第8話

 扉はまだ、かろうじてカケトカゲ一頭が通れる程度しか開いていなかった。しかし、フソリテスの一声は、ほかの騎士たちを我に返らせた。

 フソリテスの決断は正しかった。内部から新手あらてが現れる前に、こちらから突入しなければならない。

 フソリテスが先頭に立って走った。私のフィンクが二番手についた。

 扉を開けているのは、矮小わいしょうな体をした汚臭を放つ生き物だった。我々大人族コディークに似ているが、体に毛はほとんど生えていない。重い扉を開けるのに、二十匹あまりが必死に巨大な岩戸を押している。黄色い歯をむき出し、「しゅう、しゅう」という吐息を漏らしている。全裸で、衣服は身にまとっていなかった。老人のように背中が弓なりに曲がっている。両手、両足には黄色く鋭いかぎ爪。その背後で、二人の大男がむちを振るっているのが見えた。赤い眼には知性の片鱗も伺えない。鞭打たれて動く、ただの動物だった。これが、水晶山に住む人喰ひとくい鬼か。

 私とフソリテスは彼らを無視し、そのまま内部に突入した。

 そこは、巨大な丸天井の広い洞窟になっていた。洞窟の岩壁全体が、ぼんやりと青白く輝いている。ヒカリゴケが密生しているようだ。

 そして予想通り、完全武装した傭い兵の軍団が待ちかまえていた。その数、およそ百。

 フソリテスがときの声を上げた。私も我知らず、声を上げていた。背後からも、騎士たちの声。洞窟に響き渡った。

 突っ込んだ。カケトカゲが傭い兵を蹴散らす。鞍上から、傭い兵の突き出す槍をぎ払う。突いた。返り血。拭う間もなく、次の敵に刃を叩き付ける。

 斬っても斬っても――いくら新たな血を流しても、敵は現れた。

「右手の階段へ!」

 フソリテスの怒鳴り声が聞こえた。彼は片手に血染めの地図を持っていた――彼の息子が命と引き替えに手に入れた地図。

 右手には、緩やかな階段が上方へと伸びていた。その先は、暗くてよく見えない。おそらく水晶山の山頂へ向かって続いているのだろう。

「ゴルカン!」

 呼び声が聞こえた。振り返ると、カケトカゲを駆るムーレグが面を外して私を見上げていた。

「父を頼みますよ! 我々は、ここで連中を阻止します」

「わかった。父上は必ずお守りする!」

 ムーレグは笑みを一瞬私に向けると、剣を上段に構えて敵の中に突っ込んでいった。すぐにその姿は、見えなくなった。

 フソリテスに続き、私もフィンクを階段へ向けた。駆け上がる。傭い兵たちが、わらわらと背後から追ってくるのがわかった。しかし、カケトカゲに追いつけるはずがない。

 眼下を見た。岩戸をくぐり抜けた白衣の蛇神崇拝者たちが、数十名の傭い兵たちに囲まれている。圧倒的に不利な闘いだ。無理矢理、視線を外した。

 私には、やらなければならないことがある。

 フソリテスのあとを追った。

「ゴルカン、ついて来られたのはそなただけか?」

 走りながら、フソリテスが言った。

「みな、傭い兵を食い止めるので精一杯です」

「わたしをお忘れなく」

 背後からの突然の声に、はっとして振り返った。

 カケトカゲを駆るドゥイータがいた。もう白蛇の面は脱ぎ捨てている。少し遅れて、必死にカケトカゲの手綱に摑まっているのは、ワドワクスに相違なかった。

「すまぬ、旅のお方たちよ。我々の争いに巻き込んでしまい……」

「いえ、これは僕らの戦いでもあるんです」

 そう答えたのはワドワクスだった。

「子どもたちは……〈拠代よりしろ〉にされる子どもたちはどこにいるんでしょう?」

 ドゥイータが尋ねた。

「地図によれば、あと五イコル(約百五十メートル)ほど登れば、右手に洞窟があるはず。『黒き回廊』とある。その奥に広い空間があるらしい。『アグロゥ』と読めるが……」

 言いかけたときだった。背後に新たな足音が聞こえた。

 カケトカゲにまたがった四名の傭い兵が、いつの間にか我々を追っていた。一本の角を生やした青いカケトカゲだった。

 傭い兵の一人が携えている武器を見て、私は瞬間的に叫んだ。

「フソリテス様! 危ない」

 兵が持っているのは、矢を放ついしゆみだった。引き金を引けば矢が放たれる、特殊な武器だ。昔、衛士時時代に、北方のシェリンド城砦じょうさい王国で使われているのを一度だけ見たことがあった。その命中精度は驚くべきものだった。

