虚ろな日々、己を探せ




 キレイな音。これって、なんですか?


 これはね、音楽というものだ。


 オンガク。とても素敵だと思います。ガッキって、凄い。


 はは。凄いのは楽器だけかい?


 いいえ、そのオンガクをしてるアルトリウスさんも、とっても凄いです。


 ありがとう。………ああ、そういえば訊くのを忘れていた。君の名前はなんていうんだ?


 ………? ナマエって………なに?









  †  †  †  †  †  †  †  †









 伽藍洞の瞳は空虚なまま。淀んだ眼差しに光はない。


 頭上を覆う大樹の枝葉は、しんしんと降り注ぐ綿雪に白く化粧され、重たそうにこうべを垂れていた。

 太々とした無数の枝、冬の勢力にも負けずに残る硬質な角葉、そして飽きる事なく降り注ぐふっくらとした雪の結晶。それらによって満天下に行き渡る日光、或いは月光は完全に遮断されている。――――ここは光届かぬ樹海の深奥。元よりの暗黒、空模様による昼夜の判別など叶うべくもない。

 樹海に侵入して以来、どれほどの時が過ぎ去ったのか。ある時を境に急激に周囲の気温が下がり始め、餓えた獣の息遣いが辺りを埋め尽くしていくのをはっきりと感じ取れるようになる。


 青年はその獣の群れの気配を知っていた。


 それは夜間になると活動を始める森の狩人、獲物を喰らう捕食者の気配もの。夜が来たのだ、と青年は悟る。


 伸ばした指先すら見通せぬような暗闇の中、一歩、一歩と脚を動かす。降り積もっていた雪を踏み締めて確実に歩行を継続する。

 凍てつく冬の風は鋭利な刃物のように肌に喰い込む。季節柄、気温が低いのは当たり前だろう。だがもはや、寒いとも思わなかった。寒暑の程度を感じ取る為の感覚はほとんど麻痺し、ほんの微かに痺れるような痛みを覚えているだけだったのだ。

 一個の生物として、過ぎた寒冷は忌避して然るべきものだろう。なのにこの白刃のように冷たい外気を、青年は心地よいものだと感じてしまっている。

 恐ろしいことだ。それは死に瀕した者が末期に懐く甘い幻想などではない。事実としてこの冬の森は、森の領域に存在する全てのものを酔わせる魔性を宿していたのである。

 寒いのに辛くない。厳しいのに怖くない。むしろ剃刀のような寒気が優しく、甘い薫風を吹き付けてくるかのような錯覚がある。

 生命の危機を正しく認識することはおろか、早急に暖を取るべきだと判ずる理性と本能すら溶けていくのだ。これに恐怖せずして何を恐れるというのか。ともするとこのままこの森の土に根を張って、腐り落ちるまで眠りについていたいとすら思ってしまいそうなのである。


 命の危険をも厭わせぬ毒酒のような酔い。極楽のような酩酊の中、魂だけが浄土に旅立ち、遺された体を森の獣が貪るのだろう。そしてその喰い残しが土の肥やしとなるか、生い茂る草木の養分となるに相違ない。

 その末路をよしとして受け入れかねない程度には、青年は血迷っていた。

 だがまあ生きる理由は見つからずとも、今すぐに死ぬべき理由もない。漫然と流されるまま生命活動を続けている。死んでないのだから生きていよう、なんて無気力な姿勢で。


「………」


 なんとなしに蹴散らしたのは降り積もった白い雪。それ自体が淡い光を放つ雪景色は酷く幻想的なもの。されどその光は雪そのものの輪郭を撫でるのみで、僅かにも地表を照らさない。あたかも雪が、光を吸っているかのようだ。感受性が強い者であれば、そこになんらかの神秘を見いだすだろう。

 青年の息が白く吐き出される。その吐息に、激しく燃える火炎の欠片――――火の粉が混じっていたように見えたのも何かの錯覚か。体温を失いかけていた青年の体が、不意に体の芯から暖まっていく。自然の摂理に反する現象だ。魂すらも凍りついてしまいそうな極寒の中で、青年は凍死に近づくどころか、逆に体が暖まり快調を取り戻そうとしている。


