第13話 緑の野草は危険!


 電車の中でうとうとしていた僕は、メールの着信音で目を覚ました。


 表示を見ると送信者は那須早苗だった。僕の担当編集者だ。三時半にR駅の改札前で落ち合いたいという内容だった。僕は短く了解の意を返した後、時計を見た。時刻は午後十二時三十分だった。


 ふと思い立ち、僕は電車を降りた。午前中、電車を乗り降りしながら資料用の写真を撮影していたのだが、待ち合わせの時間までにもう一か所くらい寄れるだろう。


 僕が降りた駅は優名の祖母が住むマンションのある町だった。マンションの手前で綺麗な公園を見かけた事をふいに思い出したのだ。 


 駅舎を出ると俊介はバッグからデジタルカメラを取り出した。優名の祖母が住むK町はのんびりした住宅街で、公園以外にもいい風景がありそうだった。


 時折、立ち止まって資料になりそうな風景を撮りつつ、僕は記憶にあった公園の方角に向かって歩いた。公園はなかなか見つからず、気が付くとマンションは目の前だった。


 おかしいな……前に来た時は逆の方角から来たのだろうか。


 マンションのある一角をぐるっと回ってみよう、そう思った時だった。突然、僕の耳に男性の怒鳴り声が飛び込んできた。


「お婆ちゃん、勝手に人の土地に入り込んじゃ駄目じゃないか」


「ごめんなさい、私、もう何十年も入らせてもらってたんで、つい……」


「昔の事は知らんがね、現在のここの所有者は私なんだ」


  年配の女性の声にどこかで聞き覚えがあるような気がして目を向けると、はたしてそこにいたのは優名の祖母、光代みつよだった。光代は個人住宅と倉庫に挟まれた空地に中年の男性と向き合う形で立っていた。


