第7話
14
翌朝、日の出と同時に、フドーニが天幕に入ってきた。
「さあさ、仕事だよ!」
酒精が抜けきれずにぼんやりとした頭を抱えて、私は寝台に起きあがった。激しい頭痛に、うめき声を漏らした。
「ああ、酒臭い! これだから男ってのは! あんた、料理くらいできるんだろ?」
「多少は」
「多少じゃ困るんだよ。百三十人分だよ。そのうち八十人分は、病人と怪我人用。ちゃんと分けて作るんだからね」
「私が?」
「さあさあ、早く行った行った! あっちの天幕に
追い立てられるように、私は天幕から出された。
午前は慌ただしく過ぎた。
〈フソリテスの塔〉周辺の天幕に保護されている八十名あまりのうち、健康な者はほんの二十名たらずだった。
隣の大きな患者収容用の天幕で、ワドワクスとドゥイータが、一人一人患者の健康状態を調べているのが見えた。ドゥイータは、笑顔で患者たちに何ごとか声を掛けており、言われた方の患者たちも、笑いながら返していた。
私は、私に与えられた仕事に専念することにした。
まず、百三十人分の朝食を巨大な六つの鍋で作るのを手伝わされた――私はあまり役に立たなかったが。厨房担当のフィエルは、赤い髪に
私はその顔にキロエの面影を思い出してしまった。我知らず、その横顔をじっと見てしまう瞬間があった。フィエルは、にっこりと笑って言った。
「ゴルカンさん、手を止めてると、フドーニ姐さんに怒られちゃうよ」
聡明な少女だった。偶然にも彼女は、私の住んでいたサンナ村の出身だった。それを知ると彼女はぱっと顔を輝かせた。
「わたしの家は、村の南の金釘通りにあるんです。ゴルカンさんは、村のどの辺りに住んでるんですか?」
大鍋を巨大な
「村のはずれのそのまたはずれだよ。北のほうの、人が寄り付かない森の中だ」
「どうしてそんなところに? 寂しくないんですか?」
「一角犬と一緒に暮らしているから、平気だよ」
「一角犬? サンナ村にもいるの? 見たいなあ」
「村に帰れたら、会わせてあげるよ。見た目は恐ろしいが、根は優しいやつだよ」
料理ができ上がると、それら――健康な者には、ミツユビシカの肉の煮込みとルケ麦のパンを、病者、怪我人などには、ミドリ米の
その仕事が終わると、次は、病者と怪我人の看護だった。ここには、医者が一人しかいない。北の国から来たという老医師だった。しかも彼自身、傭い兵に槍で腹を刺された傷を負っており、患者全員の治療に回ることができなかった。
天幕には、さまざまな病を持った者たちもいた。私も多少の薬草について知っていたが、飲んだくれのフピースに教えてもらったものばかりだった。なので、かなり知識としては怪しい。さらに、この辺りの茫漠とした荒れ地には、ほとんど薬草らしきものは生えていなかった。
「ゴルカンさんって、お医者さんなの?」
フィエルが訊ねた。
「いいや、けれど、この程度の手当なら私でもできるよ。包帯のそっちの端を持ってくれるかな」
私たちは二人一組で患者の天幕を回って、怪我人の治療にあたった。
天幕を一通り回り、怪我の治療と食事の配布などを済ませると、すっかり疲れ切ってしまった。私は、塔から少し離れたところに丸い岩を見つけ、その上に一人で腰を下ろした。
水晶山――相変わらずその
私の脇に一つの影が落ちた。フィエルだった。いつの間にか、二つの皿と匙を持っている。
「ごはん、食べてないでしょ」
フィエルは皿とルケ麦のパンを私に手渡すと、私の隣の岩に腰を下ろした。
「あ、そうか。忙しすぎて、食べるのを忘れていたよ。ありがとう」
「すっかり冷めちゃった」
「いや、食事ができるだけでもありがたい」
ミツユビシカの煮込みはすっかり冷たくなっていたが、それでもこの数日間、まともなものを――酒以外に――口にしていなかったので、たいへん美味だった。ぱさぱさしたルケ麦のパンも、噛み締めるとなつかしい味がした。
「ゴルカンさん……」
やや口ごもるように、フィエルが訊いた。
「ドゥイータさんと……お友達だったんだね」
