されるところを見届けて! それでようやく俺の役目は終わるんだ!」


 ドクの叫びが研究室に響き渡る。答える者は誰もいない。人も、ミュータントもいない、彼だけの孤独な空間だ。


「ナサルサ……ナサルサァ!」


 全裸のまま走り出した。ドアノブを破壊しそうな勢いで隣室に飛び込むと、そこは豪奢ごうしゃなベッドがスペースの半分を占めるような部屋であった。純白のドレスを着せられた女がベッドの上に横たわっている。


「ナサルサ、私を導いてくれ。励ましてくれ。慰めてくれ……ッ」


 物言わぬ女のスカートをまくり上げ、ショーツに手をかけて引きずり下ろす。覆い被さり、薄い茂みに向けて激しく抽送を始めた。


 快楽に身を委ねながらドクは泣いていた。


 ずっと後悔していることがある。人格データを保存しようともう少しだけ早く、ナサルサが自殺する前に思い付いていたらと。そうすればふたりで永遠に生きることが出来たかもしれない。


 あるいは彼女に、


『悪趣味だからやめときなって』


 と笑って言われたなら、


『それもそうか』


 これで済ませて、そのまま死んでしまってもよかった。歪んだ使命感に捉われて孤独に生き続けることもなかっただろう。


「ナサルサ、愛しているんだ。君のいない世界は冷たすぎる……ッ」


 胸を露にし、乳房を揉みしだく。昂りは最高潮に達し、DNAの溶液が結合部へと流し込まれた。


 荒く息をつきながら、魂が抜け出て絞まったのと思えるような心地良い疲れの余韻をしばらく味わっていた。


 体を離し、意識のない肉体を見下ろしながらぼんやりと考えていた。


(この体も臭い始めた。また新しいもの培養槽から取り出さなくては……)


 乱した衣服を正すこともなく、ドクは部屋を出て後ろ手にドアを閉めた。




 マルコの義足は意外にもと言うべきか、あるいは妥当と評するべきか、ごく普通の神経接続式であった。


 武器を仕込むことなく、その他特殊なギミックもない。ローラーダッシュくらい付けるのかと思っていたと伝えると、


「片足だけでどうするんだ」


 と、あっさり返されてしまった。


 アイザックが義手を付けるときはあれだけ秘密兵器がどうのとあおっていたくせに、いざ自分の番となると、


「重いし、不便なだけだな!」


 と、簡単に鞍替えしてしまった。彼はハンターではないので日常生活優先だという事情はあるが、周囲の人々はそれでいいのかと首を捻ったものだ。


 今、マルコは執務室にディアスとカーディルを呼び黒塗りのデスクを挟んで向かい合っていた。デスクの正面に穴を開けてしまったことが気まずいのか、カーディルは少し視線を外して本棚の背表紙などを読んでいた。


 マルコが憮然ぶぜんとしてデスクの上に黒い虫のようなものをパラパラと落とす。ディアスがそれを摘み上げると、虫ではなく何かの部品のようであった。


「博士、これは?」


「盗聴器だよ。この部屋に三個も仕掛けてあった」


「どうりでドクが会話の内容を知っていたわけだ」


「君たちの部屋も調べておいたほうがいいんじゃないか」


 マルコがデスクに盗聴器用の探査機をごろりと置いた。金属探知機に似ているが、こちらは微弱な電波を感じ取るものらしい。


「他人が出入りするような場所ではないので、仕掛けられてはいないと思いたいですね……」


 ディアスたちの家は倉庫を改造し、デジタルとアナログを併用した鍵を何重にもかけた、一部屋の城塞だ。とは言え、やはり調べなければ気持ち悪いのでありがたく探査機を借りることにした。


「聞かれて恥ずかしい事はあっても、知られてまずい機密なんかないだろう?」


「俺にだって人に言えない事のひとつやふたつありますよ」


 恥ずかしげに答えるディアス。何故かカーディルは口元に手を当ててくすくすと笑っている。


 こいつらが淫乱変態バカップルであることなど丸子製作所にいる全ての人間が知っている。今さら秘密にしておきたいことなどあるのかとマルコは考えるが、見当もつかなかった。




 以前、顔見知りのハンターがミュータントと化してそれを討ち果たさねばならなくなったことがあった。しかもその後、捕らえられた者たちに止めを刺して回り、ディアスは精神的にひどく衰弱した。


 その時カーディルがディアスを慰めるための方針としてのは思い切り甘やかすことであり、具体的に取った方法は赤ちゃんプレイであった。


 心身ともに安らぎを得てディアスは立ち直ったが、このプレイ自体は封印することにした。ハマリすぎると本格的に抜け出せなくなりそうだ、という理由である。使ったおしゃぶりは引き出しの奥深くにしまい込んだ。


 カーディルからすれば、ディアスはいつも気を張り詰めすぎだ。彼の慰めになるのであればむしろ積極的に行いたいところであったが、ディアスは大真面目な顔で答えた。


「他人がいる所で俺が、『ママ、おっぱい』とか言い出したら困るだろう。癖や習慣というものは思わぬところで出てしまうものだ」


 他人の評価をあまり気にしない性質であるとはいえ、物事には限度がある。


 ディアスは、子供の産めない身体であるカーディルにママの役をさせてしまったことはさすがにまずかったのではないかと謝罪したが、カーディルは、


「結構楽しかったわ」


 と、屈託の無い笑顔を浮かべた。そしてディアスの耳元に唇を当てて囁いた。


「また、私の坊やになってくれる?」


 ディアスの背筋に走った困惑と、ある種の快楽。しまい込んだ秘密をまた取り出す日は、そう遠くなさそうだった。




「それともうひとつ、こんな物も見つけた」


 マルコが取り出したそれは、チャック付きの透明なビニールの小袋に入った黒い部品であった。先ほどの盗聴器とは少し形状が違う。


「不死の秘密を探るためと、八つ当たりでドクの死体を解剖している時に見つけたんだ。……解剖に私情を挟むのはよくないな、気分がどんどん悪い方へと向かって行く。まあ、脳をぐちゃぐちゃに潰したおかげでこいつを見つけたのだから、結果として良かったのか悪かったのか」