「この土地はね、いずれ駐車場にしようって話が出てるんだ。こんな風に好きな時に入られると後々、事故の元になる。今後はやめてもらえないかね」


「はあ……あの、ヨモギを採らせてもらうだけでも駄目なんでしょうか」


「ヨモギだって?今どき町の中でそんな物が採れるのかい。諦めて買ってきたほうがいいと思うがな」


 男はずんぐりした体格で、口ひげを生やしていた。頑固な自営業者といった風貌だ。僕はおせっかいと思いつつ、二人に歩み寄った。


「あのう、失礼します」


「なんだい、君は。勝手に入って来ないでくれ。ここは私の土地だ」


「お話が聞こえてしまったので、つい……」


「あら、秋津さんじゃありませんか」


 光代が僕に気づいて、声を上げた。僕は軽く頭を下げた。


「先日はお邪魔しました……ヨモギを採ってらしたんですか?」


「え、ええ……ここは昔、お付き合いのあった下畑しもはたさんっていうお宅の土地だったんです。毎年、ヨモギを採らせていただいてたんですよ」


 光代がおずおずと述べると、髭面の男性がいち早く反応を示した。


「それはきっと僕の叔母でしょう。叔母は今、N町の老人施設に入っています。叔母は子供がなく、ここの土地は僕が資材置き場にするため、十年以上前に譲り受けたんです」


「……知らなかったわ。たまに資材みたいなものが置いてあったけど、その隙間から時々、ヨモギを採らせてもらってたの。ごめんなさい」


「うーん、まあ叔母もその辺はちゃんと説明しなかったんだろうな。とにかく、今後は勝手に入らないでください。いいですね」


「はい……そうします」


 光代はうち萎れた様子で言った。僕は光代の手に摘み取ったらしい植物が握られていることに気づき、声をかけた。


「光代さん、それは……ヨモギですか?」


「ああ、これ?そうじゃないかと思って摘んだのだけれど……じゃあ、これもお返ししなくちゃいけないですね」


「いや、いいですよ。それくらい。最後だと思って記念にお持ち帰りください」


 男性は鷹揚に言った。僕が「最後のヨモギか……」と何気なく口にすると、光代は「お餅を作るにしても少なすぎますね」と寂しそうに返した。その時、横合いから声がした。


「それはヨモギではない。それでお餅なんか作ったりしたら最悪の場合、命に関わるぞ」


 その場にいた全員の視線が、声の主へと向けられた。立っていたのは、ミドリだった。


「ミドリちゃん……」


「おばあちゃん、それはヨモギじゃない。なにかはわからないが、トリカブトの可能性がある。気を付けたほうがいい」


「えっ、トリカブト?」


 光代はそう叫ぶと手の中の野草に視線を落とした。


「本当だわ。葉っぱの形が違う……ミドリちゃん、よくわかったわね」


「物の形を見分けるのはうまいのだ。持って帰らなくてよかった」


「すごいわね、そんな遠くからでも見分けがつくなんて。……私も歳かしらね、ヨモギとトリカブトの見分けがつかなくなるなんて。昔だったら絶対に間違えなかったのに」


「ヨモギとトリカブトは経験のある野草採りでも間違えることがある。久し振りで勘が戻っていなかったのだろう」


「それにしても……まあ、仕方ないわね。この頃は目もかなり悪くなってきたし。もうそろそろ、ヨモギ採りも引退かもしれない」


「まあ、そう寂しいこと言いなさんな」


 光代を慰めたのは、髭面の男性だった。


「ここではちょっと困るが、もっと田舎の町にでも行ってゆっくり採ったらいいさ。俺も昔、お婆ちゃんにヨモギのお餅を作ってもらったことがあるよ」


「そうねえ、目さえ良かったら、もう少し採っていたいのだけれど……」


 光代はふうと息をつくと、採った葉をティッシュに包んだ。


「そいつは俺が捨てておくよ。うちの土地から採ったもので事件が起きたら気分が悪いからな」


「そうですか、すみません」


 光代は男性に植物を渡すと、何度も頭を下げた。男性は「仕事があるから」とその場から去り、光代はミドリに礼を言うと、マンションに帰ると言って立ち去った。


 二人の姿が消えるのを見届け、僕は口を開いた。


「ずいぶんとタイミングよく現れたな」


「病院の帰りに、たまたま通りがかっただけだ。この近くの病院に子供の時から通っているのだ」


 ミドリはポシェットから薬の袋を取り出してみせた。子供の頃って、今でも子供だろう。


「それにしてもよく、あの草がヨモギじゃないとわかったな」


「さっきも言ったように葉の形が違うのだ。私には遠くからでもすぐにわかった」


「それなのに、長いことヨモギを採り続けているおばあちゃんがわからなかったってのは、いまいち納得が行かないんだが」


「それはお婆ちゃん自身も言っていただろう。目のせいだ」


「ああ、そう言えば最近、目が悪くなったと言っていたな。老眼かな」


「違う。それもあるかもしれないが、おそらくは白内障だ」


「白内障?」


「老化現象の一つだ。年を取ると眼球の水晶体が少しづつ濁ってくる。それが白内障と呼ばれるものだ。優名のお婆ちゃんもそれで葉の形を間違えたのだろう」


「白内障ぐらいは知ってるけど……よくそれに気づいたな」


「目を見ればわかる。水晶体が少し濁り始めていた」


「ううん、そうだったかな。じゃあ、治療をしなくちゃならないのか?」


「したほうがいいだろうな。進みすぎていなければ今は手術でかなり良くなるとどこかで見た記憶がある」


「自分でも目が悪くなってきていることは気づいているようだけど、病院に行っていないとしたら教えてあげたほうがいいだろうか」


「そこだ。おそらくお婆ちゃんは気づいていると思う」


「そうだろうか」


「ああ。早めに手術したほうがいいことも、きっと知っているだろう。おそらくは知っていて、あえて先延ばしにしているのだ」


「なぜ?」


「理由はいくつか考えられるが、まず可能性が高いのは金銭的な理由だろう」


「金銭的か。しかし優名ちゃんの一家はあのタワーマンションに住んでるんだぜ。お父さんはIT企業かなんかの経営者だろう、たしか。妻の母親の治療費くらい大したことないんじゃないか?」


「私もそう思う。だとすれば、病気のことを言っていないか、他に重要な何かがあって手術どころではないかのどちらかだ」


「お婆ちゃんの目が弱っていて手術が必要だって言う時に、それ以上重要なことが何かあるんだろうか」


「わからん。見た目は優雅な生活でも、その裏がどうなっているかは外部の人間にはわからない。会社が危ないのかもしれないし、何らかの理由で裁判をしなければいけないのかもしれない。お婆ちゃんはその大変な何かを知っていて、手術の事を言い出せないのではないかという気がするのだ」


「大変な何かねえ……僕が思いつくことと言ったら、優名ちゃんを竜邦の中等部に進学させようとしてるって事くらいだけど……」


「その優名だが」


 ミドリの口調が急に硬いものになった。


「家庭教師がつくようだ。親戚だとか言っていたが、どちらにしても当分、塾には戻ってこないだろう」


「すまん。……ぼくがだらしないばっかりに」


「いや、遅刻は誰にでもある。私の見通しが甘かったのだ」


 ミドリが険しい表情で俯き、僕はやりきれない思いに囚われた。


「なにか、僕にできることはないかな」


 沈黙に耐えかねて、つい口走った一言にミドリが反応した。


「こうなってしまった以上、もう何もない」


 そういうとミドリは顔を上げ、僕の目を見据えた。


「いろいろ手伝ってくれて、助かった」


 踵を返し、去ってゆくミドリを僕は暗い気持ちで見送った。


             〈第十四回に続く〉

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