「友達というか、古い知り合いだよ。彼女は――ドゥイータはここで、どんな評判なのかな? ずいぶんと働き者のようだが」
「ドゥイータさんがいらっしゃったのは、つい十日ほど前。けれど、今ではわたしたちにとってなくてはならない人です。朝から晩まで看護につきっきりで、しかも剣を使わせても一流。だって、十年も訓練してきたムーレグさんを試合でやっつけちゃったんだから」
「ほう、それは凄いな」
「ほんとに、憧れちゃう。素敵な人ですよね」
「今の彼女を、よく知らないんだ」
「ふうん……ドゥイータさんは、ゴルカンさんのことをよく知っましたよ」
「話したのかい?」
「ちょっとだけ」
ドゥイータが私のことを何と評していたのか気になったが、あえて何も尋ねなかった。
「ねえゴルカンさん、どうしてドゥイータさんと別れたの?」
ミツユビシカの煮込みを吹き出しそうになった。
「別れた? 誰がそんなことを?」
「誰も言ってないけど……わかるよ、一目で」
「何が?」
「ゴルカンさんがドゥイータさんを見る眼。ドゥイータさんがゴルカンさんを見る眼……夕べから、もう噂になり始めてるんだから。言いふらしてるのはフドーニ
フィエルが悪戯っぽく笑った。
「馬鹿馬鹿しい。彼女には許嫁がいる」
「じゃあゴルカンさんは、ドゥイータさんのことを、何とも思ってないの?」
「私は、彼女にとって仇――八年前、彼女の兄を殺したのは、私なんだ」
フィエルが絶句した。持ち上げかけた匙を止め、じっと私の顔を凝視していた。
「嘘……」
「嘘じゃない。彼女に訊いてみるといい。私は……きみが思っているような人じゃないんだよ。私のせいで、多くの血が流された。もうこの話はやめよう」
私は立ち上がった。
「不思議な気がする。ドゥイータさんやゴルカンさんみたいな人が、〈大くちなわ様〉に会いに来るなんて。〈
「大蛇に会いに来たわけじゃない。人を探しに来たんだ」
「見つかったの?」
「子どもが二人、行方知れずだ。おそらく水晶山に囚われている」
答えると、急にフィエルの顔が曇った。みるみるうちに、その
「すまない。何かつらいことを思い出させてしまったようだ」
「わたし……弟と一緒に来たんです。父さんのために」
「つらかったら、言わなくていい」
しかし、彼女はかぶりを振った。
「父さんは、
「仕事ができなくなった?」
フィエルは、こくん、とうなずいた。
「〈大くちなわ様〉の〈
フィエルは、必死に
「全部わたしのせい……水晶山まであと少しっていうところで、わたし、兵士に捕まっちゃったんです。大きな大人が三人もいて、わたしを茂みのほうへ引きずって行って……叫ぼうとしたけど、口をふさがれて……わたしを助けるため、フィンクが兵士に飛びかかっていった。父の仕事場から持ち出した短剣を構えてました。一人の兵士はやっつけたけど、もう一人が剣を抜いて、フィンクの胸を……」
「それ以上言わなくていい」
次の瞬間、フィエルが私の胸に飛び込んできた。顔を埋め、泣きじゃくった。私は、彼女の小さな肩をそっと抱きしめた。私は言った。
「ここは、傷を癒すための場だろう? 自分一人だけで、傷を抱え込まないことだよ」
「ごめんなさい……」
激しく嗚咽しながら、彼女は言った。
「きみが謝ることはないよ。さあ、落ち着いたら、あちらの天幕で、フドーニ姐さんを手伝おう、怒られる前にね」
私は言うと、フィエルは気丈にも、笑みを見せた。
そのときだった。一頭のハイロカケトカゲが荒野の向こうから姿を見せた。カケトカゲは荒れ地を駆け抜けると、〈フソリテスの塔〉に向かってまっすぐに走って行き、すぐに姿が見えなくなった。その背中に、ぐったりとした人影が横たわっているように見えた。
ちょうどそのとき、フドーニが塔のほうから駆け寄ってくるのが見えた。
「フィエル、こんなところで呑気にご飯なんか食べてる場合じゃないよ。たいへんなんだ、戻って来られたんだよ」
「どなたが?」
「どなたって、あんた、ムージェル様だよ。あんたもトカゲを見たろう? ひどいお怪我をなさって……早く来て、手伝うんだよ!」
「ムージェル様が?」
