第6話

13

 カケトカゲの一団は、全力で道なき道を駆け続けた。

 先頭は、フソリテスと私の乗る純白のカケトカゲだった。白蛇面たちは大勢いるように思えたが、実際には、わずか十数名だけだった。ただそれだけの一団で、数にはるかに勝るマトスのやとい兵たちを打ち負かし、兵舎と牢獄を焼き払い、囚われ人たちを救出したことになる。

 剣の訓練はなされている。が、彼らは軍や衛士隊に見えなかった。兵や衛士ならば、多かれ少なかれ死の匂いを放っている。死を見ることにも、死を与えることにも、死を受けることにも、慣れている。そう訓練されている。酷薄な死の匂いを身にまとっているのだ。

 かつての私もそうだったはずだ――そして今また、再び死の空気を運ぶようになった。

 今日だけで、いくつの命を奪ったことか――思い出したくはないが、彼らの断末魔の瞬間の顔は、一人一人すべて、私の脳裏にべったりと張り付いている。この先、私自身が死ぬ時まで、彼ら一人一人の表情は、私の記憶から離れることはない。

 私は私を呪い、私を呪う死びとたちを呪った。

 しかし、私を取り囲むこの白蛇面の集団には、そんな暗い影がなかった。牢獄で会った男のように、無垢な心持ちすら感じさせた。

 そしてそんな彼らのなかに、ドゥイータがいる。

 ごろごろとした大小の岩が転がる荒野が、いつまでも続くように思われた。しかし、純白のカケトカゲは、そのような地面を走るための訓練を受けているようだった。

 その間、フソリテスは、一言も口を利こうとしなかった。私もまた、無言のまま鞍に座り続けた。視界の片隅に、ドゥイータとワドワクスの乗るカケトカゲが見えていた。

 私は、フソリテスの肩越しに前方へ眼を向けた――広がる荒野。乾き切り、むき出しの岩が転がり、ところどころに草が生えているだけの土地――。

 二刻ほど駆けた頃だろうか、前方に高い塔が姿を現した。一角犬の角のようだ、と私は咄嗟とっさに思った。その塔は、まっすぐに円錐形に天空に向かってそびえ建っていた。その高さは三イコル(約九十メートル)以上はあるかも知れない。日の光を浴びて、塔の純白の外壁が光っている。大理石で出来ているのだろうか。

 塔の周囲に、いくつもの天幕が張られていた。さらにそれら天幕の外周は、簡素な木製の柵で囲まれている。塔を中心として、一つの集落を形成しているようだ。

 我々が近づくと、天幕のもと下から数名の女たちが駆け寄ってきた。

 白蛇面の集団は、柵の内側で純白のカケトカゲを止めた。私も、ようやく鞍から降りることができた。私たちが降りると、カケトカゲは命じられもしないのに、他のトカゲたちと一緒に、木でできた囲いの中へ入って行った。

 小人族オゼットの女の一人が駆け寄ってきた。小人族はだいたい、傍目には大人族コディークより若く見えるが、彼女はそれでも四十は過ぎているようだった。

「フソリテス様、ご首尾しゅびは?」

 女の問いに、フソリテスは白蛇の仮面をはずした。

 その下から現れたのは、日に焼けた浅黒い肌をして、真っ黒な顎髭をたくわえた老人だった。歳のころは、六十前後であろうか。その顔には深い皺が無数に刻まれていた。

とらわれ人たちを解き放つことができた。現在、五百洲いおす川沿いに、こちらに向かっておるところだ。薬や寝台の用意を。病を持ったり怪我を負うた者がほとんどなのだ。フドーニ、そなたには迷惑を掛けるな」

