序章「エピック・オブ・アーサー」

プロローグ「帝国にて、六年後の未来」





 ――――空を飛ぶのが好きだった。


 よくあるサクセス・ストーリーで見かける、お涙頂戴のドラマがあったわけではない。強烈で奇天烈な体験を得て、空に対し何らかの強迫観念を植え付けられたわけでもない。

 子供の頃、何をするでもなく空を見上げ、その浩々とした空に魅せられた。大きくて、広くて、深い。そんな空を自由に飛んでみたいと、ちっぽけな子供が欲望した。

 それだけである。それだけで、なんとなく空を飛ぶための道へと邁進したに過ぎない。そこにまつわる義務だとか使命だとか、そうした総てが所詮は付加要素だと思っていた。かつてもそうだし、今だってそうだ。空を飛ぶために必要だから、皇族の代表者として求められるまま〈騎士〉となり、空を飛び続けるためだけに今も〈騎士〉を続けているのである。


 高潔な騎士。模範的な騎士。勇猛な騎士。冷静な騎士。様々な形容を以って称賛される我が身の栄光。けれど、そんなものにはなんら価値を見い出せなかった。

 考えなしだったのだ。選んだ道に後悔なんてないけれど、それでも重い背景を抱える人を知ると、どうにも居た堪れない気持ちになることがある。

 他に道がなかったという人に対して、申し訳ないなんて後ろ向きな感傷を抱くには至らないが、それでも自分の想いが不純なのではないかと懐疑することはあった。


 だが、のんびりと流れて行く白い雲を羨み、自由に羽ばたく鳥の翼に憧れた幼少の空を覚えている。


 あの吸い込まれてしまいそうなほどに広い空は、一度でも墜ちてしまったらもう二度と這い上がって来られない青い奈落のようで、子供心に墜落の恐怖と飛翔の爽快さを想像させられた。いつかは自分も空を飛びたいなんて、何も考えずに夢想していたのだ。

 この気持ちを誤魔化すことなんてできない。自分は空が好きなんだって、そう胸を張って断言することができる。だからずっと、自分は空を飛び続けるだろう。………きっと、最期の瞬間まで。


「………」


 薄汚い紫に汚染された空を舞いながら、〈バルキリー〉は胸に押し寄せる感慨に浸っていた。

 〈煉獄パーガトリ〉などと揶揄される紫の空。同胞達が忌み嫌い、多くが不吉と断じる悪魔の空。誰もが疎み、憎み、呪いを向けるその空に、しかし〈バルキリー〉が何らかの負の印象を抱くことはなかった。

 どんな色だろうと、空は空。晴れ渡った涼やかな青、閉塞した曇天の白、光の絶えた夜の黒、そして忌々しい人類の敵の襲来を告げる不吉の紫も、空であることに違いはない。

 空ならば、飛べる。ならば〈バルキリー〉からしてみれば問題はないのだ。




『こちらHQヘッド・クォーター。〈バルキリー〉、感度はどうか』




 通信が混線しているのか、聞いたこともない部隊からの支援要請が繰り返されている。

 無数の声が入り乱れている魔力波の中から、自身のコールサインを聞き拾うと、〈バルキリー〉は知らず知らずの内に秀麗な眉目を歪めていた。


 頭蓋を貫き、脳髄に浸透し、心髄を直接打撃するが如き魔力無線通信マギア・ナーエ。心神を侵略する不躾な魔術。頭の中に直接語りかけられる感覚は筆舌に尽くし難いほど不快なものだった。特に自分一人に狙いを絞った秘匿通信は、ある種の精神攻撃なのではないかと疑うぐらい苛立ちを覚えてしまう。

 他の者は特に何も感じないと言うが、〈バルキリー〉にはそれが信じられない。肉体の芯とも言える精神の中へ土足で踏み込まれているというのに、なにも感じるものがないとは一体どんな了見の持ち主だというのか。鈍感が過ぎるとさえ思う。

 カウィンハース航空騎士訓練校に在籍していた頃から長く経験している感覚であるが、今以ってこの魔力無線通信――――俗に〈念話〉と呼ばれるものには慣れることができない。それは魔力による干渉に敏感な性質を持つ者だけに特有の嫌悪感らしかった。


 コールサイン〈バルキリー〉と呼ばれた騎士は、名をアレクシア・アナスタシア・アールナネスタという。二十一歳となった彼女は、帝国軍グラーブル空上本部航空十一部隊ヒンメル分隊分隊長などという長い名前の役職に就き、〈煉獄パーガトリ〉を切り裂くように四騎の騎士と編隊を組み飛行していた。


 下達された任務は敵性飛翔体の撃滅。或いは広大な戦闘空域に於いて、敵性飛翔体の注意を引きつけ行動範囲を制限し、蟻のように働く勤勉な地上部隊を援護することだった。

 この念話は航空艦ミズカルズの艦橋ブリッジより発信されたもの。アレクシアを狙い澄ました念話が、個人を対象とした魔力波である以上、秘匿性は非常に高く、現在の魔導技術では傍受は難しいとされている。

 故に旗艦である航空艦ミズガルズの通信兵が発する男性の声は、ノイズエフェクトのかかっていない素の無骨さを滲ませていた。


『こちら〈バルキリー〉。通信感度良好、念話に滞りはない。この空域に魔力波を妨害する〈ストリゴイ〉は存在していないようだ』


 〈バルキリー〉アレクシアは、どうにかして平素のポーカーフェイスを保つと、不快感を堪えながら念話を行なうための魔力波を発して応答する。


『………それで、わざわざ秘匿通信を使ってまで私をご指名とは穏やかじゃないな。いったい何事だ?』

『心苦しいが、悪い報せを伝えろとの命令だ。不幸なことに、貴官ら〈バルキリー〉の分隊と〈ブリュンヒルデ〉の分隊を除いて、こちらの航空戦力は壊滅的な損害を被った。地上部隊も併せると全軍の二割が削がれたことになる。帝国軍グラーブル空上本部はこれ以上の戦線の維持は不可能と断定、現時刻を以って地上部隊は撤退を開始。ついてはヒンメル分隊の任務が更新される運びとなった。………〈バルキリー〉及びその分隊は奮って勇戦し、撤退する地上部隊を援護せよ。又、同様の任務を〈ブリュンヒルデ〉も担う』

『………つまり〈ブリュンヒルデ〉と協力し殿軍を務めろ、と?』

『その通りだ。地上部隊は難民と化した帝国市民を無数に連れている。これを見捨てるわけにはいかないと上は判断した。貴官の上官である十一部隊ヘレ・ヒンメルの隊長殿は、見事任務を果たし切り死後の世界ヴァルハラへ逝けと仰っていたぞ。自分も必ずそこに逝くともな。………以上だ。せめて武運を祈っている』

了解ヤー


 潔く、極あっさりとアレクシアは応答した。遂に自分たちの番か、と諦観を抱いて。


 ――――訓練生時代、初めて飛行術式を構築し蒼空を舞った時に感じたのは、人の常識を超えた言語を絶する解放感だった。


 ただ、澄み渡る空の青と、濁った雲の白を気に入っていた。晴天と曇天に包まれ、時に冷たい雨粒に全身を打撃されるのは、酷く心地よく感じられたからだ。

 重力は嫌いだった。折角煩わしい大地から解放されて、大空を舞っているというのに、自分の下にひたすら縛り付けようとする星の引力には鬱陶しさしか覚えない。

 しつこく纏わりつく重力の重さは、アレクシアを家に束縛しようとしていた父母を彷彿とさせるのだ。だからアレクシアは不快な重力を振り切って、どこかに飛んで行きたいと心の何処かで願っていたのかもしれない。


 壁のように立ち塞がる風を切り、暑苦しい日差しのカーテンを突破して、アレクシアは紫に染まった空を飛翔する。

 胸中を掻き毟る様々な感慨を振り払い、自身と編隊を組む四騎の騎士の存在を背中に感じた騎士アールナネスタ大尉は、不可視の魔力波を発して〈念話〉を送った。


『傾注。諸君、任務が更新されたぞ。空上本部は私達に死ねと仰せになられた』


 無言の硬さが、部下達の動揺を僅かに伝える。アレクシアは努めて無感動に続けた。


『簡潔に纏めると、我が軍の全体の損害が二割に到達。地上部隊は市民を連れて撤退を開始。我らが十一部隊ヘレ・ヒンメルの隊長殿は名誉ある戦死を御所望になられた。残存する航空戦力は私達を除けば〈ブリュンヒルデ〉だけ。私達はこれより〈ブリュンヒルデ〉と合流し、力を合わせて殿軍を果たす。皆仲良くヴァルハラへピクニックに逝く予定だ』

『………遠足ですか。騎士アールナネスタ大尉、おやつはどうします?』


 部下の一人からおどけた思念が返って来て、アレクシアは苦笑した。この思念は、騎士ジュリアス・ジャスタ准尉のものだ。戦歴は大尉であるアレクシアよりも長い歴戦の騎士である。彼の軽口を聞いて、少しだけ空気の重さがマシになった気がした。

 苦笑を不敵な微笑みに変え、アレクシアもまたおどけて言った。分隊副隊長であるジュリアスの気配りを無駄にする気はなかった。


『今は〈バルキリー〉だ馬鹿者。………両手で抱えられるぐらいは余分を赦す』

了解ヤー。ヴァルハラには死神よろしく〈ストリゴイ〉の魂を持って逝きましょうや。散っていった戦友達の慰めになるやもしれませんぜ』

『駄目だな。もし薄汚い〈ストリゴイ〉の魂を神聖なヴァルハラに持ちこんでみろ。戦友達にヴァルハラを穢すなと怒られてしまう』

『ありゃ。確かにそれは御免ですわな。特に隊長殿辺りが激怒しそうで』

『………諸君、片手には武器を持て。もう一方の手には自分の命と釣り合う武勲を抱えろ。その勇ましい姿を見せつければ、〈バルキリー〉である私がヴァルハラに導いてやる』

『あっは! 分隊長殿みたいな美女に導かれるなんてぇ、男としてこれ以上の栄誉はありませんなぁ! ぃよぉし野郎共、気合入れろよぉ? カッコよく逝けたらヴァルハラで分隊長殿が酌をしてくれるらしい!』


 おぉ、と部下の騎士達が歓声を挙げた。死を受け入れた者に特有の、透明な声だった。


 馬鹿め、酌をしてやると誰が言った。アレクシアは不意に生じた胸の痛みを無視するように、わざと毒を吐いた。ジュリアス含む三騎は男性だからまだ良いとしても、もう一人はアレクシアと同じ女騎士なのだ。なのに他の三騎と同じように喜んでどうするという。貴様も酌をする側だろうに。

 どこかズレた所のある部下を、本当なら小突いてやりたい所だが、今はそれどころではない。アレクシアは小さく頭を振って号令した。


『我らの同胞〈ブリュンヒルデ〉が在るは向かって十時の方角! 前進せよ、これより我らは死地に臨む! 天国か地獄かヒンメル・オーデァ・ヘレ――――選ぶのは敵に非ず、我らの戦ぶりである! 続け!』

了解しましたヤーヴォール!』


 麗しの紅乙女が唱えたなら、ヒンメル分隊の航空騎士達は勇ましの唱和によって応答した。


 先陣を切るはヒンメル分隊分隊長アレクシア・アナスタシア・アールナネスタ。空を舞う美々しさ、勇ましく指揮を執る姿を指して戦乙女の如しと謳われる航空騎士大尉。

 機能性を追求し、飾り気のない軍服を基調にした真紅の防護術式鎧バリア・アーマーを纏い、その双腕にそれぞれ色彩の異なる手甲を装備した〈バルキリー〉は、口元に緩い弧を描く。それは迫り来る死の運命に抗おうとする、気丈な女の強がりだった。


 直前まで日常の只中にあった帝国市民にとって、余りにも突発的に展開された史上最大の撤退作戦の最終段階は、こうして幕を開けたのだった。









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