「誰だね、ムージェルとは?」
私は訊いた。
「ムーレグ様の兄上です。フソリテス様のご命令で、半年前から傭い兵になりすまして水晶山へ行っていたの」
私とフィエルは、フドーニとともに塔に向かって走り出した。
塔の前の天幕の一つに、人だかりができていた。中へ入ると、寝台の上に血まみれの男が横たわっていた。その脇に、フソリテスが立っている。ムーレグは、兄の片手をしっかりと握りしめ、寝台の横にひざまずいていた。
その瞬間に、ムーレグの兄の命がもう長くないことを、私は悟っていた。天幕に充満する匂いでわかった。死を間近にした者は、独特の不吉な死の匂いを発する。
ムージェルの怪我はひどかった。あちこちに刀傷があり、背中からは二本、矢が突き出ている。血みどろの顔はむくみ、唇はひび割れ、両眼の焦点はすでに合っていなかった。おそらく、もう何もその眼に見えてはいないだろう。
「〈
ムージェルが、あえぎあえぎ言った。
「ああ、わしはここだ、ムージェル」
「ふ、不覚にも、正体が露見してしまいました。この有様です……」
「兄さん、喋るな! 傷に
ムーレグが半泣きの顔で身を乗り出した。
「ムーレグ、おまえは……いつも優しいな。〈聖蛇師〉様……こ、これを……」
震える左手を、ムージェルは懐に入れた。そこから彼が取り出したのは、一枚の巻物のようなものだった。おそらくは、ウロコヒツジの皮でできた紙だろう。ムーレグが涙をこらえながら兄から血染めの巻物を受け取り、父に手渡した。
「すぐ手当をするから、兄さんは喋っちゃ駄目だ!」
そのとき、お湯を張った洗面器と多量の綿を持って、フドーニとフィエルが天幕に駆け込んで来た。二人は手際よくムージェルの上着を切り裂き、傷口の消毒を始めた。
が、ムージェルは静かに行った。
「フドーニさん、薬や包帯を無駄に使っちゃいけない。私は……もうすぐ死ぬ」
「馬鹿言うんじゃありませんよ!」
嗚咽交じりにフドーニが叫んだ。二人とも、手当をやめようとはしなかった。
フソリテスは、苦渋に満ちた表情で巻物を開いた。
「ムージェル、よくぞやってくれた。そなたを危険に巻き込んだ父を許してくれ」
「〈聖蛇師〉の長子として、当然のことを……したまでです。
「兄さん! もう喋るなって! 傷が開いてしまう! ああ、ヘクロンよ! 俺が代わりに行けばよかったんだ!」
ムーレグが悲痛な叫びを上げた。そんなムーレグに、ムージェルは顔を向けた。それは、微笑んでいるように見えた。
「ムーレグ、おまえが、父上の跡を継ぎ、〈聖蛇師〉になるんだ……よく学べよ……」
そして、ムージェルは動かなくなった。両眼を見開いたまま。
「兄さん!」
ムーレグが兄の体にしがみつき、叫んだ。そのそばで、フソリテスは呆然と立ち尽くしていた。そして、死者に送る言葉らしき経文を静かに唱え始めた。
「ヘクロン・ヴァネ・テグロフ・エゥ・ヴァネ・テグロフォ……」
不意にムーレグが顔を上げた。
「父上、なぜ……なぜ、兄者を行かせたんです? なぜ俺じゃなかったんです? 〈聖蛇師〉を継ぐ兄さんは、行くべきじゃなかった! 死ぬべき人じゃなかった……!」
「では、弟のそなたなら死んでも構わんと?」
フソリテスは力無い声で問い返した。
ムーレグは何も答えなかった。喉の奥で、ツノヤマネコのようなうなりを発するだけだった。
そしてフソリテスは、がっくりと肩を落としたまま、ゆっくりと歩き始めた。私の脇に来ると、静かな声で言った。
「なんと罪深き父か……なんと罪深き、血か……」
私は返す言葉を持たなかった。
フソリテスは、そのまま天幕から外に出て行った。
いつまでも、ムーレグの嗚咽が続いた。
翌日の正午、ムージェルの葬儀が営まれた。場所は、塔の屋上だった。参列を許されるのは、本来「騎士」たちだけのはずであった。が、特別の計らいで、私、ワドワクス、ドゥイータの三名も、列席することを許可された。
葬儀は呆気ないほど簡単なものだった。
屋上の中央に薪で井桁が組まれ、その上に真っ白な装束に包まれたムージェルの遺体が横たえられた。その胸の上には、白蛇の面が置かれていた。
