第35話 秘密の名前は危険!
僕は百円ショップの一角で考え込んでいた。
本当は園芸コーナーや製菓コーナーで変わった形の金属部品を見つけようと思っていたのだが、いざ陳列されている商品を見ると、イマジネーションがしぼんでしまうのだった。
しかしファンシー商品を元に作るというのはプライドが許さないな。
煮詰まりかけていることから目をそらそうと、俊介は文具コーナーに移動した。
消耗品を買っているうちにいいアイディアが生まれてくることも珍しくなかった。
懐かしいな。ここで顔見知りの優名をみなければ、ミドリに会う事もなかったのだ。
僕の脳裏に、あれから出会った個性的な人々の顔が浮かんでは消えていった。
まったく、どんな人間にも秘められた謎という物はある。僕自身がそうだったように。
「あらっ、秋津先生」
不意に声をかけられ、僕ははっとした。気が付くとすぐ隣に見知った顔が二つ並んでいた。島谷麻友子と津久井聖子だった。
「あ、どうも。珍しいですね、お二人で。……あ、でも部屋がお隣同士なんでしたっけ」
「ええ、そう。でも、二人で外出したのは今日が初めてよ。ね、聖子さん」
「そうね、私、基本的にお友達は少ないの。麻友子さんから装飾のアイディアをもらえないかって言われて、じゃあせっかくだからって感じで来たの」
「なるほど。……いや、利用のし甲斐がありますよ、百円ショップは」
僕が言うと麻友子が「でもセンスも問われるわねえ」と笑った。ほんの少し間まで、香辛料の匂いにクレームがついたらどうしようとか言っていた人とは思えない。
もっとも、麻友子にしてみれば聖子が何か言ってくるという事は、トラブルの始まりではなく新たな交流の幕開けという事になるのだろう。
「私のセンスだって、特に食欲がわいてくるようなものでもないからね」
聖子も自嘲気味に笑って見せた。それでも、ある種の心強さのようなものを二人が互いに求めているであろうことは、容易に想像がついた。
「そうそう、ここの奥にドリンクスタンドがあるんですけど、行ってみません?」
「あの、ええと」
「お誘いしたんですもの、ジュースの一杯ぐらいはおごりますよ。さ、行きましょ」
僕の返事を待たず、麻友子は歩き出そうとした。その足が唐突に止まった。
「あ……あれ、ひょっとしてミドリちゃんじゃない?」
麻友子がそう言い、一同の視線が雑誌コーナーの中を歩く緑色の人物に吸い寄せられた。
「ミドリちゃーん」
麻友子が呼ぶと、ミドリははっとしたようにこちらを向いた。
スタスタと歩み寄ってくるミドリを見ているうちに、僕は奇妙な既視感に襲われた。ひょっとするとまだ、あの時のまま時間が経っていないのではないか。
麻友子に「今日は何の用?」と聞かれミドリが口を開きかけた時だった。
「ミホ!……ミホ!」
女性の声がすぐ近くでした。声のしたほうに視線を向けると、四十歳前後と思われる長身の女性が、少しばかりいらだったような面持ちで立っていた。
女性は俊介たちの方に目を向けるとはっとしたような顔つきになり、すたすたと歩み寄ってきた。
「ミホ!あんまり勝手に動き回らないで」
僕は首を捻った。ミホと言う女性がこの中にいただろうか。
「ごめんなさい」
その声を聞いた途端、全員の視線が声の主に集中した。返事をしたのはミドリだった。
「あら……お知り合いの方?」
女性は僕たち一同を見まわすと、姿勢を正した。ミドリがミドリではない。その奇妙さに誰もが対応できずにいた。
「うん、ちょっと……私、先に外で待ってる」
そういうと、ミドリは僕たちの輪を抜け、出口の方に向かった。
「もう、本当に自分勝手な子なんだから」
女性はそういうと、レジの方に歩き去った。僕はミドリが気になり、麻友子に目で出口の方を示すと、移動した。
「ミドリ……」
自動ドアの傍らに所在無げに立っているミドリは、まるで待ちぼうけを食わされた子供のように見えた。そのたたずまいは今までのどのミドリとも違っていた。
「わたしは、ミドリではない」
いきなりミドリが言った。「ミドリじゃなきゃ、誰なんだ」そう訊くとミドリは一瞬ふっと空を仰いだ。
「私の本名は
「ずっと誰に対してもミドリで通してたわけか」
「そうだ。その方がみんな、自然に感じるようなのでな」
「あの人は?お母さん?」
「そうだ。不躾な母で申し訳ない。あれでも一応、常識はあるのだが」
「お母さんのことをそんな風に言うなよ。いい感じのお母さんじゃないか」
「そうだな。……すまなかった」
ミドリが俯くのと同時に、母親が現れた。
「あのう……美帆がお世話になっている方ですか?」
母親が、慇懃に笑いかけてきた。僕は「僕が彼女のお世話になっています」と言った。
