きっと、ひかりにみちている。

メンヘ・ラーニョス・ルファス・パピーニョ

あいつの制服はきれい

第1話


きれいだ、と私は口の中だけで呟いた。

夏に向かってぐいぐい進んでいく空には、野球部の声が響き渡っている。グラウンドは、まるで青春のあれこれをぎゅっと固めてそこに置いたみたいに、いつもきらきら輝いている。でも、いつも少し足りないような気がする。なにかが、欠けている。足りているようで、ほんとはなにかが足りていない。

私は指をのばす。春だから、と太陽のことをなめてたせいで、ちょっぴり日に焼けてしまった指先。

カキン、とバットがボールを叩いた音が、2階の教室まで響く。気づけば、教室には誰もいなくなっていて、私だけがこの空間で生きていた。

ふっと、また視線を指の先に落とした。爪の先で蛍光灯の光が乱反射している。

『レシートの裏で磨くと、爪がきれいになるよ』

どうしてあいつは、そんな豆知識というか、毒にも薬にもならない知識をいっぱい持っているんだろう。ばかみたいだ。ほんとに。あいつは、絶対にばかだ。

3年のこんな時期までまだ坊主なとことか、日焼け止めも塗らずにまっくろになった肌とか、いろんなとこが、すごいばかみたいだ。

カキン。また金属音が鳴る。

机の上に広げた、大学のパンフレットに目を落とす。先生は将来のために大学を選びなさい、とか言ってるけど、そんなこと考えられない。

明日のこともわかんない人しかいないのに、なんで将来の夢とか未来とかを考えられるんだろう。明日には夢を折られるかもしれないのに。なにが起こるか、なんて誰にもわからないのに。

あいつが頭の中で笑う。爪は黄色いくせに、あいつの歯はもらいたての練習着みたいに、真っ白だ。

かちっ、とシャーペンの芯を少し出す。大学のパンフレットには、楽しそうな写真とか、海外留学とか、どれも同じようなことばかり書いてあって、もうどうでもいいような気がしてきた。

「進路、決めなきゃな……」

部活はやっていない。この時期の3年は最後の高体連とか、高文連とかに打ち込めて、すこし羨ましい。きっと、進路になんて悩まされていないんだろう。

「祐也はどうすんだろう」

あいつは、今ならなにを選ぶんだろうか。

カキン、また、バットの音が鳴る。

ぐっ、と思わず力が入ってしまう。ぽきん、情けなく、シャー芯の先が折れた。

上履きで教室の床をなんども擦る。きゅ、きゅ、と学校でしか聞かないような音がなんどもして、すこしだけ新鮮な気持ちを味わえた。

私はまたシャー芯をすこし出す。そして、大学のパンフレットに向かって勢いよく突き刺した。

当たり前のように、シャー芯が吹き飛んでいく。

顔を、外に向けた。白と汚ればっかりの練習着ばっかりのグラウンドの中に、きれいな制服はかなり目立つと思う。

でも、すぐには見つけられない。

運動部の勲章みたいなギプスと、刈ったばかりで青い坊主が、長い構文の中で省略された接続詞thatみたいに、グラウンドと制服を繋いでいる。

『だいぶひどい骨折、だってさ』

そのだいぶひどい、という音の中には、どれだけの意味が含まれているのだろう。1ヶ月で治るの? 2ヶ月かかるなら、予選には間に合わないよね。3ヶ月なら、もう全国の3年生が引退だよ。

ねぇ、どうして。骨折に関してはなにも知らないの。

骨折を早く治す豆知識とか、ご飯とか、なんで知らないの。

私の爪をきれいにする方法は知ってたのに。自分の骨のことは知らないの?

あいつは、グラウンドに立ってなにかを叫んでいる。制服姿で。ギプスを背負った、痛々しい坊主の姿で。

どうして。どうしてなのよ。

カキン、とあいつじゃない人が振ったバットが、憎たらしいほど白いボールにぶつかる。

なんで、と私はまた思う。

ほんとに、なんでこの時期になって、まだ坊主なの?

「ほんとは、もう祐也はもう出れないんでしょ?」

こつん、とどうしようもなくて、窓の木枠を小突く。

できることなら、今にでもそのきれいな制服を脱がして、汚ったない練習着に着替えさせてあげたい。

あのグラウンドで、練習着が似合ってたのは、他でもない祐也だけだったから。

はあ、と一つ息を吐いた。

私の息が、くらい教室の空気と混ざり合って溶けていく。

窓一枚で仕切られているだけなのに、なんでグラウンドはあんなにも明るくて、ひかっているのだろうか。

でも、前の方がきっとひかっていた。きらきらして、眩しくて、太陽の中にいるみたいだったのに。

私は窓を開ける。春の涼しい風が、強く私の頬を叩く。今日は風がつよい。

カキン、とさっきより大きい音で、私の耳に届く。

祐也が息を吸った。その時、周りの部員の声とか、一切聞こえなくていいと思った。

やっぱり、グラウンドは眩しい。土に染み込んだ汗とか涙とか血とかが、輝いているのかもしれない。

でも、やっぱり足りていない。

「もっと、声出せ!」

祐也の声が私の耳を激しく殴る。

おう、とまるで作業みたいに、周りの部員が声をだした。

そうだ、と私は気づく。

このグラウンドには、足りていない。

祐也が、足りていないんだ。

誰よりも一生懸命ボールに食らいつく祐也の姿とか、3年間で汚れきった祐也の練習着とか、すり傷から滲んだ血とか、何もかもが足りていない。

あぁ、と私は思った。

輝くグラウンドが見たい、と。1分間でいいから、野球をしている祐也が見たい。

ひゅう、と風が窓を通り抜けていく。

私の願いは、夏へと向かう空へ吸い込まれていった。夏が来たら、甲子園の季節だ。3年生はもうすぐ引退だ。

また、こつん、と私は木枠を小突いた。

グラウンドでは、転がった野球のボールが、たっぷり光を吸い込んでひかっていた。

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きっと、ひかりにみちている。 メンヘ・ラーニョス・ルファス・パピーニョ @misete_yaru

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