「ヘクロン・ヴァネ・テグロフ・エゥ・ヴァネ・テグロフォ……」
フソリテスが天幕で呟いたのと同じ文句を、蛇神崇拝者たちは唱和した。私はただ無言のまま、ムージェルの遺体を見つめていた。
信仰のために命を捨てた男。父の命で死地に赴いた男。教義を守るため、ひいては血筋を守るために殉じた男。
いつしか、経文の唱和は終わっていた。
フソリテスが合図をした。
ムーレグが、火の着いた松明をムージェルの横たわる井桁に掲げた。一瞬遅れて、炎が上がった。見る間に炎はムージェルの遺体を覆い隠し、黒い煙が青い天空に向かって上がり始めた。
肉の焦げる匂いが広がった。ワドワクスがかすかに顔をそむけるのが視界の片隅に見えた。私は、この匂いには慣れきっていた。何も感じない己を恥じた。
天高く登る黒煙を見上げていたフソリテスが、顔を下ろした。そして、言った。
「支払った犠牲は、あまりにも大きかった。これも、わしの
一度そこで言葉を切り、フソリテスは〈ヘクロンの騎士〉の面々を見回した。
「これは、この地上界が誕生して以来、蛇神ヘクロンを崇める者たちにとって、最大の危機だ。
フソリテスは、そこで一度大きく息を吸った。
「同時に、わしの闘いでもある。ムーレグの闘いでもある。我がフソリテス家の私怨による闘いでもある。従って、そなたたちに『わしとともに闘え』とは申さぬ。おそらく、想像を超える悲惨な闘いとなるであろう。わしは、そなたたちに『命を捨てろ』とは言えぬ。〈聖蛇師〉の立場を越え、わしは一人の人として、マトスを憎悪する。マトスという男を生み出した我が『血』もまた、憎悪する。それ故、わしは、マトスを討つ」
「しかし〈聖蛇師〉様……」
一人の「騎士」が言いかけた。が、フソリテスはすぐにそれを遮った。
「この闘いを、ゆめゆめ『正と邪の戦い』と思うなかれ。〈大くちなわ様〉を利用し、多くの
しわぶき一つ聞こえぬ静寂が、屋上を包み込んでいた。
「今宵、赤月が沈み闇が地上を覆ったとき、水晶山へ突入する。囚われ人は、昨夜でほぼ助け出すことができた。水晶山の中に囚われていると思しき〈
屋上の誰しもが、その
「ですが……」
口開いたのはドゥイータだった。
「何かね、北の
全員の視線がドゥイータに集中した。ドゥイータは、勇気を振り絞るようにして言った。
「伝説では、水晶山の内部は、迷宮のようになっているといいます。そんな場所で、子どもたちを――それに大蛇を、見つけ出すことができるんでしょうか?」
「見よ」
フソリテスが、長衣の下から何かを取り出した。巻物だった。ムージェルが命を賭して手に入れた、血染めの巻物だった。
「ムージェルは、おのが命を代償に、これを我がもとへ運んでくれた。半年に渡って傭い兵を装い、水晶山中を歩き回り、自らの手によって描いた水晶山内部の地図だ。ムージェルの血を吸うたこの地図こそが、我らの最後の希望」
ムーレグが、屋上の大理石の上に泣き崩れた。
他の「騎士」たちもまた、屋上にひざまずいた。私もそれにならった。
冷たく、しめった風が屋上を吹き抜けて行った。
15
日没前に、暗い雲が空を覆い始めた。雨が降り始めたのは、日が落ちて半刻ほどたってからだった。冷たい霧雨だった。
フドーニに頼み、できる限り汚れていない衣服の上下を探してもらった。今着ているものは、埃や血やその他の汚れで真っ黒になっており、穴だらけだった。サンナ村のフピースのほうが、まだましなものを着ているだろう。
ほどなくして、彼女は焦げ茶色の装束を持って、私の天幕に戻ってきた。
「ありがとう、フドーニさん」
フドーニは、無造作に装束を寝台の上に置いた。薄い革製の上衣は、私が普段着ているものによく似ていた。
「礼なんかいいんだよ。それから、ほれ」
フドーニが放って寄越したのは、錆び付いた
「フィエルが半日、天幕のあちこちかけずり回ってようやく探し出したんだ。ずいぶんと傷んでるが、ないよりはましさ。文句を言うんじゃないよ」
「フドーニさん……」
