第9話

「ひぃぃ!」


 ディアスは情けない悲鳴ひめいをあげて退さった。


「なんだこれ……なんなんだよ、これ!」


 誰に向けてというわけでもない独り言を呟く。恐怖を少しでも吐き出しておかなければとても正気ではいられそうになかった。二本の足がきちんと地についているのか、それすら自信が持てない。


 ヘッドライトに照らされたカーディルの蒼白あおじろい、感情のない顔がわずかにかたむき、ディアスへと向いた。ガラスだまのような目がディアスを見ているが、認識しているかどうかはうたがわしい。


 とにかく今は一刻いっこくも早く蜘蛛たちを引き剥がさねばならない。汗のにじむ手でライフルを構えて、しばらく迷った後にその無意味さをさとった。撃てばカーディルにも当たる。


 こうなると手で振り払うしかないのだが、まれてしまわぬよう、日除ひよけ用のマントを腕に巻き付けることにした。だが、気ばかり焦ってなかなか脱ぐことができない。


 こうして救出の準備を進めている間、誰にも邪魔をされることはなかった。カーディルは意識があるかどうかもわからず、子犬蜘蛛たちは構わず食事を続けている。肉食蠅もおこぼれにあずかろうと集まってきたようだ。


 誰も、ディアスを見ていない。


 人間だけではない、虫も化け物も、彼をただそこに居るだけのものとしか見ていないのだ。


(ふざけやがって……ッ、誰も彼もが俺を無視しやがる。こんな虫ケラどもでさえも)


 強い苛立いらだちを抱いて、大股で子犬蜘蛛たちのそばに寄ると、マントをきつく巻いた右手で、カーディルの腹の上でうごめく子犬蜘蛛をはらった。


 さらに1匹の蜘蛛を掴みあげ、叩きつけ、その胴体を怒りと全体重をかけて踏み潰した。体液を撒き散らし、酸性さんせい刺激臭しげきしゅうを立ち上らせた。


 蜘蛛としての胴体はぐちゃぐちゃに潰れ、犬の首だけが転がった。


 ここまでしてようやくディアスの存在と危険性を認識したのか、まさに蜘蛛の子を散らすように一斉いっせいに去っていった。数十匹はいたかという蜘蛛たちが今はもう何処どこに行ったかすらわからない、見事な逃げっぷりである。


 飛び回る肉食蠅を振り払い、カーディルの様子を確かめる。


 服は肉と共に食い散らかされ、着ているというより、ぼろきれがまとわりついているといったところだ。隙間すきまから見える白い乳房ちぶさや腹にもついたあとが痛々しい。


 意外にも出血は少ない。手足の切断面に白いねばつく糸がめぐらされ、出血をおさえているようだ。こうして獲物えものを生かしたまま保存し、い続けるのが奴らの習性なのだろう。


 胃液いえき逆流ぎゃくりゅうしそうになるのをなんとかこらえ、代わりに涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。これがあのカーディルなのか。砂塵さじんの世界を可憐かれんに、颯爽さっそうと駆け抜けていた少女なのか。


 泣きじゃくるディアスを余所よそに、カーディルは相変わらず感情のない目で、壁のような天井を見上げていた。


 だが、確かに生きている。生きているからこそあわれでもある。


 やがて泣き止んだディアスは脇に置いていたライフルを掴み、立ちあがり、その銃口をカーディルに向けた。


「生きたいか、死にたいか……どっちだ?」


 静寂せいじゃく沈黙ちんもくがその場を包んだ。蝿の羽音も耳に入らない。じっと、互いの目を見つめていた。


 カーディルの唇がかすかに動く。四文字、のような気がした。


 ディアスに読唇術どくしんじゅつ心得こころえはない。冷静さもない。「タスケテ」なのか「コロシテ」なのかがわからない。


 文字数は同じでも意味は真逆まぎゃくである。ついうっかり間違えましたで済む話ではないのだ。


 ヘッドライトの薄明かりのなか、カーディルの目尻に光るものを見たような気がした。涙、だろうか。


 それは生きて欲しいというディアスの想いが見せた幻想だったのかもしれない。だが、これでやるべき方針ほうしんは固まった。


 震える銃口を下ろし、その場に膝をついてカーディルの身を起こし、力強く抱き寄せた。


「助けてやる。絶対に、助けてみせるから……」


 また、とめどなく涙があふれ出た。幻想でもいい、男が命をける理由としては十分だ。


 二人の上に、影が落とされた。


 背後の強い威圧感いあつかんに振り返る。瓦礫がれきを踏み潰す音と、獣の生臭く熱い吐息といき。闇のなか爛々らんらんと光る赤い目。


 巨大な犬蜘蛛であった。

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