立ち去る二人を見ながら僕はふと、本名を知らなかったからと言って、困ることは何一つないじゃないかと思った。やがて、麻友子と聖子が姿を現した。
「あれがミドリちゃんのお母さん?綺麗な人ねえ。宝塚みたい」
「あのジャージの子、前に麻友子さんのところのパーティーに来ていた子でしょ?あの時はジャンパースカートだったから別人かと思ったわ」
「それにしても驚いたわね。まさかミドリちゃんの本名が『ミドリ』じゃないなんて」
「そうですね。でも、いいんじゃないですか?我々にとっては『ミドリ』なんだから」
「でもなんだか、よそよそしい親子よね。本名を名乗らないことと関係があるのかしら」
「それこそ、親子関係なんて色々ですよ。べたべたした親子もいれば、無関心なのもいる」
「私も、あのくらいの子がいたらよかったなあと思いますよ。べたべたできなくてもね」
不意に聖子がため息をついた。麻友子がどことなく居心地悪げに僕の方を見た。
「すみません、しんみりさせちゃって。私、子供を亡くしてるもので」
「そうでしたか……まあ、僕もまだいませんけど、可愛いもんなんでしょうね」
「それにしてもミドリちゃんって何だかつくづく、不思議な子ね。あの緑色のジャージってなにかラッキーカラー的な意味があるのかしら。ねえ、津久井さん?」
いきなり話を振られ、聖子はしばし考え込んだ後、おもむろに言った。
「そうねえ、人によってはあったりするのかもしれないわね」
二人の会話を聞きながら僕は、ミドリはいつまでミドリでいるつもりなのだろうと思った。もしかしたら、このままずっとかもしれない。それはそれでいいような気がした。
「あら、雨だわ」
麻友子が頬に手を当てて言った。たしかに、時折水滴が顔にかかるのを感じる。
「みなさん、ドリンクを飲んでいる間に大降りになってきても何ですから、ここはいったんお開きにしません?私の車で皆さんをお送りします」
「いえ、僕はこの近くに作業部屋を借りてるんで、ここの百円ショップで傘でも買って歩いて行きます。わざわざすみません」
「あら、そうですか?どうぞ遠慮なさらずに。……聖子さんは?」
「そうね、私も悪いから遠慮させていただくわ。ごめんなさいね」
「そう……みなさん、お気になさらなくていいのに。……それじゃ、また」
麻友子は駐車場へ、聖子はドアから外へと姿を消した。僕はいったん店内に引き返すと、傘を購入した。気分的に、もう小物を買う気分ではなくなっていた。
急ぐこともなかろう、そんな風に気持ちを切り替えて、店外に出た。思ったほど雨脚は強まっておらず、僕は買った傘をぶら下げて駅の方へと歩き出した。
歩き出してほどなく、ビルの間から現れた車が僕の行く手を塞いだ。運転席を見ると、麻友子だった。麻友子はにっこりと笑って片手を振ると、さっそうとハンドルを切った。さすがにあのマンションに暮らしているだけあって、高級そうな車に乗っている。
僕がいったん止めた足を再び踏み出そうとしかけた時だった。
「ミホ!ミホ!」
また、ミドリの母親がミドリを呼ぶ声がした。振り向くと、先ほどの母親が傘を片手に困惑気な表情を浮かべていた。
「あのう……失礼ですが、またミホさんを探してらっしゃるんですか?」
「あ、さっきの……ええ。なんだかすぐにいなくなっちゃう子で……本当に困るんです」
「僕もその辺を探してみますね」
なんとなく勢いでそう申し出ると、僕は母親とは違う方向に向かって「ミドリ!ミドリ!」と叫んだ。後方では母親の「ミホ!ミホ!」と言う声がこだましている。はたしてミドリはどちらの呼び名により強く反応するだろうか。
少し、距離を置いて探したほうが効率的かもしれないな。
そう思い、僕は母親が捜している区画から少し離れた場所でミドリを探し始めた。
車道を渡って向こう側に移動しようかしまいか、僕が迷っていたその時だった。
右手から角を曲がってやってきたタクシーが不意に、目の前数メートルほどの位置で停車した。
おかしいな、と僕は思った。客らしき人間の姿がない。どこで拾ったのだろう。
いぶかしんでいると、タクシーが現れたのと同じ角から、二つの人影が姿を現した。
なんだあれは?
僕は思わず声をあげそうになった。人影の一人は少女――紛れもなくミドリだった。
この短時間で一体何があったのか、ミドリはぐったりと意識を失っているように見えた。
そのミドリを抱きかかえるようにして、一人の人物がタクシーに乗り込もうとしていた。
人物が誰であるかを把握した瞬間、僕の中に更なる疑問が炸裂した。
津久井聖子……なぜ?
〈第三十六回に続く〉
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