「あんた、行くんだろ、〈聖蛇師〉様について、水晶山へ」
「ええ、行きます」
「だったら、あんた、フィエルにだけは、ちゃんと挨拶してから行くんだよ。あの子、『蟲囲い』で、カケトカゲの世話をしてる」
フドーニは、ふん、と鼻を鳴らすと、さっさと天幕から姿を消した。
鎖帷子を着た。こんなものを身に着けるのは、衛士時代以来だ。私には、若干大きかったが、その役目は充分果たしてくれるだろう。その上から革の装束を着た。こちらはあつらえたかのように、ぴったりの大きさだった。
外の雨が激しくなっているようだった。天幕を叩く雨粒の音が大きくなっていた。それに、風も出てきたようだ。
剣帯を着けた。そして、ムーレグが取り返してくれた私の剣を手にした。
鞘から抜き放った。
今回の旅に出てから、いったい何人の血を吸ったのか。そしてこれから、いったい何人を斬ることになるのか。
刀身には、傷一つなかった。燭台の蝋燭の光が揺らめいている。その研ぎ澄まされた刃に、私の両眼が映っていた。自分のものとは思えなかった。いや、人のものとも思えない。いつか見た、老いて死にかけたシマオオカミの眼に似ているような気がした。
気配――
いつものように、頭よりも先に体が反応していた。
剣を構え、天幕の入り口の布を一気にまくり上げた。
短い悲鳴がした。
フィエルが立っていた。
「ゴルカンさん……」
フィエルは、燭台の光に照らされた剣を凝視していた。悪鬼にでも魅入られたかのような、恐怖に張りつめた面持ちだった。
「フィエル……すまない」
私は剣を
フィエルは、一度大きく深呼吸すると、何かしらを決意したかのように、一歩前へ進み出た。
「やはり、行ってしまうの?」
「私の助けを待っている子がいる。それに……斬らねばならん相手がいる」
「斬る……? ゴルカンさんにはじめて会ったとき――ああ、なんてこと、まだ昨日の朝のことなのに――ゴルカンさんは、お兄さんのように見えました。もしもわたしにほんとうにお兄さんがいたら、こんな人であって欲しい、って思った」
「私はそんなに若くない。すっかりくたびれているよ」
「そういう意味じゃなくて……」
「私はきみを失望させたんだろうか?」
「今のゴルカンさんは、全然別の世界に生きてる人みたい……」
「そうかも知れない。きみとは異なる世界の住人なのだろう。そこでは血が流れ、人が傷ついて
出し抜けに、フィエルが私の胸に飛び込んできた。
「死なないで」
私の胸に頬を押しつけ、フィエルはかすれた声で言った。
「努力する。きみをグンに紹介したいからね」
「グン……?」
「一角犬の名だよ。グンは、よき人と悪しき人を嗅ぎ分けるのが得意だ。きみなら、すぐにグンと仲良くなれるはずだ」
フィエルが顔を上げた。
「約束……してください」
「約束する。もう赤月が沈み始める刻限だろう。行かねば」
剣帯に鞘を刺した。天幕から外に出た。
大粒の雨のなか、いつの間にかそこには一頭の純白のカケトカゲが立っていた。すでに
雨に濡れるのも構わず、フィエルは天幕から駆け出し、カケトカゲの鼻面を優しく撫でてやった。
「まだ若くて経験が乏しいカケトカゲだけど、使ってください。名前は、フィンク……」
「きみの弟さんの名だね。ありがとう。必ず傷一つ付けずにお返しする」
私は
「ご武運を……」
フィエルの頬を濡らしているのが、雨なのか涙なのか、私にはわからなかった。
私はうなずき、拍車を掛けた。
塔の前には、すでに十数騎のカケトカゲが集結していた。いずれも、純白の
そのうちの一騎が、私のほうへ歩み寄ってきた。
「そなたも、来られるか」
フソリテスだった。
「無論です。たとえあなた方が行かなくても、私は行きます」
「命を粗末にしてはならんぞ」
「そのお言葉、あなたにそのままお返しします。あなたは、死んでも構わないと思っておいでだ。それはいけません。あれを見て下さい」
私は天幕のほうを指さした。
土砂降りにもかかわらず、多くの人々が、こちらを
「あなたは多くの人たちに必要とされている。しかし、私はそうではありません。無論、犬死にするつもりは毛頭ありませんが」