 私は手綱をさばき、フィンクを急停止させた。弩弓どきゅうの兵の前に立ちふさがった。その距離、およそ二十エーム(約六メートル)。外れるはずがなかった。

 矢が放たれた。矢は真一文字に私の左の二の腕を貫通した――熱い痛み。一瞬、眼の前が真っ暗になった。

「ゴルカン!」

 悲鳴にも似たドゥイータの叫び――かすかに耳朶に触れた。

 痛みをこらえ、拍車を掛けた。フィンクが駆け出す。私は、くらから跳躍した。弩弓を手にした兵の乗ったカケトカゲに、頭から突っ込んだ。激しい衝撃とともに、兵もろとも地面に落ちた。全身に激痛。呼吸が止まった。歯を食いしばった。剣を拾う。起き上がろうとする兵の胸に深々と突き刺した――まず一騎。

 弩を拾い上げた。左腕の痛みに歯を食いしばり、矢をつがえた。弩を使った経験などない。見様みよう見真似みまねだ。迫り来るもう一頭の黒いカケトカゲに狙いを定めた。引き金を引いた。

 軽い反動――同時に矢が放たれた。あやまたず、カケトカゲの両眼の間に命中した。カケトカゲは甲高い悲鳴を上げた。どう、と傭い兵ともども地面に倒れた。落ちた兵に駆け寄った。剣で喉を掻き切る。噴き出す鮮血――二騎目。

 続いて三騎目――迫ってくる。兵は巨大な戦斧せんぷを持っていた。振り下ろす。かろうじて剣で受けた。手が痺れた。倒れた。兵の二撃目。なんとかかわした。斧では、鞍上あんじょうの高さから私を狙うのは難しい。一瞬、傭い兵の眼に迷いがあった。見逃さなかった。転がった――黒いカケトカゲの腹の下。柄まで通れと剣を突き通した。なま暖かいカケトカゲの血潮が、私の顔に振りかかる。カケトカゲが悲鳴を上げ、大きく前脚を上げた。斧を持った傭い兵が振り落とされた。立ち上がるのは私のほうが早かった。傭い兵の斧を拾った。投げた。斧は回転して飛んだ。一瞬後、戦斧は傭い兵の頭蓋の真ん中に突き刺さった。兵士は自分が死んだことにすら気づかなかっろう。

 視界がぐらぐらと揺れた。矢の刺さった左腕から、血とともに生気が失われていくのを感じていた。激しい眩暈めまいと吐き気がすべての臓腑を襲っていた。

 あと一騎――

 腕から突き出ている矢尻の部分を握った。息を止め、歯を食いしばる。覚悟を決めて、一気に折り取った。そして、もう一度息を止めた。意を決して、反対側から矢を一気に抜いた。

 すさまじい激痛が、雷撃のように腕から全身へ走った。叫んだ。地面に膝を付いた。

「ゴルカン!」

 ドゥイータの声。視界がかすんだ。その姿ははっきりと見えない。

「来るな! ここは私が食い止める――」

 そう言いかけたとき、四騎目の兵士が私に向かって突進してくるのがわずかに見えた。剣を右手で構えた――こんなに重い剣だったか。

 次の瞬間、疾風のように何かが私の脇を駆け抜けて行った。

 気づくと、四人目の兵士は、腹を一文字に斬られて地面に転がっていた。

 カケトカゲの鞍上のドゥイータが、剣を振るって血脂を払っている。

「『私が食い止める』って言った? それとも聞き間違いだったかしら?」

「先に行って、ワドワクスと一緒にフソリテス様をお守りするんだ!」

「冗談言わないで。さあ、こっちに乗りなさい」

 ドゥイータが手を差し延べてきた――八年前とさして変わらぬ、華奢きゃしゃな腕。しかし今では、その腕が剣を振るい、屈強な兵士を倒している。私はあえて彼女から視線をそらせた。

