第70話
ディアスは右手に
つい先程、所長執務室にてマルコとロベルトの前で先日の救助活動についての報告を済ませた。特に
マルコはディアスのこうした姿勢に慣れていたし、混じりっ気なしの報告だからこそ
一方で派手な
その後、ロベルトからシーラとの結婚を持ちかけられたが、これはカーディルが予言していたようにきっぱりと断られた。
ロベルトはシーラがいかに良い娘か、ロベルト商会と
気に入ったものは何でも手に入れなければ気が済まない産まれながらの貴族といえど、この時ばかりは壁に向かって熱弁しているような
「もういい……」
「そうですか」
正直なところ
(今度はなんだよ……)
と、少々うんざりとしていたディアスに、ロベルトは脇に置いていたカゴを差し出した。
「こいつは俺からの礼だ。受け取ってくれ」
「は、しかし
報酬の二重取りは単に
商売人であるロベルトもそこらの事情はよく理解しているようで、笑いながら手をひらひらと振ってみせた。
「後になってから報酬を受け取っただろう、なんて言うつもりはねぇよ。こいつはあくまで俺の感謝の気持ちだ。それくらいならいいだろう?」
ちらとマルコに視線を送ると、彼は軽く頷いてみせた。問題はない、そういうことだろう。
これ以上固辞することはかえって失礼であろうし、カーディル以外の人間から純粋な感謝の気持ちを向けられることなどめったに無いので、なにやら気恥ずかしいような喜びが沸いてきた。
「では、ありがたく
ロベルトに対する評価を、ワガママで面倒くさいオッサンから少しだけ上方修正し、ディアスは頭を下げてからカゴに手を伸ばした。
そして、中身を見て動きが止まる。
二本のボトル。贈答品として使われるのだ、水やジュースではないだろう。
そんなディアスの動きを緊張で固まっているものと誤解したのか、ロベルトは
「世間に出回っている酒なんか酒じゃねえ、あんなものはアルコールと人工甘味料と香料の混ぜ物に過ぎない。ブドウを栽培して絞り、樽の中で熟成させたこれこそが本物だ」
「そういうものですか……」
「おっと、こんな時代に何を贅沢な、とか言うなよ。こんな時代にだからこそ、文化の
顔一杯に善意と好意を溢れさせるロベルトに背を向けるようにして、ディアスは執務室を後にした。
ディアスもカーディルも、酒が飲めない。
街の権力者から好意でもらったものだ、その扱いも適当というわけにはいかない。捨てるとか売り飛ばすなど論外である。
通りかかった古ぼけたトタン屋根の整備工場から多くの人間が動き回るような物音が聞こえる。覗いてみると、ベンジャミンら整備班がせわしげに働いていた。
邪魔するわけにはいかないな、とその場を離れようとしたところで
「よう、ディアス!」
と、ベンジャミンが声をかけてきた。
「やあ班長。なんだか忙しそうだな」
「おうよ。この前のお詫びのつもりなのかな、ロベルトさんから戦車10両の注文が入ってな。どこもかしこもお祭り騒ぎ、俺たちはここで最終調整やってんのさ。こっちはまだ納期に追われちゃいないが、組み立て工場のほうには行くなよ。あいつらマジで殺気だっているから」
「気を付けよう。それにしても10両注文できる財力もさることながら、それを全てお抱えのハンターにでも与えるのか?大した戦力増強だな」
「マルコの大将もご機嫌だったろう?」
そういえば、と先程の会見を思い返す。救出前は呪い殺さんばかりの
それをベンジャミンに伝えると
「大口の発注もでかいが、機動要塞をその目で確かめたことでわだかまりが解けたんだろうな」
「なんでここで、あのデカブツが?」
「わからんか」
「わからん」
「つまり、博士はロベルトさんに荒野は危険だから観光気分で行くのは止めろと忠告したが無視されて結局遭難した、今まではそう思っていたんだな」
「違うのか」
「実際にあれに乗ってみるとな、ええと……ボキャブラリーが