「いいえ、フソリテス様、あたしたちはフソリテス様に救われた身です。迷惑なんて……もったいないお言葉です」

「天幕も新たに張らねばならんだろう。これからが大ごとだ。フィエルたちと協力して、早急に用意してくれるか?」

「はい、わかりました」

 女は天幕のほうへ駆け戻った。

 それと入れ違いに、牢獄で一緒だった片脚の男――今では両脚を持っているが――が駆け寄って来た。

 男はにやにやしながら、私に言った。

「俺の名前、まだ教えてませんでしたね。ムーレグ。あなた、ゴルカンっていうんですね。ワドワクスから聞きましたよ」

「そっちは早々と意気投合したようだな」

「いやあ、驚きましたね。ワドワクスが、あのドゥイータさんの許嫁いいなずけだったなんて」

 私は黙っていた。そこへ、フソリテスが割り込んできた。

「ムーレグ、無駄話はいい加減にして、フドーニたちが天幕を張るのを手伝ってやらんか。男手が必要なはずだ」

「わかりました。じゃ、またあとで、ゴルカン」

 馴れ馴れしい笑みを浮かべ、ムーレグは天幕のほうへ駆けて行った。

 フソリテスは、険しい表情を私とワドワクスに向けた。

「ムーレグとはすでに知り合うていたようだな」

「ええ、牢獄で一緒でした。まさか、あなたの部下だったとは」

 ワドワクスが苦笑した。

「部下ではない。わしの息子の一人だ」

「息子?」

「わしの命で、わざと牢獄に囚われ、連中の情報を得ていた。すなわち、密偵だ」

「なんとね……。今、『一人』とおっしゃいましたが、他にも息子さんが?」

「うむ、ムーレグには兄がおる」

「その彼も、密偵として送り込んだんですか?」

 フソリテスは答えなかった。その代わりに、彼は逆に問いを返してきた。

「そなたたち、いったいいかなる了見で騒ぎを起こした?」

「私たちは何もしていません。有無を言わさず蛇神崇拝者ヘクロノミたちに捕まったのです」

「蛇神崇拝者……その名を軽々しく呼んでいただきたくない。あの連中は蛇神崇拝者などではない。マトスに金で買われた傭い兵たちと、偽りの言葉に惑わされた愚かしく哀しい者どもに過ぎぬ。それより、ゴルカンと言ったな、見たところ大きな怪我もないようだ。カケトカゲを一頭、与えよう。そなたの故郷に帰るがよい」

「ありがたい、と言いたいところですが、まだ私にはやることが残っています」

「マトスに何か遺恨があるようだな。マトスは我々が征伐する。そなたたちの手をわずらわすに及ばん。いや、正直に言おう。勝手に動かれては、こちらが迷惑なのだ」

「遺恨……確かに、そうかもしれません。しかし、それだけではありません。私たちが巻き込んでしまった子どもが、行方知れずなのです。トレアンダという小人族オゼットの少年です。マトスたちが、彼を〈拠代よりしろ〉にしようと企んでいる可能性があります」