「フィンク!」

 呼ぶと、フィンクはすぐに私のもとへと駆けてきた。賢いカケトカゲだ。私は、傭い兵の背負っていた矢筒を奪い、弩弓とともに皮の紐で肩に掛けた。ますますひどくなる痛みを奥歯で噛みつぶし、フィンクの鞍の上に座った。

「強情ね。昔と変わらない」

「きみはずいぶんと変わったようだ。ワドワクスとフソリテス様は?」

「先に行ったわ。でも、その傷では……」

「運がいい。矢尻に毒は塗られていなかったようだ」

 私は上衣を引き裂き、苦労して左腕の傷の上に巻き付けた。これで当分のあいだは止血できる。そのあとは――知ったことではない。

 私とドゥイータは並んで駆け出した。

「見て」

 ドゥイータが階下を指さした。蛇神崇拝者ヘクロノミたちと、傭い兵たちの壮絶な戦闘が続いていた。蛇神崇拝者たちが絶対的に不利だった。血で紅に染まった白い上衣が何体か、地面に横たわっている。階段を上がって我々を追ってくる者は、ほかにはいないようだ。

「あの人たちのためにも、先へ……」

 ドゥイータがつぶやくように言った。


16

 しばらく階段を駆け上がると、右手に巨大な開口部があった。

 そこには、ヒカリゴケが生えてはいないらしい。闇に包まれていた――ムージェルの地図に描かれた「黒き回廊」であろう。ところどころ、赤くちらついている光は、かがり火だろうか? ほぼまっすぐで緩やかな上り坂になっている。私たちはカケトカゲを進めた。

 一イコル(約三十メートル)ほど進んだだろうか、フソリテスとワドワクスに追いついた。彼らはカケトカゲから降り、地図を開いて覗き込んでいた。

「何があったんですか?」

 ドゥイータがささやき声で尋ねた。フソリテスは、手で制した。

 足音――しかも無数の裸足の足音が、回廊の遙か奥の方からかすかに聞こえた。

 フソリテスが言った。

「筆が乱れている。『アグロゥの洞窟』と読めるが……血の染みでその先が読めぬ」

「『アグロゥ』? 何のことでしょう?」

 ドゥイータが首をひねった。ふとワドワクスが私を見た。

「ゴルカンさん、怪我をしてるんですか? 顔色が真っ青だ」

「ヒカリゴケの明かりのせいだろう」

「ここにコケは生えていませんよ。さあ、見せて下さい」

 私は不承不承、自分で縛った傷を見せた。

「なんてこった。あなたは、決して医者にはなれませんね」

「なるつもりもないよ」

 ワドワクスは、おもむろに懐から小さな革袋を取り出した。そのなかから、干した薬草らしきものを摑み出すと、私の腕の傷に刷り込んだ。ひどく沁みて、私は顔をしかめて、うめいた。

「リリローの花を干したものです。血止めの薬になります」

「用意がいいな」

「言ったでしょう。僕は剣を遣えないが、頭は使える、と。何て名前でしたか、天幕で炊事の仕事をしてた女の子にお礼を言うんですね」

「フィエル?」

 私は驚いた。

「ずいぶんとゴルカンさんのことを心配してました。彼女が持たせてくれたんですよ。ゴルカンさん自身は決して受け取らないだろうから、って。この花びら、今は青色ですが、血を吸うと真っ黒になります。そうしたら塗り直しますから、言って下さい」

