第38話 久々の登板は危険!
『シュンスケ。指を伸ばせ』
ミドリが短いメッセージをよこした。聖子は相変わらず優雅な動作でポリタンクを振り回していた。タンクの口から、黒っぽい液体が飛び散るのが見えた。
「ごめんなさいねえ、ちょっと臭いがするし汚いけど、すぐに終わるわよ」
僕は指を伸ばした。と、指先に小さな物体が滑り込んできた。指を折り曲げて手中に隠すと、それがごく小さな鋏であることがわかった。
『シュンスケ。これでコードを切れ。私の方はもうほとんど切ってある。要領よくやれば数分で切れるはずだ』
僕は舌を巻いた。あの状況で、どうやったらこんな真似ができるのだろう。
僕はミドリに身体を寄せた。この距離なら、会話らしきものがどうにか可能だ。聖子は灯油をまくのに夢中で、僕の不自然な動きには気づいていない。
『ミドリ、一体いつの間に』
『少し前に百円ショップで買った物が、そのままジャージのポケットに入っていたのだ』
『ミドリ』
『なんだ』
『君は……裁縫もするのか?』
『わたしは、君が思っているよりずっと家庭的だ』
僕はミドリから手渡された鋏で、自分を拘束しているコードの切断に取り掛かった。
最初は切れ目を入れるのがやっとだったが、徐々に要領を得てスムーズに切断を進められるようになった。両手を拘束しているコードをあらかた切り終えた時、聖子はすでに部屋中まんべんなく灯油を撒き終えていた。
「さあ、素敵なキャンプファイアーのはじまりよ」
聖子がテーブルの向こう側へと移動した、その時だった。僕の脳裏にある考えが閃いた。
『ミドリ』
『なんだ』
『いいか、彼女が部屋の隅に行ったら、僕が思いきり彼女に向けてテーブルを蹴る。彼女が壁に押しつけられ、動きを封じられている隙に部屋から出て助けを呼ぶんだ』
『……いやだ』
『なんだと』
『押し付ける役は私がやる。君が逃げ出せ』
『おい、よく考えてみろ。君の足であそこまでテーブルが動くか?……いいか。よく聞けよ。……子供ってのはな、大人のいう事を聞くもんだ』
『…………』
『子供を守ることが、大人の仕事。守られるのが子供の仕事だ。ここはおとなしく僕に守られろ』
『……わかった。言う通りにしよう』
『いいか、いち、にの、さんで蹴飛ばすぞ。いち……にの……さんっ!』
僕は脚にあらんかぎりの力を込め、ダイニングテーブルを蹴った。
「ぐえっ!」
ちょうど壁と柱が角を成す位置にいた聖子はテーブルに挟まれ、動きを封じられる格好になった。
「走れっ、ミドリ!」
小さな影が僕の脇から飛び出した。僕は渾身の力でテーブルを押し続けた。聖子が首を捻じ曲げ、悪鬼のごとき形相で睨み付けてきた。
「きさまあ、ふざけたまねおおっ」
ドアが開け放たれる気配があり、僕はミドリが脱出を果たした事を悟った。
僕はタイミングを見計らい、テーブルから足を離した。げほげほと咳き込む声を尻目に、僕はドアに向かってダッシュした。
「このやろおおおうっ」
獣のような声と共に耳元を何かが掠め、次の瞬間、目の前で植木鉢が砕け散った。
思わずひるんだ直後、目が眩むような衝撃とともに、後頭部で固いものが炸裂した。
「ぐえっ」
もんどりうって床に倒れこんだ僕に、引きずるような足音が迫ってきた。
「馬鹿にしやがってえ……殺してやる」
聖子の手には、巨大な花瓶が握られていた。あれを脳天に振り下ろされたら、万事休すだ。僕はにじり寄ってくる聖子の姿を視野に入れつつ、後ろ手で武器になりそうなものを求めた。
「無駄だ。後ろは壁だ」
聖子が勝ち誇ったように言った。言葉通り、僕の指先が触れたのは何もない壁面だった。
「畜生、これまでか……」
そのままするすると降ろした指がその時、何かを捉えた。
「死ねえええっ」
聖子が花瓶を大きく振り上げた。僕は探り当てたものを掴むと、思い切り反動をつけて聖子の方に放った。
「ぐえっ」
くぐもったような呻き声とともに、小太りの体が床に沈んだ。聖子の下腹部に、僕が投げつけた掃除ロボットがめり込んでいた。僕は身を起こすと再びドアに向けて駆け出した。