 フソリテスの顔が険しくなった。

「それにもう一人、行方知れずの少年を探しています」

 フソリテスの眉がぴくりと動いた。

「ジェクという子のことかね」

「ご存じでしたか」

「ドゥイータがここへ現れたのも、その子を探すためだった。その彼女を追って、そなたたちもまたここへ導かれた、というわけか――因果とは不思議なもの」

 私は、思い切って問いを口にした。

「あなたたちこそが……ほんとうの蛇神崇拝者ヘクロノミなのですね」

 フソリテスは、片方の眉を上げ、私の顔を静かに見つめ返した。

「左様だ、お若いの」

「あなたたちのお考えがわかりません。マトスを倒してどうするおつもりなんですか? やつの後釜に座って、大蛇から〈蛟漿こうしょう〉を奪おうと?」

 私が言うや否や、フソリテスはしわがれた声で笑い出した。

「〈蛟漿〉? そんなものはありはせん。偽りの〈聖蛇師せいじゃし〉が作った戯言だ」

「しかし、大蛇は七つの心の臓を手に入れ、眠りから覚めてしまった。北の国、ブレジクにあった祠から飛び立ち、そして今、水晶山にいる」

「ほう、そんなことまでご存じか? 〈大くちなわ様〉は利用されているに過ぎぬ。畏怖すべきお方ではあるが、この地上を危機に落としかねぬ存在だ」

「では、あなたたちの真の目的は?」

「〈聖蛇師〉が二人あってはならん。偽りの〈聖蛇師〉は、成敗されねばならん」

「ということは……」

「いかにも、このわしが、真の〈聖蛇師〉を受け継ぐ者。〈黎明れいめいの闘い〉以来、その血を継いできた。我々の――いや、わしの目的はただ一つ。見守ること。それが、代々の〈聖蛇師〉に伝えられし、務め」

「ただ、見守ることだけが?」

「この地上界が、真に〈大くちなわ様〉を必要とするときまで、その眠りを見守ること。今はまだそのときではない。〈大くちなわ様〉には眠り続けていただかねばならぬ」

「しかし、大蛇は……眼を覚ましてしまった」

「そうだ。不思議でならんのだ。八年前にも起こり得なかったことが、なぜ今、起こってしまったのか……? マトスにそのような力があるはずがないのに」

「八年前のテジンの事件をご存じなんですね? あの事件のとき、私はテジンの衛士隊長でした。そして、マトスたちを追っていたのです」

「八年前――」

 フソリテスの顔が苦渋にゆがんだ。

「後悔しても、しきれぬ。あのとき、もっと早くわしがマトスの野望に気づいておれば……あんな惨劇は避けられたかもしれぬ。少女たちの命は助かったかもしれぬ。今の危機もまた、回避できたはずなのだ」

「八年前から、あなたもマトスを知っていたんですか?」

「そのずっと昔からだ。あの男がこの世に生を受けたときから」

「すると……」

 私は言葉を失った。

「マトスは……わしの弟だ」

 そう言うと、フソリテスは白い塔に向かって歩き出した。私もその後に続いた。

「〈聖蛇師〉の地位は、代々その長子ちょうしが継ぐ。先代の〈聖蛇師〉は、わしの母だった。あの塔は〈黎明れいめいの戦い〉の頃に建てられたものだ。ほぼこの地上界の中央に位置しておる。十二賢者たちによって〈大くちなわ様〉たちが北の果てのレグドランに追放された後、地上界を見守るために建てられた。が、二千年のあいだ、誰にも顧みられることもなく、我が一族のみがひっそりと塔のなかで暮らしていた。『地上界を見守る』という務めもまた、形だけのものに成り下がっていた、と言えよう。信者たちのわずかな寄進をかてに、我が一族は細々と長らえてきた。そもそも、我々自身が〈大くちなわ様〉の眠る祠の存在を知らされていなかった――この二千年のあいだ」

「しかし、マトスはすでに八年前に見つけてしまったのです」

 塔の入り口は、まったく何の装飾もほどこされていない、平らな木製の扉だった。フソリテスが片手をかざすと、その扉は開いた。

 塔内は、天井の高い聖堂に似た空間だった。飾りのない正方形の窓がうがたれ、そこから明るい外光が差し込んでいる。ひんやりとした空気が充満していた。右手から、上階へ続く螺旋階段が伸びていた。何もかもが無機的だった。

 フソリテスは続けた。

「わしとマトスは、決して親密な兄弟だったわけではなかった。十六も歳が離れていることもあろうが、わしは〈聖蛇師〉を継ぐための勤めに若い時期の大半を費やして、幼い弟とあまり遊んだという記憶がない。おそらく、ほとんど会話らしき会話もなかったであろう。父は、母がマトスを生む少し前に亡くなったが、わしはほとんど一日中、母から〈聖蛇師〉継承のための教えを受けていた。それが日常だった。わしはそれに一片の疑問も抱くことはなかった。だが、マトスはそう思いはしなかったようだ。マトスは、彼が十三歳のとき、この塔を飛び出した。わしも母も……彼を探そうとはしなかった」