「わかった。ありがとう」

 小休止の後、私たちはそこへカケトカゲを置いていくことにした。私たちは、岩の突起に手綱たづなを巻き付けた。

「フィンク、しばらくおとなしくしていてくれ。必ず、戻ってくる」

 フィンクの鼻面の鱗を撫でてやると、フィンクは喉の奥を鳴らした。

 私たちは前進を再開した。

 進むに連れて、裸足の足音がより鮮明に聞こえてきた。しかし、人語は聞こえない。

 徐々に、奥のほうから漏れる青白い光が強まっていた。。ムージェルが命を引き替えに描いた地図通り、広い空間があるらしい――「アグロゥの洞窟」。

 私たちは、足音を息を忍ばせて、「黒き回廊」をゆっくりと進んだ。壁にところどころ架けられた松明たいまつの明かりだけでは暗く、何度も転びそうになった。

 回廊の末端まで半イコル(約十五メートル)ほどのところで、先頭のフソリテスが歩を止めた。かすかに耳をとらえる音があった。息を殺す。

 まぎれもなく、それは人のすすり泣きの声だった。

「子どもたちだ……」

 ワドワクスが息を呑んだ。ドゥータが辺りを見回しながら、小声で言う。

「見張りは? 兵士たちの気配がない。連中のよろい鎖帷子くさりかたびらの音が聞こえるはずじゃない?」

 私は、剣のつかをしっかりと握りしめた。抜き放った。三人が、呆気にとられた表情で私を見ている。これ以上、子どものすすり泣きを聞いていることに耐えられなかった。傷の起こした熱が私の理性を失わせていたのかも知れない。

 後先も考えず、「アグロゥの洞窟」へ飛び込んでいた。

 回廊からは見えなかったが、すぐ右手の奥の岩壁が掘られ、粗末な木製の格子が設置されていた――牢獄。二部屋あったが、奥の牢屋は空のようだった。手前の部屋には、簡単でちゃちな錠前が取り付けられている。ちょうど、私とワドワクスが囚われていた山麓の牢獄とほぼ同じ作りになっている。

 内部を覗き込んだ。暗がりの中に、小さな影が三つ、見てとれた。二人は小人族オゼットであろう。

 子どもだ。痩せ細り、眼ばかりをぎらぎらとさせていた。

 私が剣を振り上げると、三つの小さな影は息を呑んで身を寄せ合った。

「心配しなくていい」

 私はささやいた。そして、振り上げた剣の柄を錠前に叩き付けた。大きな音を立てて、錠前が壊れた。

「ゴルカンさん……ゴルカンさんなの?」

 聞き覚えのあるが言った。

「トレアンダ? 無事だったか!」

「ゴルカンさん!」

 トレアンダは私の胸に飛び込んできた。私はしっかりとその小さな体を抱きしめた。

「よくがんばった。よく、生きていてくれた。怪我はないか?」

「うん、大丈夫だよ。ぼく、泣かなかった。絶対に泣かなかったからね」

「よし、さすがは大賢人ヒジー殿の弟子だ」

 私は剣をさやに収め、トレアンダの頭を撫でた。ドゥイータとワドワクス、フソリテスも牢獄の暗がりへ駆け込んで来た。ドゥイータは、二人の子どもを胸にかき抱いた。

「もうみんな大丈夫! 怖い思いをしたのね」

「トレアンダ君! 無事だったのか!」

 ワドワクスがトレアンダの手を握りしめた。

「あなたが探してた子?」

 ドゥイータが尋ねた。ワドワクスは潤んだ眼でうなずき、彼女に尋ね返した。

「ジェク君は……どこに?」

「ジェク君は、いないみたい……」

 ドゥイータが一人ごちた。ワドワクスはトレアンダに向き直った。

「トレアンダ君、やつらにひどいことはされなかった?」

「うん。ぼくは平気。でも、こっちのイサーダは……くそっ……でっかい兵隊に襲われたんだ。ひどいことされて、それで、口が利けなくなっちゃって……」

 トレアンダが、我がことのように怒りの表情を見せ、声を震わせた。

 イサーダと呼ばれた子どもは、年の頃、十二、三歳くらいの小人族オゼットの少女だった。ドゥイータに抱かれていても、その体の震えは止まらず、表情も硬くこわばったままだった。

「お姉ちゃんは? ご家族は見つかったの?」

 ワドワクスが尋ねると、トレアンダ少年はかぶりを振った。

「父ちゃんと母ちゃんは……たぶん……駄目だと……思う……」

 そして、胸の奥底から絞り出すような声だった。

「亡くなった……? なぜ? まだそうと決まったわけじゃあ……」

「剣を持った人たちが『小人族は用なしだから、子ども以外は皆殺しだ』って……」

 絶句するワドワクスのあとを引き取って、私が尋ねた。

「お姉ちゃんは、無事かも知れないんだね。きみたちの他に、子どもたちは?」

「わからない。見かけたことがないんだ」

 トレアンダは歯を食いしばった。

「俺、あるぜ」

 今まで黙っていた大人族コディークの少年の一人が声を上げた。この三人のなかではおそらくもっとも年嵩としかさだろう。すでに声変わりしている。浅黒い肌をした、勝ち気な顔つきの少年だ。

