第156話
最悪の想像を超えた、最悪の状況。
まだ体が半分も入っていないようなタイミングで
旋回するような暇はない。センサー類をフル稼働させて、障害物を避けながら高速で走り続ける。まさに後ろに目がついているかのような走りだ。
激しく揺れる戦車のなかでディアスは壁に手をつきながらなんとか砲手席にたどり着いた。
(判断が甘かった……)
喉の奥に広がる、苦い後悔。
行方不明者のあまりの多さから、敵が一体や二体では済まないことは予測できたはずだ。マスタードがどう動くのか、その事にばかり気をとられていたようだ。
悔やんでばかりもいられない。今はカーディルの撤退を援護しなければ。
対空機銃2丁、ガトリングガン2丁が迫りくる機織蜘蛛たちに向けて一斉に放たれた。
ディアスのやることである、適当に乱射したのではなく狙いも正確だ。機織蜘蛛1体の頭が対空機銃に撃ち抜かれた。もう1体、崖から落ちた機織蜘蛛が追撃のガトリングガンで蜘蛛の体を徹底的に破壊され、大地に叩きつけられた。
(よし、いける……ッ)
これで敵の動きも鈍るだろう。そう思った瞬間、砲塔の右側から衝撃が走る。モニターに浮かび上がるレッドアラート。砲塔右側、対空機銃が破壊されたのだ。
「やられた、やりやがったあの野郎!」
カーディルが憎悪を込めて叫ぶ。ディアスもモニターを確認すると、正面に現れたのはマスタードの装甲車であった。
かわしきれなかったのは無理もない。狭い地形で、上方から迫る10体のミュータントに対応しながら走らねばならないのだ。前方という死角からの一撃。致命傷を避けただけよしとするべきか。
(馬鹿な、奴は動けるような体ではないはずだが……)
反撃しながら考え続けるディアス。やがて忌まわしい記憶とともにある答えが導き出された。
糸だ。蜘蛛形ミュータントの吐く糸には強力な止血効果がある。それこそ、切断された手足の血を止めるほどに。
それが何を意味するのか。マスタードはなんとなくでミュータントとつるんでいるのではなく、ハッキリと
ミュータントに変化した人間はいた。だが人間のままミュータントと組んで襲ってくる相手など初めてだ。
奇妙なことではあるがディアスがこのときマスタードに抱いていた感情は嫌悪や軽蔑でなく、微かな尊敬であった。
もしもカーディルが何らかのきっかけでミュータント化したら自分はどうするだろうか。彼女を殺して自分も死ぬか、あるいは彼女と共に人類に敵対するだろうか。
犬蜘蛛に連れ去られたあの日、一歩間違えればカーディルがミュータント化していた可能性は十分にあった。他人事ではない。
マスタードは友と生きることを選択した。見捨てることも無視することもなく、正面から向き合ったのだ。少なくとも、仲間が捕らわれたというのにどこか人任せな態度をとっていた時よりもよほど好感がもてる。
……個人的な感想である。捕らわれ、糸で巻かれ死を待つばかりの犠牲者たちの前で、あいつは立派な奴だよなどと言えるはずもない。マスタードは人として決して許されぬことをした。人類社会に彼らの居場所はない。
(ならばせめて、俺の手で葬ってやろう。ペドロと一緒にこの地に埋めてやる)
死の先にしか救いはない。ハンターも、ミュータントも、つくづく呪われた存在だ。
23号と装甲車が直線で結ばれた。沈黙の牙、120ミリ滑腔砲が吠える。榴弾が装甲車へ突き刺さり爆発炎上……するはずであった。
砲弾は射線に割り込んだ影に防がれた。1体の機織蜘蛛だ。その体は爆発、四散した。血と肉が舞い上がり、雨のように降り注ぐ。
血煙の中から重機関銃が放たれる。これを23号は砲塔を傾けた防御姿勢をとり正面装甲で受けた。かすっただけでも人の頭が弾けるような凶悪な弾丸の雨が、鋼鉄の鎧に阻まれ虚しく落ちる。
互いに決定打を与えられぬまま谷の出口へと走り続けた。
装甲車を操るマスタードの顔に、焦りと苛立ちが浮かんだ。
(仲間を犠牲にした必殺の一撃が二度もかわされた! どうなってんだアイツら、クソッ!)
ディアスが予想した通り、マスタードの手足に止血のため蜘蛛糸が巻かれていた。だが正しく治療したわけではなく、
(この戦いが終われば、俺も機織蜘蛛へ転生するしかないか……)
ミュータントになれば当然、装甲車を操ることはできない。街へ行って情報収集することや、ハンターを言葉巧みに誘い出すこともできない。戦略に大幅な変更を
いや、とマスタードはすぐに考え直した。勝てば強力なミュータントが2体仲間になるのだ。弾除けにしか使えないような雑魚とは違う、最低最悪の悪夢が現れる。
(いいな、とてもいい。俺とペドロとあいつらでこの地に楽園を築こう。当初の予定とは大分違ったけど、これでみんなみんな仲間だ……)
歪んでいるという自覚はある。だが止まることも後戻りもできはしない。
自ら流す血で足元を濡らしながら、マスタードは光のない瞳で笑い続けた。
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