 カーディルが小袋を受け取り、まじまじと眺めた。


「さっきの盗聴器と似ていますね」


「恐らくこれは送信機だ。どうやって入れたかもわからないが脳の中にあってね、ドクのクローン体……、クローン技術があると仮定してね、ドクが見聞きしたことを何処かに送信して情報を共有しているのではないかと思うわけだよ」


「待って、待ってください。つまりそれって、ドクの本体がこの街にいるということになりませんか?」


「……何で?」


「外は磁気嵐が乱れていてまともに通信なんか出来ないじゃないですか。電波が正確に届くとなると周囲10㎞か、街の中くらいじゃないですか」


 自分でもおかしなことを言っているという自覚があったのか、カーディルは眉を八の字にしながら小袋を返した。


「この送信機が恐ろしく高性能だと考えた方が妥当かな。どうもドクは大破壊以前の、旧世紀の技術を確保しているように思えるんだ」


 マルコは不機嫌な顔を隠すように口元を手で覆った。この世に自分の知らない技術が数多くある。そしてドクは天才であるはずの自分を、物を知らぬ奴と指差して笑っているのかと思えば腹立たしいことこの上ない。


「旧世紀には、飛行機なんてやつもあったのかな……」


「発掘された映像にたまに出てくるあれですか? あんなものフィクションに決まっているじゃないですか。博士、鉄の塊が空を飛ぶわけないでしょう?」


「普通に考えればそうなんだけどさ。なんか妙に説得力があるんだよねぇ」


「旧世紀の映像全てが真実だというのであれば、魔法少女だって存在しますよ。次は魔法のステッキでも開発しますか?」


「そんなものがなくても、君は戦車に変身出来るだろ」


「あれを変身と言い張りますかッ!?」


 ディアスがスッと手を挙げた。馬鹿話はその辺にして話を進めよう、という合図だ。マルコとカーディルも黙って頷いた。


「送信機があるということは、それを受け取る本拠地がある。そう考えていいでしょうか?」


「ノートパソコン担いであちこち移動しているとは思いたくないな。いや、クローン体がどうのという話なんだから、それを保管する本拠地があると考えるべきか。つまりそこを押さえれば……」


「ドクを殺せる、と」


 マルコとディアスは揃って頷いた。ドクの姿は朧気おぼろげでまだまだ遠い。しかし近づいているという実感にマルコは胸のうちで興奮を覚えていた。


 次に浮かび上がる問題は当然、それは何処かという話だが、これについてはカーディルが思い付いたことがある。


 初遠征の時に向かった遺跡だが、あそこに居たミュータントたちはただ住み着いていただけなのだろうか? 


 何かを守っていたのではないか、とも考えられる。


 街からの距離もそこそこといった所だ。高性能の送信機ならば電波も届くかもしれない。


 どれもこれもが怪しいというだけの話であり、確証は何ひとつとして無い。だがそう考えれば辻褄つじつまは合う。


 あの遺跡の調査はほんの少ししか進んでいないということだけは確かだ。


 カーディルが自説を披露すると、マルコは腕を組んで考え込んだ。


(有り得る話だ。そもそも遺跡に行ったら巨大ミュータントに出くわしました、なんてことが偶然だったのか?)


 真っ白なパズルを組み立てているようなものだ。ピースはまるが全体像が見えない。前に進んでいるという自信と、都合のいいように解釈してはいないかという不安が同時に湧き起こった。


(調査を早々に打ち切ったのは失敗だったか? いや、本当にドクの本拠地があるならば、大した準備も無しに突っ込むことこそ危険だっただろう。本格的に城攻めのつもりでかからなければ……)


 最善ではなかったかもしれないが、最悪でもないはずだ。少なくとも、マルコもディアスたちもまだ生き延びている。


「ミュータント生産施設もそこにあると思うかい?」


「あの遺跡は大型ミュータントの搬出口などは見当たりませんでしたし、なによりドクが自分の命を景品とするとは考えられません。別でしょう」


 カーディルがりんとした表情で答える。


 景品、という表現にマルコは少し笑ってしまった。結局のところドクのスタンスはそういうことだ。遊びで、他人事で、傍観者気取り。


 マルコは立ち上り、ふたりの顔をまじまじと見つめた。思い返せば本当に長いこと一緒に戦って来てくれた、頼もしい奴らだ。


「僕らがやるべきことは決まったな。まず敵の襲撃を防ぐ。流れを読み取り生産施設の場所を特定して潰す。そして遺跡の調査を再開しドクを二度と甦れないよう完全に殺す。どれひとつ失敗しても、この街に未来はない。……力を、貸して欲しい」


 力強い声と、透き通るような美しい声が同時に『はい』と答えた。


 マルコは、『ありがとう』と言いかけて止めた。それは全てが終わった後だ。




 一ヶ月後、街に向けて迫るミュータントの大群が観測された。

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