「俺が連れてこられたとき、隣の牢屋には何人かいたよ。女の子もいたと思う」

「お姉ちゃんだ、きっと。どうしてもっと早く教えてくれなかったんだよ、ネストン!」

 トレアンダが声を上げた。

「だって、おまえ、訊かなかったじゃないか」

 ネストンと呼ばれた少年が口をとがらせた。

「そこにジェクがいた可能性があるわね」

 ドゥイータが言った。私はうなずき、ネストンへの質問を続けた。

「隣の牢屋の子どもたちがどうなったか、きみは知っているの?」

 私は尋ねた。

「毎日一回、いちばん偉い人がやって来て、一人ずつ牢屋から出して、洞窟の奥に連れてったんだ。やつら『なんとかの儀』って言ってた。噂、聞いたんだ……」

「どんな噂だね?」

 私が尋ねると、ネストンは言いにくそうな表情になった。

「噂だぜ、ほんとのことはわかんねえ。でも、聞いたんだ。この洞窟の一番奥は、水晶山の頂上につながってて、そこに……大蛇がいるんだ」

 私のかたわらで、フソリテスが息を呑むのがわかった。ネストンは続けた。

「大蛇に、子どもはにえとして捧げられるんだよ。心の臓を抜かれて、大蛇に食べられちまうんだ。俺たちは騙されたんだ。大蛇のよだれなんて、もらえっこないし、不老不死になんかなれねえ。大蛇は俺たちを餌にして、世界を滅ぼそうとしてるんだ! 畜生、おやじもおふくろも、大馬鹿だ! そんなでたらめを信じて……」

「それは違うぞ、ネストンとやら」

 フソリテスの声は、不思議と人の波立った心を静める響きがあった。

「〈大くちなわ様〉――そなたの言う大蛇だが――は、生け贄など求めてはおらん。そなたの言う大蛇の涎なども、この世に存在しない。そなたたちをたばかったのは、マトスという一人の邪悪な男だ。〈大くちなわ様〉も、そんなことを望んではおらん」

「爺さん……なんでそんなに詳しいんだい?」

 代わりに私が答えた。

「こちらはフソリテス様。おそらくこの地上でいちばん大蛇にお詳しい方だ。マトスは……きみが言った『いちばん偉い人』は、生け贄ではなく〈拠代よりしろ〉という子どもを探しているんだ。大蛇の言葉を理解し、我々人に伝えることのできる子どもを」

「じゃあ……見つかったのかな……」

 ネストンがつぶやいた。ドゥイータが勢い込んで尋ねた。

「どういうこと? 『見つかった』というのは?」

「いつだったかわかんねえけど……ちょうど、イサーダとトレアンダが連れて来られるちょっと前だったと思う。もういちばん偉い人が来なくなったんだ。それっきり、俺たちは、ここで置き去りさ」

「〈拠代〉に選ばれなかった子どもたちは……」

 言いかけて、ワドワクスは慌てて口をつぐんだ。それ以上を考えたくないのは、我々みな同じだった。

「じゃあ、お姉ちゃんは、もしかして……」

 はじめてトレアンダの眼に涙が浮かんだ。

 そのとき、フソリテスが静かに言った。

「望みを捨てることは、自らを殺すこと。トレアンダと言ったかね、坊や。そなたは生きておる。生きている者の務めは、生き抜くこと、ただそれ自体。そして、生き抜くとは、畢竟ひっきょう一縷いちるの望みを胸に抱き続けること。おっと、小難しい話だったかな」

「お爺さんは? まるで、ヒジーみたい」

 私が代わりに答えた。

「ヒジー殿と同じく、賢きお方だ。さあ、涙を拭くんだ、トレアンダ。もしも〈拠代〉が見つかったのなら、もう猶予はない。今、やらなければならないことを、今すぐにやる。それは、泣くことじゃない。泣くのはあとでもできる。わかるね?」

