第9話 隠し事は危険!
「でね、でね。デザートが素敵だったの。ヨモギのシホンケーキだったんだよっ」
「ヨモギの?」
「そっ。緑色だから、見た時は抹茶だと思ったんだ。でも、ヨモギなんだって。凄いよね。おばあちゃんのヨモギもちとおんなじ匂いがしたんだよ」
「それはいいものをごちそうになったわね。どこかで採ってきたのかしら」
「わかんない。でも、おいしかったっ」
優名はクッキーの粉だらけになった両手を握りしめ、ガッツポーズで力説した。
「ちょっと前まではこのあたりの空き地でも、ヨモギが採れたんだけどねえ……すっかり都市化が進んでしまって、土が露出してる区域が少なくなっちゃって」
独り言のようにそう言うと、光代はため息をついた。
「もう、作ってくれないの?ヨモギもち」
優名が少しばかり拗ねたような表情を作って言った。
「そうねえ。今度、散歩のときにでも探してみるわ。採れたら作ってあげるね」
光代がなだめるような口調で言うと、優名は「うんっ」と、満面の笑みで頷いた。
祖母に会ってすっかりくつろいだ気分になったのか、優名は「あー、塾に行きたくなくなってきた」とぼやき始めた。こらこら、塾に行くために俺を雇ったんじゃなかったのか。
「優名ちゃん、塾は休んじゃ駄目よ。休むくらいなら辞めてお家でしっかり勉強なさい」
光代が優名のぼやきを厳しい口調でたしなめた。孫に甘すぎる祖父母が多い昨今、なかなか骨のあるおばあちゃんだ。
「だってえ。学校からもお家からも遠いし、怖いんだもん」
優名が口を尖らせてわがままを言った。「怖い」という言葉は親や祖父母には殺し文句に近い効果があると知っているのだろう。なるほど「ミドリよりずるい」というのはこういうことかと僕は思った。もっとも、子供はずるいのが当たり前で、ミドリの物分かりの良さのほうが子供らしくないとも言えるのだが。
「何か怖い目に遭ったの?」
光代の表情がたちまち曇った。優名の目に一瞬「脅かしすぎたかな」という後悔の色がよぎるのを僕は見逃さなかった。
「ええと……前になんか、変な男の人を見かけたことがあったの。それだけだけど」
おそるおそる優名がそう口にすると、光代の口調が一変した。
「本当?お母さんには言った?どんな人?話しかけられたの?」
祖母からのたたみかけえるような詰問に、優名はあからさまな動揺を見せ始めた。目線をきょろきょろと泳がせ、「うんと、うんと」と言葉を探すのが精一杯のようだった。
「だっ、大丈夫。うん、見た目は気持ち悪かったけど、遠くから見かけただけだから大丈夫。話しかけられてもいないし」
これは明らかな嘘だった。ほんの三十分ほど前に優名自身の口から『声をかけられた』と聞かされたばかりだ。そのことも忘れるくらい、動揺しているのだろう。
「本当?おばあちゃんはねえ、いくらいい塾でも、危ない思いをするくらいなら思い切って辞めてほしいの。わかる?」
「あ、でも、ミドリちゃんもいるし、大丈夫」
優名は必死だった。僕は優名の弁明を興味深く観察していた。こういう経験を重ねて子供は「ヤブヘビ」という言葉を覚えてゆくのである。
「そうかしら……心配だわ。今のお話、お母さんにまだ話していないのなら、ちゃんとお話ししなくちゃ駄目よ」
有無を言わせぬ強い口調で、光代が釘を刺した。優名の表情があからさまに「言うんじゃなかった」という後悔のそれになった。
この辺で助け舟を出すか、と僕は思った。本当は光代の意見に同調したいところだが、ミドリとの義理を果たすことも大事だった。こと信頼関係においては大人も子供も違いはない。約束を反故にする人間は、誰からも信用されなくなるものだ。
「とりあえず、僕が塾までついて行きますから、ご安心ください。その上で、明らかに不審な人物の姿が見られるようであれば、お母さんに報告します。ここはひとつ、しばらく様子を見るという事でいかがでしょうか?」
俊介は言葉を選びつつ、優名を弁護する側に回った。光代はしばし考え込む顔つきになり、ややあってふう、と一つため息をついた。
「そうねえ。秋津さんでしたっけ?わざわざこんな子供にボディーガードなんて物々しいとお思いでしょうね。……でも家族にしてみれば、何かあってからでは遅いという気持ちが先立つものなんです。本当に、何か気になることがあったらすぐおっしゃってくださいね」
光代に深々と頭を下げられ、僕は「はい」と応じた。優名の目に安堵の色が浮かんだ。
「さあさ、それじゃもう、暗くならないうちにお行きなさい」
光代はそういうと、テーブルの上を片付け始めた。途端に優名は諦めの表情になった。
「しょうがない、行きたくないけど、行くかー」
ぐずっている優名を光代は「またおいでなさい」と優しく諭した。優名が去り際に手を振ると、光代は「秋津さんに迷惑かけちゃ駄目よ」と釘を刺した。
光代のマンションから塾までは歩いて十分足らずだった。太い幹線道路をまたいでしばらく行くと急に住宅がまばらになり、倉庫や駐車場が目立つさびれた風景になった。
「あとちょっとだよ」
優名が無邪気に言った。優名にしてみれば見慣れた、どうという事のない風景なのだろう。しかしボディガードを請け負った立場からすれば、日中とはいえこのように人気の少ない場所は、どうしても警戒心が先に立ってしまう。
足取りを優名に合わせながら、僕はあたりに不審な人影がないか、注意を払った。
道路幅は広く、車両の往来も多い。だが、人通りがほとんどなく、見通しの良い場所にも関わらず不審な行動をとるものがいたとしても目撃されない可能性が高かった。
