第160話 蜘蛛の糸 ー マスタード ー
蜘蛛の糸、それは仏が地獄から罪人を助け出そうとする話ではなかったか。
マスタードにとって蜘蛛の糸は救いなどではなく、むしろ地獄へと伝って降りるための物だった。向けられた銃口を前に、そんなことをぼんやりと考えていた。
調子にのっていたというか、浮かれたところはあったと思う。
ハンター家業を長く続けていて、初めて目標といえるものができた。
丸子製作所のお抱えハンターとなり、ディアスたちの仲間になりたい。北の街への遠征計画とやらにも付いていきたい。
認められるためにも、中型ミュータントを安定して狩れるハンターという実績が欲しかった。バイクでそれをやってのける非常識な男がいるのだ、装甲車で出来ないはずはない。
ハンターオフィスにて新型ミュータントの情報を仕入れた。それらしき奴がいるらしい、というあやふやな話だ。ある意味で一番価値のある情報である。
「なあペドロ、次はこいつに挑戦してみないか?」
マスタードは喜び
丸子製作所の所長、丸子マルコはミュータントの情報を熱心に集めているらしい。それが兵器開発のためか、あるいは中央議会での地位を高めるためかは知らないが、新型の情報を差し出せば覚えがめでたくなることは間違いないだろう。
するとペドロは、
「いいじゃないか、やろうぜ」
と、
いつもならば、
『まあ、いいんじゃねえの』
と、興味なさそうに賛同するか、
『どうにも気が乗らねえなあ……』
と、面倒くさそうに反対するかのどちらかであったからだ。
不思議そうな顔をするマスタードに向けて、ペドロは苦笑を浮かべて見せた。
「どこから話せばいいかな……。買い換えてから機関銃の調子が良くてな。弾づまりはしない、発射速度も上がった。旋回もスムーズだ。今まで仕方ない、当たり前だと諦めていたことが、ちょいと視野を広げるだけで当たり前ではなくなったんだよな」
だから何の話だと口を開きかけるマスタードをペドロは手で制し、続けていった。
「欲が出ちまったんだよ。もっといい武装が欲しい、エンジンを換えて装甲も厚くしたい。いっそ戦車に乗り換えてもいいな。そのためにもミュータントをばんばん狩りてえわけだ」
「いっそトップハンターでも目指すか?」
「へっ、冗談じゃねえ。あんな連中と張り合えるかよ」
そういって、ぬるくなったビールを飲み干してから、
「しかしまあ、ランキングに入ったり入らなかったりとうろうろしているよりも、もうちょい上を目指してもいいかもしれんな。俺の人生はこんなもんだと、自分で勝手に決めちまった
「いいな、うん、実にいい。何というか、俺たちの人生が熱くなってきた、そう感じないか?」
「いや、別に……」
「そこは賛同してくれよ!」
顔を見合わせ、ふたりでゲラゲラと笑いだした。
もう誰にも負けない、そんな気がしていた。特になんら根拠はなく。
人と蜘蛛とが合体したようなミュータントを1体倒した。2体目が背後から襲ってきたがこれも撃退した。3体目が現れたがこれにも手傷を負わせた。
快進撃と呼ぶべき大戦果である。頭のなかで賞金の額とその使い道を考え興奮していたが、やがてそれは
敵はどれだけいるのだろうか、と。
中型ミュータントは基本的に単独、あるいは
撤退、それを考えるには遅すぎた。気が付いた頃には谷の奥へ、奥へと入り込みすぎていたのだ。3体目にとどめを刺す前に4体目が現れた。4体目に対応する前に5体目が襲ってきた。
後に残されたものは、ただ静寂のみ。
マスタードは装甲車を降りて、その上部を見上げた。そこには先端を石膏で固めたような機関銃があり、仲間の姿がない。
「どうして……」
マスタードは空を仰いだ。
荒野で頼れるものは己の力のみ。どんな理不尽なことでも起こりうる。そんなことはわかっている、わかってはいたが、天に問わずにはいられなかった。
つい数十秒前まで元気に機関銃をぶっ放していたではないか。何故、今そこに居ないのか。
ちょっとションベンしてた、などといって物陰からひょっこり現れそうな気がして周囲を見回すが、誰も出てこない。
(つまらない冗談はやめて出てこいよ……)
泣き出しそうな顔で何度も、何度も見回す。
地面に点々と血の跡が付いているのを見つけた。負傷した機織蜘蛛のものだろう。これを辿って行けばそこにペドロがいるかもしれない。
装甲車に乗り込みアクセルを踏む、つもりだった。足が硬直して動かない。ハンドルを握る手も震えだした。
機関銃は使えない。そもそもあれは車内の操作は出来ない。丸腰でミュータントの巣に乗り込んでどうしようというのか。待っているのは確実な死だ。
ペドロを見捨てるのか。
仕方がない。
どうしようもない。
放心状態で装甲車をUターンさせた。街へ向けてのろのろと走り出す。
「そうだ、助けを呼ぼう。それが一番確実で、現実的だ……」
自分に言い聞かせるように呟いた。
「ディアスに頼めば中型ミュータントが何体いようが蹴散らしてくれるさ、きっとそうだ……」
希望、あるいは都合のよい言い訳が思い浮かび暗い笑みが浮かぶ。その
(何と説明すればいいんだ。仲間を見捨てて戻ってきたと、あいつの前で言わねばならないのか……?)
命の恩人であり、最強のハンター。誰よりも尊敬するあの男に無能と呼ばれるのは構わない。しかし、卑怯者と
あの
恥を捨てきれぬ己を恥じた。
「どうして……」
うつ伏せ、額をハンドルに乗せて呻いた。
頬が熱い。流れる涙をそのままに、身動きが取れずにいた。
「どうして、こんなことに……ッ」
荒野の真ん中で、彼の嘆きに答える者はいない。
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