フソリテスは黙ってうなずいた。
彼のカケトカゲが先頭に立った。彼は振り返り、「騎士」たちに向かって呼ばわった。
「よくぞ、集まってくれた。この戦いは、決して歴史には残らん。そなたたちが英雄として吟遊詩人にその名を歌われることはあるまい。多勢に無勢、我々に勝機はほとんどない。それでも剣を取るという者、偽りの〈聖蛇師〉を討つために戦う者たちよ、わしに続くがよい!」
フソリテスは、カケトカゲに拍車を掛けた。一気に飛び出した彼を、十数騎が追った。
私の乗ったフィンクも、遅れじと全速力で駆け出し、塔をあとにした。少女が私の名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
一行は、
一刻半ほどして、霧の中に、水晶山の巨大な影が浮かび上がった。
みるみるうちに、その影は巨大化し、私たちの視界を覆い尽くした。
かがり火の道は見えなかった。先日の襲撃で兵舎が焼け落ちた跡は、もはや使われていないのかも知れない。
が、小さな灯りが、岩陰に見え隠れしていた。
「『第一の岩戸』だ」
誰かが叫んだ。
それを合図に、みなが一斉に剣を抜き放った。私も、自らの剣を抜いた。
第一の岩戸――水晶山内へと通ずる唯一の入り口。巨大な岩戸だった。その周辺に、いくつかのかがり火が焚かれている。そして、衛兵と思しき屈強な男の姿が見て取れた。その数は、二十名は下らないであろう。まだ彼らは我々に気づいていない。
そのとき、一頭のカケトカゲが私に併走するように近づいてきた。
「ゴルカンさん、ここは二手に分かれた方が得策だと思います」
白蛇面の下から聞こえてきたのは、ワドワクスの声だった。
「ワドワクス! どうしてここにいる? だいいち、剣を
「剣は駄目でも、こっちのほうがありますから」
ワドワクスは頭を指さして言った。
「まずは数騎で、彼らの注意を引き付けるんです。見て下さい、連中のあの動き。とても訓練された軍隊とは思えません。まるで斥候の役を果たしていない」
「一目でよくわかるな、そんなことが」
「これでもテジンの行政武官の息子ですから、兵法も学んだことがあります。南側の岩場の少ないほうから、まず数騎が突入します。やつらは、我々の拠点が南方にあることをとうに承知しているはずですから、南側の守りを固めているでしょう」
「なるほど、そのあいだに他の者が北側に回り込み、一気に攻め込む、か。よし、あんたがフソリテス様に進言するんだ」
白蛇面の下で、ワドワクスが笑ったように感じられた。
「どうした?」
「あなたが人に『様』をつけるなんて」
「おかしいかね?」
「あなたは、自分以外の誰も信頼していない……いや、おのれすらも信じていない人だと思っていましたから」
私は黙っていた。
ワドワクスは、カケトカゲを駆って、集団の前方へ向かった。
少しして、一団は停止した。水晶山の垂直に切り立った断崖が、眼の前二イコル(六十メートル)もないところにそびえている。
フソリテスが言った。
「陽動作戦だ。三名が、まず最初に南側から傭い兵たちに攻撃を仕掛ける。おそらく、連中はかなり警戒をしているだろうが、外に出ている見張りたちは、寄せ集めの小物たちのようだ。外よりも内を固めているらしい。が、とにかく『扉』を開けて中に入らねば意味がない。先発隊の三名が見張りどもを攪乱しているあいだに、残った我々が北側に回り、一気に攻め込むのだ。先に攻撃を仕掛ける三名は、腕の立つものでなければならん。レクトー、行ってくれるな」
「はい、〈聖蛇師〉様」
一騎が前に歩み寄った。
「それから、ドゥイータ」
フソリテスが言うと、騎士たちの間にざわめきが起こった。
「しかし、彼女は味方ではありますが、
誰かが言った。が、すぐにフソリテスはそれを制した。
「味方。それでよいではないか。それになにより、そなたより剣が
周囲で少し笑い声が起こった。
「そして、ゴルカン。そなたに頼む」
ワドワクスの指が私に向けられた。
私は黙ってうなずいた。
