第165話

 クローンへの人格転移は莫大ばくだいな金がかかり、誰でも受けることができるようなものではない。


 この仕事に従事じゅうじしている男とナサルサも、その恩恵を受けることはできない。


 持たざる者は薬も買えずちょっとした風邪であっさりと死んだりもする。地位と財産のある者は臓器交換用のクローンなどを用意してどんな怪我や病気にも対応できる。貧富の差がイコール寿命の差となっていた。


「最近、世界がどんどんおかしなことになっているな……」


 と、男は遠くを見るような目でいった。


「そういう台詞は、どんな時代でも言われてきたことじゃないですか」


「いつものこと、では済まないような方向に転がっているようにしか思えんのだ」


 男は膝の上で指をせわしなく動かしながらいった。


「最近、世界中で猛獣の遺伝子をいじくるのが流行っているのは知っているか?」


「なんです、それ?」


「猿の素早さを持ったゴリラとか、蜘蛛の糸を吐く犬とか、酸を吐き出すトカゲとか、そういう悪趣味な生き物を造っては敵地に放り込もうって話だ」


「……狂っていますね」


「敵を一掃したら化け物どもは自害させて……あらかじめそうした因子いんしを埋め込んでおくそうだが、それで誰もいないまっさらな土地が手に入るってわけだ。奴らに言わせれば、自国の兵が死なないクリーンな戦争、だそうだ」


「それ、制御できるんですか……?」


 男はゆっくりと首を横に振った。


「わからない。少なくともお偉いさん方は制御できるつもりでいる。今は戦地も限定されているが、このままエスカレートしていけば全世界に化け物、ミュータントがばら撒かれる可能性だって十分にある」


 ナサルサの脳裡のうりを最悪の想像が埋め尽くす。町中に異形の化け物が現れ無差別に人を襲いだすが、それを命じたものは安全な場所で戦争を賛美し続ける。そんな光景だ。


 顔をあげ、培養槽ばいようそうの少女を見やる。他人の体を奪うことに何の抵抗も抱かぬ連中だ。遺伝子操作の対象を人間に移すのも時間の問題だろう。


 ナサルサは以前、医学の研究に倫理観など邪魔だと思っていたことがある。そんなものがなければ医学はいくらでも発達し、結果として多くの人を救えればそれでいいではないかと。


 今ならばよくわかる。医療分野に人一倍の倫理観が要求されるのは建前や綺麗事などではなく、悪意ある者に利用されれば歯止めが利かなくなるからだ。


「なあ、ナサルサ。この人格の移し換えってやつだが、本当に何の問題もないのかな……」


 男が呟くようにいった。


「……それは、倫理的にですか? それとも技術的な話ですか?」


「技術的な話だな。頭の中身をほいほいと取り出して別の器に入れようなんてことが、完璧にできていると思うか?」


「……臨床試験は十分に行ったはずですが」


「今さら建前を並べるのは止そうぜ。臨床試験をいくら行ったところで、それが完璧であるなどと証明できるものか。目覚めた後に私はイカれています、だなんて言う奴がいるわけないだろう」


 ナサルサは男を睨み付けた。今さらだ、本当に今さら何を言い出すのだ。人格の移し換えによる延命は止めましょう、などといって誰が聞くものか。


「データの破損が起きているかもしれない、ということですか?」


「世界中の偉い人がみんなやってる移し換えだ。こいつに問題があるとすれば、世界が一斉におかしくなっちまったのも頷ける」


 歴史上、異常者が一国の元首になることはいくらでもあっただろう。それでも世界中から圧力がかかり、好き放題というわけにはいかなかった。


 遺伝子操作の化け物を生み出し戦争に利用しようなどどすれば、危険国家とみなされ周囲から一気に潰されるはずだった。


 それが今、全世界が化け物を生み出すことをいい考えだと認めてしまい、先を争うように研究しているというのだ。そこには危機感も倫理観もない。


「移し換えでデータの破損が起こるというのは、あくまで仮定ですよね?」


 往生際おうじょうぎわが悪いという自覚はある。だが、世界が破滅へ向かう手助けをしているなど、どうして認められようか。


「そうだな、全部俺の想像、妄想だ。証拠なんか何ひとつあるわけじゃない」


 男は意外にあっさりと認めた。


「ただね、技術的な問題がなくても世界がおかしくなったのはこいつのせいだと思うよ」


「……どういうことですか?」


「奴らの立場になって考えてみるといい。金がある、権力がある、そして不死の術を得る。そうして生まれるものは何か、肥大した選民意識だ。自分は愚民どもとは違う選ばれた存在だ。最高に優秀な人間で、その判断に間違いはない、とね」


 男はもう、軽蔑という感情を隠そうともしなかった。


「今まで人間には寿命があった。どれだけ権力を得ようと財産を蓄えようと、それら全てが死と共に消滅する、いわば欲望の限界点があった。寿命の克服によって、その限界が取り払われてしまったんだ。金も、土地も権力も、得たら得るだけ永遠に己のものだ。無論、維持できればの話だが」


「権力を維持するために、余計に必死になっているんですかね」


「違いない」


 ナサルサは大きく息を吐いて、


「そこまでわかっていながら、人格転移を行っている私たちは何なんでしょうかね……」


「仕方がないだろう。仕事をしなけりゃ飯が食えないんだから」


 結局、誰も彼もが自分の都合でしか動けないということだ。ナサルサもそれを責めることはできない。人格転移に関わったものが今さら手を引けば、どんな報復が待っているかわかったものではない。


「先輩、やっぱりこれ金属バットでブチ壊しませんか?」


 ナサルサが自嘲気味じちょうぎみにいうと、男も疲れた顔で笑い返した。


「実にいい考えだ。だが、時間切れだな」


 鳴り響くブザー音。培養液が抜かれ、少女らしきものが意識の定まらぬ虚ろな目を向ける。


 入室許可も出していないというのに、スーツ姿の男が慌てた様子でドカドカと大勢乗り込んできた。


(カードキーなんかどこで手に入れたやら。取り巻きの皆さん、ご苦労さんって感じだな)


 とがめることも忘れ、男は冷ややかな視線を向けた。


 何が気にくわないのか、培養槽から出された少女は部下の頬を張り飛ばし、人格そのものを否定するような罵声を浴びせている。


(嫌な光景だ。ああ、見ていて本当に嫌になる)


 また世界に悪意がひとつ産み出された。男はそんなことを、他人事のように考えていた。

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