第166話

 世界が、壊れた。


 ナサルサたちも世界の終わりを予感していたとはいえ、さすがに5年で世界中が廃墟はいきょになるとは思いもよらなかった。


 自分たちが生きている間くらいは持つだろうとなんとなく考えていたのだが、それは単に想像力が及ばなかっただけのようだ。


 世の指導者たちは皆、神となった。


 莫大ばくだいな財産を持ち、絶対の権力を有し多くの人々にかしずかれ、不死の力を得て全能感に包まれた。


 己が完璧な存在であると信じることは、上手く行かない事に対して過剰な反応を呼んだ。


 軍事費が足りなくなればすぐに臨時徴収りんじちょうしゅう。敵に押されればより強力なミュータントを開発して大量投入。それでもダメなら弾道ミサイルを撃ち込むという、とにかく目先の問題を強引に解決しようという傾向が強まった。


 国家の行く末を憂慮ゆうりょし意見する者もあったが、独りよがりの人間は意見されることを否定されることと解釈する。皆、遠ざけられるか処刑された。


 あまりにも愚かで醜悪な神々の戦い。神話ならば破壊のあとに再生が待つものだが、今世界を謳歌おうかするのは人でも神でもなく、異形の悪魔だ。


 いつものビル、いつもの部屋の窓から見る景色はすっかり変わってしまった。


 鞄を抱えて忙しなく歩く人々の姿はない。代わりに現れたのは大小様々なミュータントたち。


(少なくとも、ビジネスマンにはみえないな……)


 廃墟に糸を張り巡らせ、蠢く蜘蛛型ミュータントを見下ろしながらナサルサは大きく息を吐いた。


 数えきれぬほどの人格転移を行ってきた部屋。ビル内にもミュータントが現れ徘徊はいかいしているので、ふたりはここに1ヶ月も籠城ろうじょうしていた。


「外に、出られないかな……」


 ナサルサは呟いた。返事を期待していたわけではないが、男が読んでいた本から目を離して答えた。


「最後に食料庫に行ったとき、腕に剣が生えた粘土みたいな奴がいてな。仲間の首が一瞬で飛ばされたんだ。もう一度会ったら逃げ切れる自信はないな」


 何度も聞いた話だ。新しい話題すら出てこない。


 状況がその頃よりも悪くなることはあるにせよ、良くなっていることはまずないだろう。


 食料は尽きようとしている。部屋の隅にまとめた空の缶詰が異臭を放っていた。


 排泄物などは出来るだけ容器にいれて蓋をするようにしていたが、臭気を封じ込めるにも限界がある。


 住むには最悪の環境だが、死を意識するにはちょうどいいのかもしれない。そんなことを考えながら、窓の近くにある物体に視線を移す。


 パイプ椅子と、この部屋にあった様々な機器や薬品を組み合わせた、簡易自殺装置だ。見た目こそ不細工だが、意識を朦朧もうろうとさせる薬と、心臓の動きを麻痺させる薬が正しい順番で投与されればそれでいい。