 私が言うと、トレアンダはうなずいた。

「しまった、忘れてた!」

 ネストンが声を上げた。

「どうした?」

「一日に一度、でっかい体の兵士が、食事を持ってくるんだ。腐りかけたパンだけど。たぶん、もうじきその時間――」

 彼が言い終えるか否や、足音が近づいてきた。振り返った。

 男と眼があった。私よりは頭二つ分は背が高く、でっぷり太った巨漢だった。はがねよろいを着込んでいるが、かぶとは着けていない。手には金属製の皿を持っていた。寄せ集めの傭い兵ではない、マトス直属の護衛だ。

 動くのは、私のほうが早かった。

 剣を抜き放った。突進した。

 巨漢の兵は、驚愕の表情で皿を取り落とした。が、一瞬遅れて、長い剣に手をやった。

 振り下ろした。思いもかけず、敵の力は強かった。いや、怪我のせいで私の力が弱っていたのか。刃をはじき返された。第二撃。同様にぎ払われた。十エーム(約三メートル)もはじき飛ばされた。地面に背中から落ちた。激痛が背骨から脳天まで走る。

「ゴルカンさん!」

 トレアンダの悲鳴。

 次の瞬間だった。甲高く、耳障りな高音が洞窟全体に響き渡った。巨漢の兵士が、小さな呼び子を吹いていた。

「追っ手が来るぞ!」

 フソリテスが剣を構えた。

 十数える間もなく、洞窟の奥から激しい足音が近づいてきた。

 私は起きあがった。剣を拾った。一挙手一投足に激痛が走る。よろめきながら、巨漢に突進した。呼び子を吹く巨漢の背中、鎧の隙間に、柄まで剣を突き刺した。

 剣を引き抜く。巨漢が地響きを立てて倒れた。

 その刹那せつなときの声を聞いた。顔を上げる。十名あまりの兵が突進してくるのが見えた。兵士たちは、巨漢と同様、揃いの皮の鎧を身に着けた重装備だった。

 ドゥイータとフソリテスも剣を手に、彼らに向かって突っ込んで行った。

 激しい斬り合いになった。三人目を斬ったときだった。異様な臭気に気が付いた。ざわざわという、裸足の足音。

「アグロゥ……」

 私はつぶやいた。

 どこから現れたのか、いつの間にか、私たちは取り囲まれていた。無数のアグロゥ――人喰い鬼に。「しゅう、しゅう」という激しい息づかい。鼻を突く悪臭。薄緑色の肌に黄色い歯。醜くねじくれた鈎爪。人喰い鬼どもが、無数に私たちを遠巻きにしていた。

 ワドワクスが、必死に三人の子どもを抱きしめている。

 兵士たちの顔に、いやらしい笑みが浮かんでいた。もはや、我々は人喰い鬼の餌食になる他ないのか。

 そのとき、兵士たちのあいだから、一つの影が歩み出て来るのが見えた。一人だけ、黒い長衣を身に着けている。一瞬、マトスかと思った。が、そうではなかった。もっと若い男だ。色白で、端整な顔立ちをしている。首からは、拳より大きな暗緑色の丸石をいくつもつなげた首飾り――

呪技遣じゅぎつかい……?」

 ドゥイータが息を呑んだ。

 兵士の一人がにやり、と笑い、呪技遣いに向かって言った。

「先生よ、俺たち、ずっとガキどものお守りばかりで、暇で暇でかなわんのだ。一つ、余興でも見せてくれんか」

「いいでしょう」

 若い呪技遣いは無表情のまま、丸石の一つを掲げた。そして、私たちに言った。

「あなたたちですね、エクウムの宿で私の同輩を殺したのは」

「遠くから盗み見する程度の呪技は、あんたにも使えるようだな」

 私の皮肉にも動じた様子はなく、呪技遣いは静かに言った。

「ではどんな呪技が使えるか、とくとご覧なさい。バキヤス・ドウラァ」

 呪文を唱えるや否や、私たちの回りを炎の輪が取り囲んだ。

 兵士たちの哄笑。その向こうでは、アグロゥたちが遠ざかって行くのが見えた。どうやらアグロゥという輩は炎が苦手らしい。

 炎の輪は、じりじりとその直径を縮めていた。ドゥイータの着ていた長衣の裾に火が付き、彼女は慌てて叩き消した。それを見ていた兵士たちがげらげらと笑い出した。

 呪技遣いは相変わらず無表情のまま、新たな呪文を唱えた。

「ジールフ・エキル・セイ!」

 次の瞬間、私の体が動かなくなった。まるで見えない紐で全身を縛り上げられているようだった。呼吸さえも苦しい。フソリテスやドゥイータ、ワドワクスや子どもたちにも、同じ呪技がかけられたらしい。