 フソリテスは、螺旋階段へ歩を向けた。私も続いた。

「どうして?」

 私が問うたが、答えはなかった。ただ黙々と階段を上がり続けている。

「なぜ、マトスを探し出そうとしなかったのです?」

「そうすべき理由がなかったからだ」

「おっしゃる意味がよくわかりませんが」

「〈聖蛇師〉の家にとって、マトスという男は必要ではなかったのだ」

「それは……残酷なお答えですね」

 私は言った。フソリテスは、それ以上、何も言おうとしなかった。ただ黙ったまま、螺旋階段を上がり続けた。

 どれほど上がっただろう。私は息切れし始めていたが、フソリテスにはそんな気配は微塵も感じられなかった。おそらくは、二十階分は登ったはずだ。

 最上階とおぼしき、螺旋階段の先には一枚の扉があった。やはりほとんど装飾のない、質素で平らな木製の扉だった。

 扉には、大きなかんぬきと錠前が取り付けられていた。フソリテスは上衣の下から大きな銀色の鍵を取り出した。錠前は難なく開かれた。

 フソリテスは、扉を押し開けた。

 外光が流れ込んできた。まぶしさに、少し涙が出た。

 塔の屋上だった。純白の大理石が、隙間なく敷き詰められている。鏡のように滑らかだ。眼前に、水晶山の威容が見える。その山頂付近は、灰色の雲で覆われて隠されていた。

「わしはこの八年間、何をやってきたのであろう、と時折自問することがある。ただ塔に閉じこもり、書に埋もれ、ただこの地上界の平安を祈り続けてきただけだ」

 いつのまにかフソリテスが私の脇に立ち、私とともに水晶山を眺めていた。

「八年前にマトスを逃したのは、我々テジンの衛士隊の失敗でもあります。あの事件のすぐあと、私は衛士を辞めました」

「ほう、なぜだね?」

「おそらく……逃げたかったのでしょう。いろいろなものから。あのとき、私はあまりにも多くの過ちを犯し過ぎた。助かるはずの命をいくつも亡くしてしまった。死ぬべきでない者が死に、傷つくべきでない者が傷つき……私は生き残ってしまった」

「後悔しておるのか、今、生きておることを?」

「後悔と呼ぶべきなのかどうか、わかりません。とにかく、何も確かなことがわからないのです。いや、わかりたくなかった、と言ったほうがいい。形ある確かな答えを得ることから、逃げたかった。そういうことです。だから衛士を辞め、西の国の小さな村はずれで隠れるように生きてきました――この八年間」

「そして今、そなたは、この塔の上でわしと並んでマトスの隠れている水晶山を眺めている。それを、どう思うね?」

「わかりません。不思議なえにしだとは思います。こんな闘いに参加するはずではなかった。あのマトスと、再び剣を交えることになろうとは……皮肉な偶然です」

「偶然など、ない。森羅万象、すべては必然。そなたが今、ここにいるのは、ここにいなければならないからだ」

「運命、という意味ですか」

「何と呼ぼうが、勝手だ。人は、何かを残したまま生き続けることはできぬ。『何か』とは、人かもしれぬ。物かもしれぬ。思いかもしれぬ。何か残して生きる者は、必ず二種類に分かれる。『何か』を完全に捨て去る者。あるいは、もう一度『何か』と邂逅かいこうし、対峙たいじし、自ら決着をつける者。この世とは不思議なものでな、後者には、必ずそのときが巡って来るものだ。それが天上界の神々の思し召しなのか、邪な冥王の悪戯なのか、わからぬが」