「逃がすかあっ」
一歩外に出た瞬間、後方から激しいタックルを食らい、僕は追っ手ともつれあう形でその場に倒れこんだ。周囲を探るべく顔を上げると、視線の先に信じがたい光景があった。
「ミドリ!どうして逃げなかった!」
僕の前に、駆け寄ってくるミドリが見えた。
「私にはできない!」
ミドリの絶叫を耳にしたその瞬間、僕はふくらはぎを強い力で踏みつけられていた。
「馬鹿なやつだな、お前は!」
あざ笑う声が響いたかと思うと、続けて丸太のような感触が背中をぐっと圧迫した。
「そのまま、こっちへ来い。いいか、少しでも妙な動きを見せたら、こいつにこれをお見舞いするぞ。二度目だが、かなり効くぞ、ふふふ」
どうやら聖子は片方の肘で僕の自由を奪い、もう片方の手でスタンガンをかざしているようだった。
「やっぱり子供だねえ。ミドリちゃん。……秋津さんも喜んでるよ。あんたがわざわざ戻ってきてくれて」
喜ぶわけないだろう……聖子の圧倒的な力から逃れようともがきながら、僕は呻いた。
なんて……なんて馬鹿なやつなんだ。大人を守ろうなんて、十年早いんだよ……。
「ミドリちゃん、頭を下げてっ」
突然、声が飛んできた。ミドリが頭を抱えてしゃがむのとほぼ同時に、ぼこっという鈍い打撃音がして僕の背中を圧していた力が消えた。
「な……?」
体を起こした僕の目の前に、一人の女性が立っていた。雪江だった。
片手に野球の軟球を握っている。そうだ、雪江は中学時代、女子野球部のエースだったのだ。
僕はミドリの身体を抱き上げると、勢いをつけて前方にダッシュした。
「ぐああああ、お前らあああっ」
背後で咆哮が聞こえた。このまま三人で走れば逃げられる。そう思った。
……が、驚いたことに雪江は臆する様子もなく、その場に立ち続けていた。
「雪江、逃げろっ!」
「……本当はいけないんだけど……ごめんなさいっ」
そういうなり、雪江は軟球を迫ってくる聖子に向かって投げつけた。軟球は見事に額を捉え、聖子は呻き声ひとつ上げずその場に沈んだ。
「デッドボール!」
ミドリがそう叫んだのを合図に、僕らは走り出した。私道に踏み込んだ直後、前方からサイレンの音が聞こえてきた。やがて木立の奥から二台のパトカーと救急車が現れ、僕たちの手前で停車した。
車両から降りる救急隊員と警官の姿を見た途端、僕はその場に崩れ落ちた。
心配そうに見下ろすミドリと雪江に向かい、僕は残った気力で親指を立てて見せた。
「ひと段落ついたようだから、休む。お疲れさん」
救急隊員によって担架へと担ぎ上げられながら、僕はあたりの様子を眺めた。
パトカー、救急車以外にももう一台、普通乗用車が停まっていた。降りてきたのは美登里と麻利絵、それにシュウだった。
「なんだい、もう捕り物は終わりかい。俺の出番がないじゃないか」
「そのほうがよかったんじゃないの」
シュウと麻利絵の冗談めかしたやり取りが、横たわっている僕の耳に届いた。
ふと気がつくと、ミドリが傍らに立っていた。ミドリは唇を真一文字に結び、何かを堪えるように僕を見ていた。
いいんだ、ミドリ。もう何も気に病むことはない。君は僕の命の恩人だ。
目でそう伝えると、ミドリの瞳がわずかに潤んだ。
「ミドリちゃん」
ミドリの背後から雪江が、そっと呼びかけた。ミドリが振り向くと、雪江はしゃがみこんで小さな身体を抱きしめた。
「あの人を守ってくれて、ありがとう。……本当にありがとう」
ミドリは微動だにせず、ただされるがままになっていた。
「ミドリちゃん。これからもあの人をお願いね。わたし……わたしなんにもできない人間だから――」
ミドリは不意に顔を上げると、毅然として言い放った。
「そんなことはない」
「えっ」
「あんな子供っぽい男をちゃんと世話しているではないか。私には……できない」
「ミドリちゃんっ」
雪江はミドリを一層強く抱きしめると、嗚咽した。
〈最終回に続く〉
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