テセウスの船

第164話

「テセウスの船、って知っているか?」


 先輩がまた妙なことを言い出した、とナサルサは目を細めた。もっとも、この人が変なことを言い出すのはいつものことであるし、何でもいいから話をしていたい環境であることもわかる。


 研究員らしからぬ長髪で、研究員らしい青白い顔をした男。ライトのせいか、その顔は貧血を通り越して死人のように見えた。


「ある物体を構成するパーツが全て置き換えられたとき、それを同一の物として扱うべきかどうか、という問題ですよね」


 ナサルサは胸元に手を差し入れ、ボリボリと掻きながら答えた。最後に風呂に入ったのは一週間くらい前だろうか。髪はボサボサで油っぽい。掻いた爪の先に、微かにあかが残る。


 女としてこれはどうなのだろうと悩んでいた時期もあるが、周囲の人間は誰も注意はせず、むしろ同類ばかりなのでいつの間にか慣れてしまった。


 目の前の男からも、身だしなみに気を使えとか、もっとオシャレをしろなどと言われたことは無い。今も会話が続いたことに満足してか、楽しげに頷いている。


「そうだな。船底に穴が開いたから交換、櫂が折れたから交換、船こぎ奴隷が死んだから交換。そうしたことを繰り返して元のパーツが無くなったとき、それは同じ船であるといえるのかどうか。……ま、船のことはどうでもいいんだ」


「どうでもいいんですか」


「人間は、どこまでが人間と言えるのだろうなぁ……」


 また、話が飛躍した。


 テニスコートほどの敷地を埋め尽くすコンピュータがブゥンと唸り続ける。ナサルサの思考にノイズがかかったように思えるのは、機械の唸りかそれとも男のささやきによるものか。


「たとえば右腕が事故で千切れたから義手を付けた。これは義手を付けただけの人間だな。ナチュラリストの過激派でもない限り文句は言わんだろう」


「それはそうでしょうね」


 この男は何を言いたいのだろうか。青白い顔と、彼がまとう芸術家じみた狂気のおかげで、悪魔が優しく契約内容を語っているような気分になる。


「では、四肢を切り落として義肢に換えた場合はどうか?」


「それは、人間でしょう。手足などただの末端器官、人間性に関わるようなものではありませんよ」


「人間性、ふむ、人間性ね」


 男は納得したような、小馬鹿にしたような顔で頷いた。


「肺が悪くなったので人工肺に換えよう。がん細胞に犯された腸も換えよう。心筋が弱りポンプとしての役目を果たせなくなってしまった、これを換えよう……」


 架空の人物が次々と臓器を取られ、人工物に換えられていく。それでもナサルサは、もう人間ではありません、とは言わなかった。


「君もなかなかに強情だな。もう、目も舌も顔も全て人工物になってしまったよ。それでは最後に残った器官だが……」


 とうとう来たか、とナサルサは身構えた。こんな話を続けていればいつかはたどり着くだろうと思っていた。わからないのは何故なぜ、彼がこんな話をするのかということだ。


「脳の情報を全て機械に移し、それを頭に直結したとして、これは人間か?」


「人であり、本人です」


 ナサルサはハッキリと答えた。自信があったわけではない、そう答えなければ己の存在意義を否定することになるからだ。


「ふぅん……」


 と、男は鼻白んで、振り返らず肩越しに後ろの培養槽ばいようそうを指さした。培養液の中には15、6歳くらいの可愛らしい少女が浮かんでいる。


「こいつは、人間か?」


 男の顔から表情が消え、刺すような視線をナサルサに向けた。


 人は弱った臓器を次々に交換することで寿命を飛躍的に延ばしてきた。だが、老化を止めようが無く交換も容易ではない最重要器官が残った。脳だ。


 人の欲望に限りは無く、それなりに寿命が延びたのだから良いではないか、では済まなかった。次に目指すべきは当然、脳の交換だ。


 意識、人格とは神秘の領域では無く、膨大な電気信号の集合体だ。ならば一時的にでも機械に移し替えることは可能であろうと始まった研究。


 十数年の時を経て実用化に至り、今ではデータ移植専門の会社まであるくらいで、ここはそのうちのひとつだ。余談ではあるが、実用化した頃には当初の出資者は皆、老衰ろうすいで亡くなっている。


 人格を機械に移し替え、古くなった肉体を捨て、培養したクローン体に移し替える。倫理的、哲学的な問題は山ほど残されていたが、不老不死という魅力の前に全ては黙殺された。


 今はクローン体に人格をダウンロード中で、不慮ふりょの事故に備えてふたりは待機しているというわけだ。何も無ければ楽だと思っていたがが、何度もやっていると暇が苦痛へと変わる。


 会話が途切れて手持ち無沙汰ぶさたになったナサルサはタブレットを拾ってデータに目を通す。特に確認したいことなど無い、レストランのメニューを適当に眺めるようなものだ。


「え……?」


 そこに異質な物を見つけた。データ自体に問題は無い、目の前で起きていることと矛盾があるのだ。


「政治家、肉体年齢52歳、実年齢133歳、男性……?」


 タブレットと培養槽を何度も見返す。何度見ても、培養液に浸され人格をダウンロードされているのは女の子だ。


 狼狽ろうばいするナサルサに、男は興味なさそうにいった。


「女の子になってみたかったんだってさ」


「なってみたかったって……。それじゃあ、これは誰のクローンなんですか!?」


「さぁ? 噂じゃどこぞのアイドルの遺伝子情報を数億ドルで買ったとか聞いたが、真相はどうだかねぇ……」


 淡々と語る男に、ナサルサは激しい嫌悪感を覚えた。


 ……いや、とすぐに考え直す。自分も今、このおぞましい行いに加担しているところなのだと。


「……許されるのですか、こんなこと」


「許すも何も、どこのどいつが許さないっていうんだ。こいつは法を運用する側の人間だぞ? 俺たちみたいな貧乏人が騒いだところで何も感じないさ。発情期の猫みたいなもんだ。正義感に燃えて、培養槽を金属バットでブチ壊そうっていうのであれば、せめて俺の居ないときにやってくれ」


 男はどこか投げやりにいった。言葉の中にあるものは納得でなく、諦め。これが世界の仕組みだなどと、さかしらに語るつもりは無い。


「そもそも自分のクローンなら利用していいが、他人のは駄目だなんて理由がないだろう。噂が正しければ当人らの間で取引は成立しているんだ。他人が口を挟むようなことじゃない。俺の遺伝子情報が欲しいという奴がいたら100ドルで売ってやるね。ガキの頃から貧血気味だったから転送先としてはお勧めしないが」


「言葉で正当性を主張することはできるでしょう。ですが、そうやって倫理のたがをひとつひとつ外していって、行き着く先はどこなのでしょうか……?」


 ナサルナの言葉に、今度は男が黙り込んだ。クソだ、ろくでもない世界だ、それだけはわかる。


 男は振り返り、培養槽を汚らわしいもののように見てからもう一度いった。


「これは、人間か?」


 ナサルサは、人間ですと即答できなかった。   

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