「今が私にとっての『そのとき』だと?」

「さあ、答えを出すのは、そなた自身だ」

「はぐらかされたような気がします」

 フソリテスは皺だらけの顔で微笑んだ。しかし、すぐに真顔に戻った。

「しかし、わしにとっては、今が『そのとき』だ。今を逃せば、マトスと、そして〈大くちなわ様〉と相見える機会は二度と巡っては来ぬ」

 短い間だけだったが、静寂が屋上に満ちた。吹き抜ける風すらも弱まっていた。水晶山の山頂は、相変わらず、暗い。

「マトスは、まだ大蛇のほんとうの力を利用できずにいるようです。〈拠代よりしろ〉が見つかっていないんでしょう」

「仮に〈拠代〉たる子どもを見つけ出したとしても、あの〈大くちなわ様〉の真の名を呼ぶことができなければ、〈大くちなわ様〉は〈聖蛇師〉に従うことはない」

「真の名?」

 私は尋ねた。

「ゴルカン、〈大くちなわ様〉は何匹いらしたかご存じか?」

「いいえ」

「七十七匹だ。十二賢者たちは、彼らのうち七十六匹は北方の『悪魔の地』レグドランに追放したが、一匹だけは残された。それが、あの大蛇だ」

「なぜ、一匹だけ残されたのですか? 二千年前に十二賢者たちが、すべての大蛇をレグドランへ追いやっていたら、こんなことにはならなかった」

「彼女が……もっとも幼かったからだ」

「彼女? つまり、あの蛇は、雌――女性なのですか?」

「左様。十二賢者は、言わばヘクロン神と取引をしたのだ」

「取引? というと?」

「〈大くちなわ様〉が二度と再びこの世界に姿を見せぬよう、一匹だけをこの地にとどめ、眠っていただくことになった」

「つまり、あの大蛇は……人質なんですね。もしも再び七十六匹の大蛇たちがこの地で叛乱はんらんを起こす企てがあったとしても……我々人には、あの大蛇がいる」

「彼女は、生みの親から引き離され、呪技じゅぎによって長き眠りに就くことになった。あお御影石みかげいしほこらのなかで、たった一人……」

 次の瞬間、我々が入ってきた木製の扉が乱暴に開かれた。

 現れたのは、ムーレグだった。激しく息を切らせている。彼は、長い汚れた毛布の包みを大事そうに抱えていた。

「ああ、心の臓が破れそうだ。ずいぶんと探しましたよ」

「何用だ? 天幕の準備はできたのか?」

「いえ、まだですが、これをゴルカンに、と思って」

 ムーレグは汚い毛布の包みを私に突き出した。

 受け取った。毛布を開いた私は、息を呑んだ。

 私の剣だった。水晶山のやとい兵たちに没収され、兵舎とともに燃え尽きてしまったとばかり思っていた。

 私はさやから剣を抜きはなった。銀色の刃。傷一つついていない。傭い兵たちは、私の剣を私の体ほどには乱暴に扱わなかったらしい。

「ありがとう、ムーレグ、礼を言う」

「年季が入っているが、刃こぼれ一つない。じっと見ていると、吸い込まれそうな気分になります。よほどの巧が鍛えた剣なのでしょう」

「私はこの剣を父からもらった。父は――刀鍛冶かたなかじだった。テジンでも腕のいいほうだったらしい。しかし、多額の借金を残して、私が子どもの頃に亡くなったがね。ある夜、金貸しどもが大勢、家に現れて引っかき回し、ありとあらゆるものを持ち去って行った。そんななか、この一振りの剣だけが残された。屋根裏に隠されていたんだ……」

 ミドリネズミの駆け回る屋根裏で膝を抱え、必死に泣き声を押し殺していたときの気持ちを、いつまでたっても忘れることはできない。

 私は剣を鞘に収めた。

「こりゃあ、ずいぶんと血を吸った剣のようですね」

「わかるかね。さすが〈聖蛇師せいじゃし〉の息子だ。しかし、なぜこれが私の剣だと?」

「北の学舎まなびやの先生がそう言うので」

 ムーレグはそう答えて、今し方出てきた扉のほうへ顔を向けた。

「ワドワクスが?」

 私もそちらに眼を向けた。

 ワドワクスではなかった。

 真っ白な長衣が、風になびいている。長い栗色の髪もまた。そして、その髪と同じ色の瞳は、はるか水晶山へと向けられたままだった。

「じゃ、私はこれで。もうすぐ怪我を負った囚われ人たちが着きます。その前に天幕の準備をしなくては」

 ムーレグは父親に軽く礼をすると、そそくさと立ち去った。扉が閉じられた。その間に、彼女は黙ったまま立ち尽くしていた。

 フソリテスは、しばし私たちを見やると、ゆっくりと扉に向けて歩き出した。

「言葉は時として非力だ。有害なときすらある。しかし、不要なものではない。そなたたちには今、言葉が必要なはずだ」

 フソリテスはそう言い残すと、屋上から去った。

 私とドゥイータだけが、そこには残された。

 いったい、どんな言葉が必要だというのか。

 私はゆっくりと扉に向かって――ドゥイータのほうへ、歩み寄った。

 私はドゥイータの前で立ち止まった。彼女は、身動き一つしなかった。

「きみには礼を言わなければ」

「何がですか?」

 彼女は他人行儀だった。相変わらず、瞳は彼方の水晶山に向けられたままだ。

「二つある。きみが気づいてくれなければ、この剣は私のもとへ戻っては来なかった」

「もう一つは?」

「水晶山の麓で、命を救ってくれたことだ」

「あなただと知って救ったわけじゃありません」

「私だと知っていたら、見殺しにした?」

 彼女は、鋭い目線を私に向けた――八年ぶりに、彼女の顔を正面から見た。

 変わっていない――もう二十四歳になっているはずだが、私の眼には、泣きながら私の胸に拳をぶつけてきた少女そのものにしか見えなかった。

――ゴルカンの馬鹿! お兄ちゃんを返して!

「わたしがそんなに愚かしい者に見えますか?」

「いいや、見えない。すまない。失言だった。きみは、昔も今も、誰よりも深く思慮し、そして誰よりも早く行動する人だ」

「あなたに……今のわたしの何がわかるんです?」

 冷ややかな声だった。

「ワドワクスと一緒に、テジンからずっとここまでやってきた。きみの足取りを追うように――きみは、いつも私の遙か前を進んでいた」

「何が言いたいのかわかりません。八年前にわたしをテジンに置き去りにして逃げ出し、今更……こんな場所にこんなときに現れて……理解に苦しみます」

「そう……私は、きみと会うべきじゃなかった」

「じゃあ、なぜここにいるの?」

 彼女は、責める口調になっていた――十六歳の少女のように。

「きみと同じ理由だ。ジェクを探しに来た。それに、旅の途中で巻き込んでしまったトレアンダという少年もまた、連中に捕まったらしい。二人を、なんとしても救い出さなければならない。今度ばかりは……失敗はできない」

「それで――」

 言いかけたドゥイータが口をつぐんだ。私は、彼女が再び口を開くのを待った。

 やがて、彼女は静かにつぶやくように言った。

「それで……償いになるとでも思ってるの?」

 償い。赤褐色のゾイラ苔。横たわる屍体。見開かれた両眼――フラッカル。

――ゴルカンが……代わりに死んじゃえばよかったんだ!

 耳の奥で頭蓋に響く少女の叫び。

「何?」

 ドゥイータが驚愕の表情を見せた。私は無意識のうちに口に出していたらしい。

「私が何をしても、八年前の償いになど決してなりはしない。しかし、今ここでやめるわけにいかない。誰の命令でもない」

 ドゥイータはうつむいていた。その表情まではうかがい知ることができなかった。

「きみには悪いが、私はここを去るつもりはない。しばらく、きみと顔を合わせて不快な思いをさせることになると思うが、許してもらいたい」

 相変わらず、ドゥイータは無言だった。

「風が出てきた。私は下に降りるよ。怪我人が大勢来るんだろう。手伝ってくる」

 私は扉を押し開いた。塔のなかは先程よりも暗く感じられた。ドゥイータはついて来なかった。

 私は足早に螺旋階段を駆け下りた。


 その夜は、天幕の一つに寝台をあてがわれた。フソリテスからは、塔内の一室を勧められたが、断った。ワドワクスは、塔内にいるようだった――おそらくはドゥイータとともに。思えば、カケトカゲに乗って水晶山のふもとを脱出して以来、彼の顔を見ていない。