「あ、見えてきた」
優名が指し示した方向に、こじんまりとした個人住宅が軒を連ねる一角があった。
「手前から三軒目のオレンジ色っぽい壁の家が、私が通ってる塾」
目を凝らしてみると、手前の建物越しにオレンジの外壁がわずかに覗いている住宅があった。ここからだと五十メートルくらいか。数分ほどでたどり着ける距離だ。
「あっ、ミドリちゃん」
俊介は優名の視線の先を追った。確かにオレンジの建物の前に、緑色の小柄な人影が見えた。顔までは判別できないが、あんな風に緑色で統一された人間はミドリしかいない。
優名が駆け出した。僕は歩調を変えなかった。ここまで来たらぴったり張り付いていることもあるまい。優名の背を見ながら僕は思った。オレンジの建物にたどり着くと、はたしてそこにいたのはミドリだった。
「ご苦労だった。少し遅かったが、まあいいだろう」
ミドリはいつも通り感情を交えずに言った。普通の大人であれば馬鹿にするなと怒り出しかねない態度だったが、僕もまたミドリへの対応に慣れ始めていた。
「じゃあ、帰りの時間になったらまた来るよ。四時半だったな?」
「そうだが帰りは私もいるし、他の生徒たちも同じ時間に帰る。無理しなくてもいい」
「そうか?一日目だし、この辺は寂しいから、一応、送っていこうと思ってるんだが」
「好きにしてくれて構わない。ただし、姿が見えなかったら勝手に帰るぞ」
「ああ。そうさせてもら……んっ?」
ミドリが自分の背後を見ていることに気づき、僕は反射的に首を捻じ曲げた。
ミドリの目線の先にあるのは、一台の白いミニバンだった。ミニバンの運転席には帽子を被り、青いツナギを着た人物がいた。マスクとサングラスで顔を隠しているため性別は分からないが、こちらを見ていることは間違いない。僕は背筋に冷たい物が走るのを感じた。
「あの人、こっち見てるよ」
優名が言った。と同時にミニバンの運転者がいきなりエンジンをふかした。ミニバンは走り出したかと思うと大きく左にハンドルを切り、俊介たちの手前の横道に姿を消した。
「優名ちゃん、あれが狩野とかいう人?」
「うーん……わかんない。あんな感じの痩せた人だったけど、顔が見えなかったから」
「どっちにしてもおかしな感じの奴だったな。……やっぱり塾が終わるまでその辺で待ってることにするよ」
「わかった。一応、終わったらメールする」
ミドリが頷いた。さすがに「大丈夫だから帰っていいぞ」とは言えないようだ。
二人が建物の中に消えても、僕はしばらくその場で辺りをうかがっていた。白いミニバンが戻ってこないとも限らないからだ。
そのまま三十分ほどが経過したが、あたりに不審な車両や人影は見られなかった。
僕は塾の建物から一区画離れた場所にドーナツショップを見つけると、そこで塾が終わるのを待つことにした。
二人を待つ間、僕は携帯電話で半年前の少女殺害事件を検索した。
新聞記事の要約をはじめとして、いくつかの記事がヒットした。……が、未解決の事件ということもあり、それ以外は断片的な記述しか見つけられなかった。
わかっているのは捜査の進捗状況ははかばかしくなく、ほぼ停滞しているということだった。怪しい人間がいないか片っ端から聞き込みをかけているらしいが、逮捕拘束に至った人物はいない……。
俊介はおやと思った。優名が言っていた狩野という人物は逮捕されていない。ということは証拠が出なかったということだ。
優名が声をかけられたのが二週間前という事だから、事件後も性懲りもなく少女の写真を撮り続けていたことになる。
小中学生の間でうわさになっていたくらいだから、当然、警察にもマークされていたに違いない。それらしい写真の一枚も見つかっていないとしたら、よほど慎重なのか……。
結局、事件に関してわかっているのは犯人が痩せぎすで身長百六十センチ弱の小柄な人物だという事、少女を連れ去った車が淡いグリーンだったらしいことだけだった。僕は先ほど見かけたミニバンを思い返した。
色は白だったが、乗っていた人物は確かに痩せぎすで小柄だった。しかしそれだけではミニバンの運転手が犯人、あるいは狩野とかいう人物かどうかの手掛かりにはなりえない。つまり相手が何らかのリアクションを起こさない限り、手掛かりを得ることはできないということだ。
結局、犯人に近い人物があたりをうろついていても、警戒する以外にないってことか。
僕はため息をついた。あれだけしっかりしたミドリが傍にいても、少女はあっさりとさらわれた。やはり美咲が言うように優名は犯人が逮捕されるまで家で学習したほうがよいのではないか。
そんなことを考えていると、携帯電話の着信音が鳴った。表示画面を見ると、ミドリからのメールが来ていた。件名が『今、終わった』で、本文が『塾の前にいる』だった。
俊介が塾に戻ると、ミドリと優名が門の前に立っていた。他の生徒たちが、ぞろぞろと玄関から姿を現しては僕たちの脇を通り過ぎてゆく。
「待たせたな。では、頼むぞ」
ミドリが仰々しい口調で言った。頼むも何も、ただ一緒に駅まで歩いて行くだけだ。
「あの車、まだどっかにいるかな」
優名が押し殺した声で言った。怖いと思いつつ、言わずにはいられないのだろう。
「いたら今度こそ警察に通報だ」
ミドリが言った。『今度こそ』とは半年前のことに対してだろうかと、僕は思った。
〈第十回に続く〉
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