第172話

(どうしてこうなっちゃったかなぁ……?)


 安アパートの一室でカーディルはパイプベッドに腰かけていた。ミニスカートからのぞく白い太ももにファティマが頭をのせて静かに寝息をたてている。


 困惑してはいるが、振り払おうという気にもなれず、身動きが取れなかった。たとえるならば猫好きの人の膝に猫が乗った状態である。


 ファティマはカーディルを部屋に招いた後、まず救ってもらえたことについて丁寧に礼を述べた。神経接続式戦車から引きずり出されて、街に戻るまでの間ずっと抱き締めてもらっていたこと、それがすごく安心できたと話し、ちょっと試しにといって膝枕の体勢になってそのまま寝てしまったという次第である。


(膝枕なんてディアスにしかしてあげたことはなかったけど、これ浮気の範疇はんちゅうには属さないよね? いやまあ、ディアスに直接説明すれば、『いいことをしたな』とか、『君は優しいな』とか言ってくれるだろうけど。脳内で声まで余裕で再生可能だわ。うん、好き)


 カーディルはとりとめのない事を考えながら、慈しむような目をしてファティマの髪をそっと撫でた。


 太ももに頭を乗せたファティマが一瞬で眠りに落ちたことをカーディルは不思議とは思わなかった。ずっと気の休まることがなかったのだろう。それこそ手足を切られたあの時から、ずっとだ。


 カーディルにも覚えがある。犬蜘蛛の巣から助け出されて入院している時は、未来に一片の希望も持てず震えていたものだ。考えれば考えるほどに不安になってくる、考えるのを止めようと思っても足が無いので気晴らしに出掛けることも出来ず、考え事くらいしかやることがない。


 ディアスの部屋に移った後も押し潰されそうなほどの不安は消えず気が狂いそうだった。実際、おかしくなる一歩手前まで行っていたはずだ。


 実験の対価として義肢をもらっても漠然ばくぜんとした不安は消えず、心からディアスを信頼し、よく眠れるようになったのは事件から一年近くも経ってからのことであった。


 ファティマとエリックはまだそこまで絆を育んではいないのだろう。同類の膝の上でしか安らぎを得られなかったとして、誰が彼女を責めることができようか。


「私はあなたの味方だから。ある意味でたったふたりの姉妹みたいなもの、かな……?」


 ファティマの目尻に浮かんだ涙を、血の通わぬ指先がそっと拭った。


 窓の外に宵闇よいやみが迫る頃、ファティマはっすらとまぶたを開いた。


「……お?」


一拍置いて、がばっと勢いよく身を起こした。


「おおッ!?」


 部屋を見回す、カーディルと目が合う、窓を確かめる。それでようやく状況を理解した。膝枕など、仲間に出会えたことで少し浮かれてやっただけである。それが本当に眠ってしまうとは本人にとっても意外なことであり、失態であった。


 相談があるといって呼び出しておきながらひとりで寝てしまったのだ。今になって恥ずかしさが込み上げて顔が熱く、赤く染まる。


「ごめん、カーディル! ひとりで勝手に寝ちゃって……ッ」


「いいのよ。普段からあまり眠れていないのでしょう?」


 カーディルは怒るどころかファティマを優しく気遣った。どんな用件があったにせよ、こうして熟睡できたならそれはそれで良いことだ、と。


 対してファティマは幽霊でも見たかのような顔で目を見開いていた。何故、眠れていないとわかったのか。それも昨日今日ではなく、慢性的に眠れていないことまで言い当てられたのだ。


 カーディルは軽く肩をすくめていった。


「占いとか超能力とかじゃあないわよ。私もそうだったから。手足を無くしてしばらくの間はね……」


 言葉が尻すぼみに小さくなっていく。お互い楽しい話題ではないし、恥をさらすことにもなる。


 だがファティマは、ずいと身を乗り出して聞いてきた。


「そこらへんの話、詳しく聞かせてくれない?」


「え? あ、まあ、いいけど……。ずいぶん食いつくわね」


 ファティマにとっては死活問題だ。いかにして四肢を失った絶望から立ち直り、パートナーを心から愛し、前を向いて生きるようになれたのか。どうしても知りたかった。


 カーディルは視線を宙に泳がせて少し考えてから、


「これ、ディアスの他にはマルコ博士にしか話したことないんだけど……」


 そう前置きしてから、ぽつぽつと語り出した。


 ディアスとは同じチームとして活動していたが特に仲が良かったわけではないこと。犬蜘蛛に襲われ巣に連れ去られたこと。生きたまま食われ、そこにディアスが単身乗り込んできたこと。


 カーディルは悲しげに、長い睫毛を伏せながら語り続けた。切り落とされた手足が生えてこないように、時間では癒せない心の傷がある。


 それを何故、無理に語ってくれているのか。


(そうだ、これは私のためだ。私に道を示すために傷口を開いて見せてくれているんだ……)


 ファティマは一字一句聞き逃さないよう、集中していた。


「街に戻って入院してからも情緒不安定でさ、ディアスに向かって泣いて喚いて怒鳴り散らして、残った左手で物を投げつけたこともあったな。もうね、思い出すだけで土下座したくなるわ」


「でも、そうなるのも仕方のないことじゃない?」


「私の立場からすればそうだろうけどさ、助けた側としてはたまったもんじゃないでしょ。ミュータントの巣にひとりで乗り込んで、命がけで助け出して、女を背負って炎天下を歩き続けて。それで感謝どころか罵詈雑言を浴びせられるとか」