「待って下さい! フソリテス様!」
一人の女の声が、異を唱えた。ドゥイータだった。
「言い争うておる時間はないぞ、ドゥイータ。さあ、行くのだ!」
「ご両人、ついて参られよ!」
レクトーと呼ばれた騎士が言った。面を着けているので顔は見えなかったが、声から判断するに、初老の騎士のようだった。彼が先頭に立ち、カケトカゲを走らせた。続いて私、最後にドゥイータが続いた。
私のフィンクの脇に、すぐにドゥイータが追いついてきた。
彼女は言った。
「いったいどういうつもりなのかしら、フソリテス様は?」
「私の姿を見たくないなら、きみは下がっていてくれ。二人で充分だ」
「馬鹿にしないで」
前方に、傭い兵たちが見えた。冷たい雨に濡れ、肩を丸めて身を寄せ合い、何事か
その背後に、巨大な岩戸が見える。高さは約六十エーム(およそ二十メートル強)はあるだろう。
「参るぞ!」
レクトーが叫び、傭い兵たちの中に突っ込んで行った。
私も続いた。
傭い兵たちは、攻撃されることをまったく予想していなかったのだろう。剣を手にしていない者すらいた。
私は剣を振るい、すぐに二人を片づけた。
わずか三人の先発隊による陽動作戦は、見事に功を奏した。レクトーとドゥイータも、見事な剣さばきで、次々に敵を屠っている。傭い兵たちは、ただ闇雲に剣や槍を振り回すだけで、まったく統率が取れていなかった。
「水晶山へ!」
北側から、フソリテスの怒鳴り声が聞こえて来た。騎士たちの「おう!」という
十二騎のカケトカゲが、水しぶきを上げながら突進してきた。
ちょうど北側から背後を突かれた兵たちは、完全に恐慌状態に陥った。
数を百も数え終えぬうちに、傭い兵たちの大半が屠られていた。
槍を構えた太った兵を斬り捨てると、生き残った一人の兵が、甲高い悲鳴を発しながら、剣を捨てて荒野へと逃げ去ろうとしているのが見えた。兵は、長細い角笛らしきものを、革紐で肩から下げている。
私はフィンクを駆った。すぐに兵に追いついた。背後から剣を振り下ろす。革紐が切断され、角笛が地面に落ちた。驚いた兵もつんのめり、ぬかるんだ荒れ地に突っ伏した。私は鞍から跳び降りた。角笛を拾った。兵は、恐怖に見開かれた眼で私を見上げていた。
私は剣を下げたまま、言った。
「心の臓が三つ鳴るまでに、武器を捨てて、消えろ」
兵士は、「ひ」と短く声を上げると、三つどころか二つも数えぬうちに、剣を放り投げ、荒野の北方へとこけつまろびつして逃げ出して行った。私は角笛を持ってカケトカゲに乗ると、「扉」に戻った。
「第一の岩戸」の兵はすでに殲滅されていた。水晶山内部では、まだこの異変に気づいていないらしい。
数名の蛇神崇拝者が「扉」を開こうと、悪戦苦闘していた。が、巨大で頑健な岩戸は、びくともしなかった。内側から強力な
私は、すぐ隣の騎士に尋ねた。
「フソリテス様も開け方をご存じないのか?」
騎士は、白蛇面を外した。偶然にも、それはドゥイータだった。
「『フソリテス様』? いつからあなたは人に敬意を払うことを覚えたの?」
「不思議なものだ。ついさっき、ワドワクスにも同じようなことを言われたよ」
ドゥイータは、片眉を上げてみせただけだった。
「あの岩の扉、
「ならば、やつらに開けさせるだけだ」
私は、角笛を口に当て、渾身の力を込めて、吹いた。
思いの外高く鋭い音が、岩戸の周辺に響き渡った。おびえた何頭かのカケトカゲが、甲高い声でいなないた。フィンクは、まったく動じることなく、おとなしく立っていた。
長い長い沈黙があった――ように感じられた。
やはり、失敗だったか、と思いかけたとき、ずん、という振動が起こった。
ゆっくりと「第一の岩戸」が、外側に開き始めた。
開くにつれて、その隙間から、青白い光が漏れ始めた。その場にいる誰もが、その妖しく不気味な光に魅入られたように立ち尽くしていた。
「進むのだ!」
フソリテスが叫んだ。
「蛇神覚醒」第八話へつづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます