第2話 全力疾走は危険!
アキツ……
呟くと同時に人影が駆け出し、僕は後を追った。自動ドアをくぐって外に出ると、人影は自転車に跨ろうとするところだった。
逃すわけにはいかない。人影は明らかに僕の苗字を口にしたのだ。
自転車の人影は、歩道上を人波を縫うように走り始めた。子供用の自転車とは思えないほどのあざやかな走りに、駆け足の僕はたちまち離されていった。全速力で走っても自転車との距離は一向に縮まらなかった。
他の通行人の目にはこの捕り物はいったいどう映っているのだろう。かたや、何かから全速力で逃げている子供。もう一方は女児向けアニメのステッキを手に全速力で追いかけている三十代男性。警官が通りかかったら取り押さえられるのは間違いなく自分だろう。
自転車は商店やビルの並ぶ広い通りから、細い側道へとハンドルを切った。爆発しそうな心臓を宥めながら後に続くと、住宅地へと吸い込まれてゆく後ろ姿が見えた。この中のどれか細い路地に逃げ込まれたら万事休すだ。
自転車は十メートルほど先の丁字路に一直線に向かっていた。どっちだ。右か、左か。
僕はさすがに限界を感じた。両肺が酸欠に喘ぎ、心臓が喉元までせりあがった。
――畜生、なんで、おれの、なまえを。
自転車は丁字路を右折した。そろそろ捕り物を終わりにしないと行き倒れてしまう。
気力を振り絞って角を曲がった僕の目に、予想外の光景が飛び込んできた。
数メートル先で行く手が塞がれ、自転車が横を向いて停車していた。僕が足を止めて犬のように喘いでいると人影がこちらを向き、僕に挑むような眼差しを向けてきた。
僕は「もう逃げられないぞ」というように険しい目で相手を見た。
子供のことだ、大人が威嚇すれば観念して自転車を降りるに違いない。だが次の瞬間、事態は予想外の展開を見せた。あろうことか、人影は前輪の向きを変え、僕のほうに勢いよくペダルを踏み込んできたのだ。
――強行突破か。
僕は思わ身構えた。いくら子供用自転車でも、正面からぶつかられたら怪我をしかねない。僕は両足を広げ、重心を低くした。こうなったら向き合う形でハンドルを掴み、制動をかけるしかない。奥歯を噛みしめ神経を自転車に集中した、その時だった。
左手で小さな影が動き、目の前が光で覆われたかと思うと、大きな音を立てて自転車が横倒しになった。
いったい、何が起きたんだ?僕は混乱しながら倒れている「万引き犯」に声をかけた。
「おい、大丈夫か」
僕が近寄ろうと足を動かすと、「万引き犯」は素早く身を起こし、再び自転車に跨った。
僕は自転車の行く手を遮ろうと試みたが、「万引き犯」の方が一瞬、早かった。
頬に強い風を感じ、僕が慌てて目で追うと自転車の姿はもう、どこにもなかった。
勢いをそがれ、ぼんやりとたたずんでいた僕の目に、放りだされた百円ショップの袋が飛び込んできた。どうやら「万引き犯」は戦利品を置き忘れていったらしい。
「無茶なことをしたな」
いきなり横合いから声をかけられ、驚いて顔を向けると小さな人影が立っていた。小学生くらいの女の子だった。上下とも、緑色のジャージに包んでいる。それも、スポーツメーカーの物ではなく、厚手の無地ジャージだ。
「驚かせてすまない。こういう方法しか思いつかなかった」
少女は手にしたデジタル・カメラを顔の前にかざして言った。なるほど、あの閃光はカメラのフラッシュか。少女の背後にはやはり子供用の自転車が停められていた。少女が乗ってきたものだろう。
「犯人が置いていった物の後片付けをしなくては。手伝ってくれ」
少女は子供には似つかわしくない、武骨な口調で言った。身長は百三十センチくらいだろうか。昔の子供がよくしていたような横分けのおかっぱで、分け目をこれまたクラシックなヘアピンで留めている。顔の半分近くある黒縁眼鏡の奥から、黒目勝ちの鋭いまなざしが覗いていた。
「ずっと一緒に追いかけていたのか?あの子の知り合いか?」
「そうだ。君がちょうどいい距離を保ってくれたので楽に追跡できた。ご苦労だった」
ご苦労……僕は口をあんぐりさせた。どう見ても小学校三、四年生くらいの女の子がいい大人に対し目上のような口を利くとは。
「ちょっと、その言葉遣いは……」
苦言を呈しようとする僕を無視し、少女は素早く自転車を立て直すと袋を拾い上げた。
「悪いが、これを店に返しに行ってきてくれないか」
「僕が?なんでまた。あの子を知っているのなら、本人が返しに行けばいい。盗んだ当人でもない僕が商品をもって顔を出したらおかしいだろう」
「それはそうだが……そこはそれ、君の演技力の見せ所だ」
「演技力?僕に芝居をしろってのか」
「そうだ。娘が間違って袋に入れたまま店を出たんですとか、色々言いようはあるはずだ。その辺は君に任せる。演技は苦手か?」
「いや、そういう問題じゃなくて、お店に嘘をつくってことだろう。君が言っているのは。なんでわざわざそんなことをするんだ」
「今、店に引き渡せば彼女の心に浅くない傷が残る。それは避けたいのだ」
「そんなことをしたら、ズルを覚えることになってしまうよ」
「いや、そんなことはない。彼女は反省しているはずだ」
「どうしてそんなことがわかるんだ。……まるで事情を知っているみたいだな」
「大体のところは。では、頼んだぞ」
少女は僕が返しに行くと信じて疑わないようだった。だが、こんな理解不能の状態で、子供の言いなりになるわけにはいかない。
「説明しろよ。君は何者だ?あの子の友達か?いつ万引きに気づいた?」
「万引きに気づいたのは君と同じ、店の中でだ。あの子は塾の友達。私は何者でもない。ただの小学生だ」
「あの子は僕の名前を呼んだ。だから追いかけた。僕には事情を聞く権利がある」
「彼女は君のことを知っている。だから見つかったと思い、逃げたのだ」
「じゃあ、あの子は僕が知っている誰かってことになるな」
「そうだ。詳しいことはあとで説明するから、とにかくそいつを返してきてくれ」
少女はそう言い残すと自転車に跨り、走り出した。僕はあっけにとられたまま、立ち尽くした。あとでと言ったが、どうやって連絡を取るつもりなのか。こちらは少女の電話番号もアドレスも、本名すら確認していない。そしてそれは少女も同様のはずだった。
僕はアクセサリーの入った袋をまじまじと見つめた。気が付くと片手にステッキを握りしめたままだった。僕はステッキを袋に入れると深く息を吐いた。
「おかしなのと関っちまったな」
〈第三回に続く〉
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