 そのときになって、はじめて若い呪技遣いが冷たく微笑んだ。

 彼はゆっくりと歩み寄ってきた。

「ティンバル・バキヤス」

 我々の回りの炎の輪が、一瞬で消え去った。が、体はいまだに動かない。

 呪技遣いは我々に近づいてきた。その眼はドゥイータをじっと見ている。

「うつくしい。そなたには、物騒な武器は似合いません。ムラシッド!」

 呪技遣いの呪文と同時に、ドゥイータの剣が、地面に落ちた。ドゥイータは、怒りと屈辱の入り交じった表情で、呪技遣いを凝視している。

 ドゥイータの体は、操り人形のように呪技遣いとともに、歩き始めた。

「や、やめろ……」

 かろうじて、ワドワクスが言った。が、次の瞬間、呪技遣いが手をかざした。ワドワクスは、がくり、と地面に膝をついた。

 呪技遣いは我々を一瞥すると、片腕を伸ばした。その指先で、ドゥイータの頬を撫でた。彼女は嫌悪の表情で呪技遣いをにらみつけた。が、呪技遣いは動じた様子を見せず、兵たちに言った。

「この娘は差し上げましょう。その前に、お毒味を……」

 兵士たちの間から、嬌声が上がった。呪技遣いは、ゆっくりとドゥイータの顔に、自分の顔を近づけた。ドゥイータは抗うことができずにいた。兵士たちの大きな嬌声。

 呪技遣いが、ドゥイータの唇を奪った。

 と、次の刹那、呪技遣いは苦痛に絶叫していた――その口元から血が吹き出している。

 ドゥイータが、呪技遣いの唇を噛み切ったのだった。

 同時に、我々にかけられていた呪技も解けた。

 呪技遣いは体を丸め、子どものように泣き叫びながら地面をのたうち回った。

 ドゥイータは、噛み切った肉片を、そんな呪技遣いに向かって吐き出した。

 兵士たちも、何が起こったのかようやく気づいた。武器を構え、うずくまる呪技遣いを飛び越えると、我々に向かって走り出して来た。

「ドゥイータ!」

 私は彼女の剣を拾い、彼女に向かって放った。

 彼女は受け取った。と同時に、左手でその唇に付いた血を拭った。一瞬後、彼女の剣が一閃した。一人の兵の首が飛んだ。返す刃でもう一人の胴を払う。続いて振り向くこともせず、背後の兵に切っ先を突き立てる。

 私も剣を構えた。一気に踏み出す。そして、一人残った傭い兵の首を刎ねた。

 ワドワクスと子どもたちが、アグロゥに取り囲まれていた。フソリテスが剣を振るい、必死に防戦しているのが見えた。私も応戦に向かった。剣を一振りするごとに、一匹のアグロゥを殺した。しかし、斬っても斬っても、次から次へ、無数のアグロゥたちが群がって来る。

 そのとき、甲高い声が聞こえた。

 呪技遣いが立ち上がっている。口元からとめどなく血を流しながら、暗緑色の丸石をかざしていた。その眼は、狂気の色をたたえていた。

「ムウシペス・ムウリメエ!」

 ほとんど絶叫するように、呪技遣いは呪文を唱えた。

 丸石から、まばゆい緑色の閃光が真一文字に発射された。閃光は天井に当たり、岩が崩れ落ちてきた。アグロゥたちは、恐怖の咆哮を上げ、一斉に壁際へと逃げ出そうとした。

「ムウシペス・ムウリメエ!」

 再び呪文――緑色の閃光。私は地面に転がった。かろうじて、閃光は私の体をそれた。が、その閃光は二十匹あまりのアグロゥたちを一瞬で焼き払い、岩壁に命中した。すさまじい音を立てて、天井から大小の岩が落下し始めた。