 踏み締められた落ち葉が青年の歩みを虚しく彩る。詩的な気分とは、こういうものか。無人の森を独りで散策する楽しみは、夜の闇のように途方もない。

 大きな口の中に呑まれるような闇の中、あてもなく彷徨い続け、夜明けまで落ち葉を踏みつけて回るのも悪くはなかった。そう思える程度には真っ暗で人気のない森というのは風情がある。その茫漠とした暗闇を好むか好まざるかは意見の割れるところであろうが、少なくとも青年はこの静けさを好ましいと感じていた。


 樹木の海と書いて〈樹海〉とはよく言ったものだ。何時か見た大海原を脳裏に思い描き、青年は無意味に感心してひとりごちる。


 万象の源たる霊気の集合地点"霊洞"を無数に有し、あらゆる生命を活性化させる神聖な霊山。その北東部に広がる大樹の群生をこそ人は"カンサスの樹海"と呼び、畏敬の念を抱きながらもその豊かな恩恵に縋りついて、樹海の麓で群れと共にひっそりと生きていた。

 動植物の区別なく健やかに、そして壮大に育む霊気に包まれた樹木は天を衝かんばかりに屹立している。何気なく踏みつけた樹木の根にすらも悪心おしんを招くほどの生気が満ち、ともすると心身が毒されかねない怖気があった。


 青年は歩く。樹海の奥を目指してひたすらに。


 それは何を求めてのものか、真意は兎も角としてこれ以上奥へと進めばただでは帰れまい。自然の脅威、影に潜む獣の悪意、ともに人の身で抗しえるものではないのだ。

 無論、霊山の麓に暮らす常人類を基準としたら場合は、という注釈がつくが。

 青年の歩みは一見、無謀な冒険に打って出ているように見えるのだろう。好奇心は獅子をも殺すという。青年の行動を蛮勇と捉えた霊鳥が見かねたように、ピィ、ピィ、と鳴き声を上げた。


 それは精霊コガラの大鳥、その鳴き声である。愛らしい鳴き声に似つかわしくない、深い知性を感じさせる声音で精霊は青年へと語りかけていたのだ。


 ――――そこな青年、ちょいと待ちなよ。


 人の言葉ではなかった。尋常の者には鳥が囀ずっているようにしか聞こえない。

 けれど青年には、精霊コガラの意思がしっかりと伝わっているのだろう。闇の中にくっきりと浮かび上がる人影が、ピタリと足を止めてコガラの鳴き声に耳を傾けていた。


 ――――悪いことは言わない、今すぐ引き返した方が身のためだ。


 霊鳥は言う。ここから先に良いことなんて何もないのだ、と。もと来た道を引き返した方が賢いぞ、と。

 それは青年の身を案ずるが故の忠告だった。だが我が身を思いやる優しさを、青年はなんでもないように拒絶する。

 青年は唇を尖らせて口笛を吹いた。その音色はコガラの囀りに似たもので、同時に鳥の精霊と意思を通わせるための言語でもある。いつかの都市で、演算補助宝珠の勧めで身につけたものだ。

 自分はここから先に用がある、引き返すぐらいなら最初から訪れはしないのだと青年は言っていた。

 霊鳥の羽ばたきが青年の愚かさを嘆くかのようだった。――――忠告は聞くものだよ。この森には今、恐ろしい〈獣〉が住み着いている。わざわざその爪牙の餌食へなりに来たのかい。


 ――――その〈獣〉が目当てだ。だが狩られるのは私じゃあない。〈人喰いブルド〉の方だぁね。


 瑞々しい唇が歪な弧を描く。未だ四半世紀も生きていない青年が不敵な笑みを浮かべたのを、〈カンサスの霊鳥〉は確かに感じた。

 素晴らしい胆力、しかして身の程知らずの愚か者。いいだろう、そのふてぶてしい顔をはっきりと拝んでやろうではないか。


 ぴょぅ!  甲高く霊鳥は鳴いた。その一鳴きは森の奥の奥まで響いていく。


 夜闇に映える満月の月光を、僅かも差し込ませないカンサスの樹海の樹木達。それが霊鳥の号令一つで大きく撓った。あたかも主人に傅く忠実な僕のように頭を垂れ、月光を招い入れることで樹海に横たわっていた闇を打ち払う。果たして青年の姿が月明かりに照らされ浮かび上がった。


 ――――へぇ、勇ましいね。外見だけなら名のある戦士のようだよ。


 霊鳥は感心しているふうでありながら、その実、青年を小馬鹿にするための皮肉を口にした。青年の姿が余りにもこの樹海にそぐわぬ物だったのだ。


 蒼いフードで頭部を覆い、背中まで垂らされているのは袖のない群青の外套マントであろう。黒鳥を模した兜をその上に被り、うなじ当てから純白の房を垂らしているため青年の相貌は窺い知れない。

 胴体もまた堅く守られていた。細長い黒鉄の板金を重ねて構成し、胸部に腹部、肩部を防護している。いわゆる"コート・オブ・プレート"と呼ばれるものだ。群青の外套が黒鉄鎧の無骨さを緩め、左腕のみに填められた手甲、脚部を防護する脛当てが青年を立派な戦士のように見せている。


 それはいいのだ。この樹海で見るには場違いな装いだが、実用に耐えられない装備ではない。むしろ体を防護する黒鉄のそれは枯れた樹皮のように軽く、体の動作を阻害するほど堅くもないのだ。金属でありながら革のような軟らかさを備える――――カンサスの樹海の大樹から採れる〈金属樹皮〉とはそういうものなのである。


 問題なのは青年が背負う二本の短槍と一本の鉄棍、そして自身の胴ほどもある白刃を備えた武骨な大剣であった。

 どれもが草木が生い茂り鬱蒼とした場所に相応しくない。仮にこれらを存分に振るおうとすれば、辺りに屹立する大樹にぶつけてしまい往生することになるだろう。そもそも人の身でそれら超重量の得物を十全に操れるものか疑問である。辛うじて柄が短く、穂先も小ぶりな短槍だけが場に則していると言えなくもないが、それもとてもではないが恐るべき樹海の獣に通用するとは思えなかった。


 総じて見掛けだけは立派な戦士もどきといったところか。

 その印象を受けて霊鳥は悲しげに囀ずった。これでは黒ずんだ獣の餌食となるのが目に見えている。


 ――――心配は無用だ、精霊コガラ。まあ見ているがいいよ。きっと度肝を抜いてやろう。


 ――――勇ましいのは見てくれだけじゃないのは分かったけどね。きみの命だ、好きに使って好きに死ね。ぼくはもう心配しないよ。


 そう言ったきり霊鳥は沈黙した。何を言っても無駄だと判断したのだ。もはや青年の言葉が偽りでないことを祈るしかない。

 青年は苦笑した。どうしてか己の身を案じてくれる霊鳥が可笑しかったのもある。そして、もう心配はしないと言ったのに、霊鳥は変わらずその力を使って青年の姿を月光に照らさせていた。

 人の目では樹海の闇は見通せない。それを慮り、霊鳥が大樹に命じて月明かりを遮らせないようにしているのである。これを要らぬお節介だと切って捨てるほど厚かましくなかった。青年は甘んじて霊鳥の気遣いを受け取る。

 闇を見通す眼力を、自分は当たり前に持っている。何やら青年を常人類と錯誤しているらしい霊鳥コガラには、口で言っても信じてくれないだろうし、言うだけ無駄というものだ。


 さても楽しきはこの数奇な巡り合わせであろう。詰まらないお仕事の中にも愉快な出会いはあると知る事が出来た。暇があれば先の霊鳥と懇ろに付き合ってみたいものである。

 無論、本物の精霊なんて見た事がない故の好奇心のためだ。


「………ん」


 特に思慮を絞ったわけでもなく、気の向くままに土を踏みつけること暫し。樹海の深く深くに進む度、空気に満ちる霊気の濃度が高まるのを心地好く感じ。素面の呼吸を楽しんでいると、不意にツンと鼻を衝く鉄の臭いを嗅ぎ取った。

 渋面を作り、不快だな、と思う。抑えきれない獣臭さは青年が忌避するものだ。あのいつまでも鼻孔にこびりついてしまいそうな臭気は、その根本から根絶してしまわないと気が済まない。

 本来は身を隠すべき青年が、無償で〈獣狩り〉に精を出すのは、その不浄な存在を赦せないと断ずる本能があるからだ。人喰いブルドの醸す醜悪な臭いは、確実に消毒・・しなければならないと魂が使命感を燃やすのである。


「………くっさぁ。堪らんよな、これは」


 右手で鼻を摘まみながら悪態を吐くも、青年のその様はどこか愉しげだ。

 悪しき臭いに釣られるように、青年は進路を変更する。この獣臭さに混じる鉄の匂いには覚えがあった。


 これはそう、人の血だ。魚だろうが穀物だろうが獣肉だろうが、見境なく餌とする人間の血の臭いは独特で、どことなく黒い甘さを醸しているもの。それは肺腑に染み渡るようで、どうしようもなく吐き気を催してくれる。


 かちり、と金具が外れる音。青年がおもむろに背中に手を回し、固定具を指先で弾いて武骨な鞘から短槍を引き抜いた。

 月光を鈍く反射するなまくらな刃を見咎め、あちゃあ、と呻く。ここに来るまでに点検していなかった自分が言うのも間抜けだが、集落の鍛冶職人は随分と気の抜けた仕事をしてくれたらしい。やれやれだわな、と嘆息する。嫌われ者は辛いよ、などと心にもないことを嘆いた。嫌われるもなにも、集落の人とはほとんど関わり合いのない他人なのだ。

 まあこの程度、どうということもあるまい。元より得物に求めるものは頑丈さ、この一点のみなのだ。そういう観点から見れば、己が愛用する武装に不足はない。最低限の整備さえしてくれたのなら問題はなかった。集落の鍛冶を請け負う老人も、そうと心得るが故に刀身に繊細さを与えかねない処置をしないだけである。純粋に好かれていないから雑な仕事をするわけではない。


「死して屍拾う者なく、無垢なる幼子の魂は醜い熊の腹の底……無惨よなぁ」


 死した者の魂は、その骸が朽ち果てるまで残留する。故に人は隣人の遺体を燃やして弔うのだ。神聖な火によって古き器を葬り、新しき輪廻に魂を送ることで何時かあるかもしれない再会を望むもの。

 火葬とは巧い言い回しだった。どこか、荘厳な儀式であると思わせてくれる響きがあった。それは遺された者には救いとなるだろう。

 しかしそれも、ブルドと名付けられた獣に餌食とされた者には決して齎されることのないものだ。輪廻に送られずしてその亡骸を喰らわれた者は、喰らった者の腹の内にて溶かされて、地獄の苦しみの中で熔けていってしまう――――らしい。体感した者は皆語る術を持たぬ故、そういった偏見がどこかで生まれたのであろう。


「魂なんぞ喰らったところで腹の足しになるでもなし。味や養分の有無すら不明な魂なんぞ、獣も別段好んでいるわけではあるまいが」


 吐き捨てるその独特な言い回しは、青年が学んだ『日本語』の教導者が間違った日本語を教えた結果である。すっかりこの台詞回しと独り身に慣れ親しんで、せっかく学び直した現代日本の常識的な論調も、今やすっかり錆びついてしまっている。

 本当は母国語を使いたいところだったが、どうにも複雑怪奇な事象に見舞われて、日本語をグローバルな言語としている環境に身を置く羽目になっている故に、今では母国語よりも親しんでしまって、思考で綴られる言語もそちらに染まっていた。


「さぁて……」


 ――――そろそろ熊さんも、不届き者が縄張りに入ったのに気づく頃合いかね。


 行く手を阻む樹木の枝を、短槍で払い除けながら歩いている。ややすると剣呑な唸り声がどこからか聞こえ始めた。

 威嚇されている。他の雑多な獣は霊鳥コガラにでも散らされたのか、さもしい気配が遠ざかっている。親切な精霊もいたものだと苦笑した。


 噎せ返りそうな血の臭いが濃くなっている。この獣の楽園に血の臭いが漂うのは珍しいことではない。日々の糧を求め、雑多な動植物がそれぞれの獲物を貪っているのだ。そこに血の臭気が漂わぬはずもなし。