「ねえ、あなたがプロポーズしたときの言葉、覚えている?」


 どんな質問でも即座に答えられる、そう思っていた男が少し考え込んだ。この質問は新しい。


「なんだったかな。無難に、俺と結婚してくれとか……」


「どうせお互い相手なんかいないんだから手近なところで妥協しないか、よ。そうですよねぇ、先輩?」


「そういえばそうだったかな。我ながら酷い言いぐさだ……」


 ふたりは顔を見合わせ、力なく笑った。最低の思い出のはずだが、この状況では笑い話だ。


「まあ、結婚してから2年の間、大きな喧嘩も浮気もせずなんだかんだで仲良くやってきたわけで。私たち、結構いい夫婦だったんじゃない?」


「そうだな、思い出した。君に殴られたのはプロポーズをしたあの日だけだ」


「そうされて当然っていう自覚はある?」


「ありまぁす……」


 男はよろめきながら立ちあがり、戸棚からコンビーフの缶詰を取り出した。


「最後の食料だ。仲良し夫婦らしく、分けて食べようじゃないか」


「あら、肉の缶詰なんてまだ残っていたのね」


「最後の晩餐ばんさんが乾パンじゃ寂しいからな。ずっと食うのを我慢していたんだ。俺の自制心をめてくれ」


「はいはい、素敵よあなた」


 クッキー缶の蓋を皿代わりにコンビーフを2つに割って、しばし無言で食べ進めた。きつい塩気のせいで一気に食べられないことが今はありがたい。


 ナサルサがぼそりと呟いた。


「この食事が終わったら、死のうと思うの」


 それもいいかもな、と男は頷いた。この先、救助が来るはずもない。希望もない。

ミュータントに襲われたり飢餓で苦しんだりするよりは、気が向いたときに自分で始末をつけようとは、自殺装置を組み立てたときから決めていたことだ。


 生きていればきっと良いことがあるなどと気休めを言う段階はとっくに過ぎた。

肉の味が口のなかに残っているうちに死ぬというのは、今できる最高の贅沢のようにすら思えてきた。


「先に使ってもいいかしら? あなたが居ない世界なんて、一分一秒でも居たくはないのよ」


「可愛いこと言ってくれるね。それじゃあ俺は君の寝顔を見ながら死ぬ贅沢を味わわせてもらうよ」


 ふたりの微笑みはぎこちないものであったが、本物だった。


 パイプ椅子に座ったナサルサに、ふたつ並んだ点滴器の先端を腕に刺す。ひとつめの液体がゆっくりと体内に巡りだした。


「気分はどうだい?」


「うん、自分でも驚くくらい落ち着いている……」


「俺もすぐに後を追うから、寂しくはさせないぞ」


「私たちがこんな世界にしたというのなら、地獄行きは間違いないわね。まあ、離ればなれになるよりマシかな……」


「どうせ弁護士も全員地獄にいるから、現地で雇おうぜ」


 こんな時でも下らないジョークが言える。逆にそれが、これから死ぬのだということを強く意識させた。


「ねえ、キスして……」


「ああ……」


 身を乗り出して、唇を重ねる。一瞬とも永遠とも思える時間が過ぎて、離れたときにはナサルサの意識はなかった。2本目の薬品が流れ込んでいる。あと数分で心停止することだろう。


 ナサルサには言わなかったことだが、自殺装置に使える薬品はもう、ない。


(俺が死ぬためには拳銃を使うか、ネクタイで輪っかを作るかしなきゃならんか。痛いのも苦しいのも嫌だけど、こればっかりは惚れた女に押し付けるわけにはいかんよなぁ……)


 紐をかけるのにちょうどいい場所はないかと、辺りを見回す。頭からすっぽり抜け落ちていたのだが、この部屋のドアはカードリーダーを通す電気式なのでドアノブがない。


 首を吊るのに強度がないところでは失敗する。何か、何かないかと見回しているうちに、あることに気がついた。


(そういえば俺、人格転移は何度もやってきたが、自分で使ったことはないな……)


 この先、世界はどうなるのだろうか。生き残った人類が反撃するのか、それともひとり残らずミュータントに駆逐くちくされてしまうのか。


 また、ミュータントが地上の覇者はしゃとなった場合、どんな世界になるのだろうか?


 それを見届けたい。


 思い付きというより、いたずら心に近いかもしれない。自分にはもう生きる術はない。ならば機械に移した別人格にそれを見届けてもらおう。


 クローン体を用意する余裕はない。本当にただそこにあるだけ、ということになってしまうかもしれない。


(それでもいい。なにも残さず死ぬというのが、今ごろ悔しくなってきたぞ)


 人格転移用のポッドに入り、スイッチを入れた。脳内情報が急激に吸われ、室内のコンピューターに蓄えられていく。


 それと同時に、元の脳からはデータが消去されていった。


(悪いな、俺。後は頼むよ。俺は彼女の居ない世界に耐えられそうにない……)


 ポッドが唸りを止めたあと、脱け殻となった体が残された。


 やがて彼は衰弱死し、体は腐り果てるだろう。

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