 夜になると、フソリテスの塔およびその周辺の状況が、だいたい把握できてきた。

 フソリテスが率いる蛇神崇拝者ヘクロノミの中核構成員――彼らは人々に〈ヘクロンの騎士〉と呼ばれていた――は、フソリテスとムーレグ、そしてまだ会ったことのないムーレグの兄を含めて、現在十五名。そのうち、五名が女だった――ドゥイータを含めて。あとから加わった者もいるが、ほとんどが、昔からフソリテス家に縁のある者たちであり、これまでずっと蛇神崇拝ヘクロノムを司るために共同生活をしていたという。もともとは三十名以上いたのだが、ここ数日の間に行なわれた水晶山への攻撃で、半分が命を落としたという。

 塔は、単なるフソリテスたちの住居ではなく、見張りの塔でもなかった。内部ほとんどすべてに夥しい数の書が詰まった巨大な図書館――地上界でも数少ない知恵の蔵だった。

 彼ら蛇神崇拝者の務めは、朝、昼、晩の礼拝。そして、その他の時間は、塔内の書によって、ヘクロン神とこの地上界の歴史について学ぶことに費やされた。

 そして同時に、剣の訓練もまた、行なわれていた。ムーレグによると、剣術の訓練が行なわれるようになったのは、ほんの数年ほど以前かららしい。マトスがテジンの都で事件を起こしてからだ。

 現在、塔の周辺で天幕を張って寝食を共にしているのは、今日になって新たに私とともに牢獄から救出された囚われ人たちをあわせて百三十人あまり。

 彼らの面倒を見ているのは、やはり一度は〈蛟漿こうしょう〉を求めて水晶山へ向かい、フソリテスらに助けられた者たちであった。出身地は北はアッギスから南はククトランまで、東はニムランドゥから西はセルシエンまで、各地に渡っていた。

 彼らを指揮する中心となっているのが、私も顔を合わせた小人族コゼットの女性、フドーニだった。彼女の片脚が不自由だった夫は、行方知れずだという。しかし、彼女はそんな我が身の不幸はかけらも見せず、気丈に切り盛りしていた。私も、かつての衛士くずれだ。応急処置程度ならば、多少の心得があった。彼らに混じり、看護の手助けをしているうちに、あっという間に陽は傾き、夜のとばりが降りた。

 その夜は、硬い寝台の上で輾転てんてん反側はんそくし、なかなか寝付くことができなかった。

 それでも夜半を過ぎ、ようやくうつらうつらし始めたとき、はっと眼が覚めた。何者かの近づく気配。無意識に剣を引き寄せた。右手でつかを握っていた。

「僕です。起きてますか?」

 ワドワクスの声だった。

「ああ、入ってくれ」

 私は答えた。枕元の蝋燭に、火口箱ほくちばこから火を付けた。

 ワドワクスが入ってきた。まっさらな白い長衣を着ていた。

「すみません。起こしてしまいましたか?」

「いや、眠れなかった」

「僕もです」

 ワドワクスは片手に陶製の瓶を持っていた。

「部屋にあったので、くすねてきました。藍火らんか酒です。こんな高価なお酒、今まで瓶を見たことさえありませんでしたよ」

 よく見ると、ワドワクスはすでに少し呑んでいるようだ。頬が赤らんでいた。

「不思議だと思いませんか? 僕たちは、ドゥイータを探してはるばるここまで旅してきた。やっと彼女に――ドゥイータに巡り会えて、心休まるはずじゃありませんか。なのに、眠りの神ピローサは、夜の神クオナースはどこに行ってしまったんです?」