 けれどそこに人の血が混じったとなれば話は変わろう。この〈カンサスの樹海〉には尋常の者が立ち入ることを、近隣の集落に住まう人々は固く禁じている。ただの人間がもし禁を破り樹海に潜ろうものなら、瞬く間に樹海の獣や肉食花の養分とされるからだ。

 それで済めばまだいい。最悪の場合、人の肉の味を覚えた獣が集落に降りてくることも考えられた。自分一人のことならばまだ目を瞑れるが、集落全体に凶と出るとなれば放っておくことなど出来る訳もなく。畢竟それをよく知り身の程を弁えるが故に、人の内から樹海の獣に狩られる者が出るはずもなく。もしあるとすれば不可抗力――――樹海より迷い出て、人の集落に忍び込んだ獣に無力な者が略取されるぐらいだろう。


 故に、それは避けようのない偶然、正しく不可抗力であったのだ。


 醜い熊ブルドと集落の無知なる者らに名付けられた黒ずんだ獣は、昨日の日の出と共に人々の集落に迷い込み、出くわした父娘をその豪腕で捻り潰している。父親の方はその場で食われたが、奇妙なことに娘の方は生きたまま連れ去られてしまった。鮮度でも気にしているのか、腹が減った時のための非常食にでもするつもりだったのかもしれない。


 キレイな音。これって、なんですか? いつだったか、そんなふうに話し掛けてくれた少女。滅多な事では交流も生まれない集落で、自発的に声を掛けてくれた。

 叶うならば拐われた少女の救出も視野に入れてはいたが、残念ながら手遅れらしい。


 軽い地響きを感じ取る。どうやら森の森の熊さんのお出ましらしい。スンスンと荒い鼻息が聞こえてくる。お腹一杯になって眠りこけていればいいものを………寝込みを襲えたら楽であったのに、ままならないものだ。


 実を言うと、青年はブルドという獣について知識があるわけではない。集落の人々から伝聞でその姿形を聞き知っているだけだ。

 曰く全身が黒毛に覆われていた、豚のように醜い顔をしていた、家屋より一回り大きかった、など。その習性やらなんやらを知っている者はいなかったのである。

 狩りをするなら丹念な下準備と、獲物についての入念な下調べが必須だろう。しかし青年はそれをしていなかった。

 依頼人が早急な狩猟を希望したから、というのはある。だが確実さを期すのなら、それを無視してでも慎重にやるべきだ。そんな物事の定石から外れた行いにわざわざ打って出ているのは、青年が自身の強さというものに絶対の自信を持っているから………ではない。何も成せずに犬死にするのも悪くない、そんな無気力から来る自滅願望があったのだ。


 死ぬなら死ぬで一向に構わない。苦しみにも痛みにもほとほとうんざりさせられて、こうしてここまで流れて来たのだから。死んで楽になるならそれがいいと思っている。

 かといってわざと殺されてやる気も、自ら死を選ぶほど疲れ切っているわけでもない。必要もない危険を犯すことに仄暗い悦びを懐いているだけだった。


「私を殺せるなら殺してみるがいい。私はお前を殺すために来たんだ、それで私達は対等フェアだろう?」


 俗に魔獣と呼ばれるモノの中には、時として人語を解する知能の高い獣がいる。さもあろう、魔獣だ魔物だと言った所で生命としての起源は人間である。姿形と文化、思考形態が変わっただけで、頭のデキ事態が劣化したわけではあるまい。ブルドが特別低能だったなら話は別だが、言葉の意味ぐらいは理解できるだろうと思いなんとなしに語りかけた。

 うっそりと夢見るように呟く青年の瞳には、あたかも月光を掻き分けるようにして、夜の闇の中から黒獣が這い出てくるのが映っている。


 地球の生態系には有り得ないほど大きな熊、醜悪な面相の獣としっかり目が合った。


 獣が吼える。獲物を見つけた肉食獣の咆哮は、降り積もる雪を吹き飛ばし辺りの樹木を震撼させた。


「ん、思ったより強そうだ。………これは、本気でやらないとマズいかな?」







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