「ピンチを救ってもらったから好きになったとかじゃないんだ」


「五体満足ならそういうおとぎ話的な流れもあったかもしれないけどさ。なんていうか、そんな余裕は無かったわ」


 はあ、と大きく息をついてから続けた。


「私ね、ディアスに向かって、『死んだ方がマシだった』とか、『どうして助けたりしたんだ』とか言っちゃったのよ。そうしたらあのひと頭を下げて、『君に生きていて欲しかった、俺のワガママだ』って謝るの。おかしいでしょう?」


 ディアスという男のことがよくわからなくなってきた。ファティマにとってディアスとは、いきなり現れて生か死か選べと迫ってきたり、復讐のためとはいえ眉ひとつ動かさずに敵の手足を正確に撃ち抜いてから殺すような公正かつ冷酷な男だ。


 命の恩人ではあるが、カーディルに対して抱いているような暖かみは感じられなかった。一方でカーディルの話から浮かび上がるのは一途で情熱的で、いかなる困難にも挫けずに進み続ける男のイメージであった。


「カーディルは、ディアスのこと好き?」


 唐突で直線的な質問に面食らいはしたが、カーディルはすぐに、


「ええ、愛しているわ」


 と、微笑みながら迷いなくいった。


 ファティマはその姿を本当に美しいと思った。いつまでも見ていたかったが、徐々にその輪郭がぼやけてくる。


「私は……」


 声が震える。それでようやく自分が泣いているのだと気がついた。


「私はそんなふうに生きられない……ッ」


 頬が熱い。一度流れ出してしまえばもう止めることはできなかった。


 ぐい、とカーディルに抱き寄せられ豊かな胸に顔を埋めるような格好になった。いきなり何事かとは思ったが、泣き顔を見られないのは都合が良いし、こうしていると安心する。


 静寂のなか、ただふたりの息づかいだけが聞こえる。やがてファティマは肩を震わせながら声を絞り出すようにいった。


「恩があるから、世話になっているから愛さなければならないの……?」


「ううん、そういうのはまた別の話じゃあないかな。私がディアスに惚れたのは義理とか義務とかそういうのじゃあないわよ」


 ファティマが鼻をすすりながら顔をあげる。そのまっすぐな瞳にうながされるようにカーディルは話を続けた。


「どこまでも一途に、どんな困難もはね除けて愛してくれる。そういうところにね、私も全てを捧げたくなったの」


 カーディルの眼はファティマを見ているようで、ずっと遠くを見ているようでもあった。


「言葉を重ねて、唇を重ねて身体を重ねて、そして時間を重ねてようやく今の形になったわけよ。ディアスの隣で本当に安心して眠れるようになったのだって、なんだかんだで一年くらいかかったからね」


 彼に何か非があったわけではない、不満もない。ミュータントに植え付けられたトラウマと、義肢を外しては身動きが取れないという不安に縛られていた。


 小さな物音ひとつにも怯えていた。ディアスとていつ心変わりするかわからないと怯えていた。その全てが杞憂きゆうであると教えてくれた。


「あなたはどう? エリックのこと、嫌い?」


 ファティマは視線を逸らして考え込む。


「わからない……」


 本当にわからなかった。


 彼が自分を大切にしてくれているのはわかる。もっと仲良くなろうと努力していることも知っている。そして最近、上手くいかなくて少し苛立っていることも知っている。


 自分の心だけがわからない。他人を信じること、愛することがわからない。裏切りの記憶がファティマの心、奥深くまでむしばんでいた。


 曖昧あいまいな態度がエリックを傷つけている、ならば別れた方がよいのではないか。そんな思考の悪循環に陥っていた。


 カーディルはファティマを優柔不断と責めることはしなかった。自分の心すら思い通りにならないのが人間だ。


「もしよかったら、私からマルコ博士に話を通してあなたを丸子製作所で預かってもらえるようにもできるけど、どうする?」


「……え?」


「生きるために仕方なくエリックと暮らしているというのであればこれで解決よね。別れてもいいし、別れなくてもいい。……どうする?」


「別れろ、とは言ってくれないのね」


「私は選択肢を用意できる、いくらでも手助けはする。でもね、最後の決定だけはあなた自身がやらなきゃダメ」


 どうするかと聞かれても、どうしたいのかがわからない。いきなりそんなことを尋ねるカーディルを恨めしく思ったくらいだ。


「誰かに迷惑がかかるとか、そういうの全部抜きにしてあなたがどうしたいのか、その願いを聞かせて?」


 カーディルの声はどこまでも優しい。


「私の、願いは……」


 暴走する神経接続式戦車を止められて、ディアスが乗り込んできた時のことを思い出した。


(あの時私はエリックに頼まれたからと、まだ信じてくれるひとがいるからと、生きることを決めたんじゃなかったかな……?)


 本当にこの馬鹿夫婦は人生最大の決断というものをいきなり投げてくる。困ったものだと思いつつ、ファティマの意は決した。


「私はもう少し、彼と一緒にいたい。それでどうなるかはわからないけど……」


 愛する自信も、愛される自信もない。だがカーディルたちのようにゆっくりと時間をかけて愛を育むことができたなら、それはきっと素晴らしいことだろう。


「いいんじゃないかな」


 と、いってカーディルは頷いた。心なしか、どこか楽しそうにも見えた。

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