 私は、肩に掛けた弩弓どきゅうを下ろした。

 矢をつがえた。構えた。

 呪技遣いが、ゆっくりと私を向いた。その形相は、もはや獣のそれに近かった。もはやその双眸そうぼうに知恵の光など感じられない。呪技遣いは震える手で丸石をかざした。そして、丸石を持っていないほうの手で、私を指さした。

「灰と消えるがいい! ピエフォ・レプス・アトゥルー・スルフシュ!」

「消えるのは、おまえだ」

 引き金を引く――と同時に、巨大な電撃。

 矢が、呪技遣いの眉間をぶち抜いた。

 呪技の雷は、私の背後の壁に命中し、激しく炸裂した。まばゆい閃光が、ほんの刹那、周囲に広がった。衝撃で私は牢屋のほうへ吹っ飛ばされた。激しい土埃つちぼこり。轟音とともに、無数の岩々と土煙が降り注いでくる。何も見えなくなった。意識が遠のく。

 どれくらいのときが過ぎたのか、抱き起こされる感覚があった。苦労して、眼を開いた。ドゥイータだった。

「生きてる?」

「おそらくは」

「フソリテス様は大丈夫。ワドワクスも、子どもたちをしっかり守ってくれた。子どもたちには、怪我一つないわ。人喰い鬼たちは逃げて行った」

「そうか……」

「いつも自分一人の力で何もかも解決できると思ってる。八年前と変わらないのね、あなたは」

 そのとき、気が付いた。はじめて、彼女は私に向かって笑みを見せていた。

「大丈夫ですか?」

 ワドワクスが駆け寄ってきた。

「かろうじて生きてる。しかし、あれを……」

 ワドワクスは、私が指さした方向を向いた。

 「黒き回廊」につながる開口部が、崩れ落ちてきた岩で完全にふさがれていた。

「ああ、なんてこと……!」

 ドゥイータが絶句した。

 フソリテスも、三人の子どもを長衣で包むようにして、歩み寄ってきた。

「ゴルカン、ひどい顔をしているぞ」

「お互い様ですよ。みんな、死に損ないの顔です」

 フソリテスは、岩で覆い尽くされた「黒き回廊」の開口部を見やった。

「もはや、後戻りはできん、ということだな」

「もとより、そのつもりはありません」

 ドゥイータが言った。

「地図によれば、この辺りから、まだ水晶山の奥へつながってるはずだが……」

 フソリテスが渋面を作った。

「大蛇がいるという、かつての火口ですね」

 ワドワクスは勢い込んで言った。

 私は少しの間、思案した。我々は四人。そして、三人の子ども。そしてこの先には無数のアグロゥと傭い兵、そしてマトスと大蛇――

 私は言った。

「ワドワクス、あんたはここに残ってくれ。子どもたちを守るんだ。私たちは、できるだけ人喰い鬼から隠れながら、頂上の火口を目指す。そして、マトスを討つ」

「馬鹿なことを言わないで下さい! 僕が足手まといだと言うんですか? 怪我を負ったあなたのほうが足手まといだ」

 ワドワクスが語気を荒げた。

「ワドワクスの言う通りよ」

 すかさず言ったのは、ドゥイータだった。彼女は、静かに私を見つめていた。

「今のあなたはただの怪我人。連れて行くことは、わたしたちの危険を増すだけ」

 追い討ちを掛けるようにワドワクスが言った。

「ゴルカンさん、その体で人喰い鬼や兵士どもと闘えるとお思いですか? ドゥイータの前だからといって、意地を張るのはやめて下さい」

 私は、一瞬、彼の言っている意味がわからなかった。ようやくその意味を把握しかけたとき、すでに三人は牢獄から出て行こうとしていた。

 不意にワドワクスが立ち止まり、私のもとへ駆け戻ってきた。懐から革袋を取り出す。

「例の薬草です。塗り直した方がいいでしょう。あと何回か使う分はあります」

「ありがとう」

 私は礼を言ってうなずき、フィエルから託された薬草の小袋を受け取った。

 ドゥイータが、私を振り返った。

「必ず戻ってくるわ。子どもたちをお願い」

「わかった」

 三人が歩き始めた。すぐに、その姿は闇の中に消えた――マトスと大蛇の待つ山頂へ。


「蛇神覚醒」第九話へつづく

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