「班長ほど戦車に精通した人間がすごいと言うのだ、それだけで充分伝わるさ」
「ありがとよ。で、話を戻すがロベルトさんは忠告を無視したわけじゃなくて、ちゃんと聞いたからこそあんな大袈裟なものを引っ張り出して、さらにハンターたちを十数人も積んでいったんじゃないかってな。そこまでやって遭難したならもう、事故だよ事故。仕方ねぇ」
「事情を知って仲直り、ということか」
「さらにこの一件でロベルトさんからは、丸子製作所は信用の置ける企業だっていう評価もいただけただろうからな。雨降って地固まるってやつだ」
「この街には重金属酸性雨くらいしか降らないけどな」
「せっかく良い話にまとめようとしているんだからさぁ……」
「すまない」
苦笑いしながら、話も一区切りついたことで立ち去ろうとするが、ふと顔をあげるとベンジャミンの妙な視線に気がついた。
どこか離れがたいような、未練がましい視線を向けている。知り合いの中年男から何故こんな目で見られなければならないのかと考える。ベンジャミンの眼はディアスというより、その右手に吸い寄せられているようだ。
(忙しいとか言いながら話しかけてきたのはそういうことか……)
呆れると同時に、せっかくの贈答品を飲めない人間が無理に飲むよりは味のわかる相手に渡したほうがよかろうと、カゴを差し出した。ベンジャミンの思惑に乗ってやるのも
「班長、もしよければこれを……」
「ええっ、いいのか?悪いなぁ」
と、ベンジャミンはわざとらしく驚いてみせる。さっきから粘っこい視線を向けて、こうなることを期待していただろうに。
「皆で分けてくれ」
「あ、うん、そういうこと言っちゃうか……」
「なにか問題が?」
「いや、別に……」
ベンジャミンの肩ごしに見える整備士たちは笑顔で拳を振り回したりしているので、恐らく対応として問題はないだろう。
「ええい、もう今日は仕事はしまいだ!お前ら、どうせ気になって集中できないだろ!?」
振り返り、半ばやけくそともいえるベンジャミンの宣言に整備士たちから歓声があがる。
「誰かひとっ走り売店に行って、なにかつまみになるものでも買ってきてくれ」
「それはいいけど、先に始めたりしないでくださいよ」
「心配するな、10分程度なら理性がもつ」
くそったれ、と叫びながら整備員の一人が走る。
どこからなのか、大量のコップが持ち出され配付された。何故こんなにもスムーズにコップが出てくるのか、ディアスそれは考えないことにした。
自分の役目は終わったとばかりに
「まあ待て、一杯くらい飲んでいけよ。お前が飲めないのは知っているが、後で何か聞かれて、飲んでませんじゃ立場が悪かろう」
「確かにそうだが……。どうして
「がはは、酔っ払いに整合性を求めるな」
「まだ飲んでいないだろう?」
「酔うのが遅いか早いかの違いだ。大したことじゃない」
笑いながらベンジャミンはコップを差し出した。飲めないディアスに
辺りを見回すと、整備班の誰もが笑顔で暖かくディアスを見守っていた。ディアスはコップを持ったまま立ち尽くした。この不思議な雰囲気に
6年前、何もかもを失ったときは己の生きる世界にはただカーディルがいるだけだった。他は何も見えていなかった。
今こうして多くの人たちに囲まれて、自分の世界は少しだけ広がったのだと実感していた。
ワインを一気に飲み干した。ほんの少量で味もわからないが、喉を通る熱い感触は不快ではない。
「いいものだな、文明の味というのも」
と、いって押し付けるようにコップを返す。それ以上の言葉は必要なく、男たちはただ
ディアスが立ち去った後も一晩中、整備工場から灯が消えることはなかった。ボトル二本で足りるはずもなく、安酒を買い足したのだろう。
工場内で宴会をやっていたことについては後日、ディアスも一緒に怒られた。
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