「かなり酔っているようだ」

 私は彼から瓶を取り上げた。まだ瓶には三分の二ほど藍火酒が残っていた。香りから察するに、かなり上質で高価なもののはずだ。

 私は藍火酒を口に含み、舌で転がした。見事な香り。飲み込むのが惜しいほどだ。が、飲み下した。甘美な液体が熱気とともに喉を流れ下っていく。胃のに広がる。上物だ。

「ねえゴルカンさん」

 ワドワクスがじろりと私を見た。その眼が早々と据わっている。

「こんなにいい酒なのに、ずいぶんともったいない呑み方をしたみたいだな」

「そんなことは訊いてません。ゴルカンさん。どうするつもりです、これから?」

 突っかかるような問いかけだった。

「これから、とは?」

 私はもう一口藍火酒を呑んだ。

「わかってるでしょう? いつ、サンナ村に帰るんですか?」

「誰がそんなことを? 私は、残る」

「あなたの役目は終わったと思います」

「言っている意味がわからないが」

 私は瓶をワドワクスに突き出した。ワドワクスは受け取り、あおった。が、すぐに激しく咳き込んだ。呼吸を整えると、彼は言った。

「わかりませんか? 僕があなたをサンナ村から連れ出して旅に巻き込んだのは、ドゥイータを見つけるためです。そして、彼女はもう見つかりました」

「誤解しているようだ。私は私の意志でサンナ村を出て、あんたと一緒にここまで来た。今、大事なのは、ジェクとトレアンダを救うこと。そして、マトスの企みを阻止することだ。私はもうどっぷりとこの事件に関わっている。八年前には尻尾を巻いて逃げ出したが、今の私にはもう、眼をそらして逃げることは許されない」

「しかしゴルカンさん、あなたをそもそも巻き込んだのは、僕です。サンナ村を出てから今日まで助けていただいた……謝礼はお支払いします」

「謝礼?」

 思わず、強い声を発していた。ワドワクスから瓶を奪い、藍火酒を一口飲み干した。

「今の言葉はひどい侮辱だ。が、酒精があんたに心ならずも吐かせた世迷よまごととして、聞き流しておく。いいか、ワドワクス。私はあんたに雇われた覚えはない。ドゥイータの存在も関係ない。それよりも、あんたたちこそ、どうなんだ?」

「と言うと……」

 気圧けおされた表情でワドワクスが尋ねた。

「あんたはドゥイータを見つけ出すのが目的だったんだろう? その目的は果たした。二人でブレジクの学舎まなびやへ帰ればいい。子どもたちやセイロウ爺さんが待っている」

「ゴルカンさん……僕は……」

「あんたに帰ることができないなら、私にもできないんだ」

 私は藍火酒の瓶を寝台の脇に置いた。

「塔に戻って休むんだな。眠れないなら、酒じゃなく、塔内の書物を手にすればいい。あの塔は巨大な図書室なのだろう? この地上のあらゆる歴史と知恵と知識が詰まっているそうじゃないか。あんたにとって、興味深い書が数えきれないほどあると思うが」

 うなだれた様子で、ワドワクスは天幕の入り口をまくり上げて外に出た。そこで一度立ち止まると、私に背を向けたまま言った。

「ゴルカンさん……同じことを、僕は言ってしまったんですよ、ドゥイータに」

「何を?」

「二人でブレジクへ帰ろう、と」

 私は黙ったまま、瓶を取り上げた。まだ十二分に酒は残っている。一口あおった。

「そのとき僕を見返した彼女の眼……あれはまぎれもなく、さげすみの眼でした。口に出しては何も言いませんでしたが、眼は雄弁でした。僕はいつも自分のことしか考えていない。その程度の男なんです。あなたのほうが……よほど、彼女を理解している」

「今日、その逆のことを、ドゥイータ自身から言われたよ」

「彼女は……本音をなかなか口にしない人です。では、お休みなさい」

 天幕の入り口の布が下ろされ、ワドワクスが遠ざかる足音が小さくなっていった。

 私は藍火酒の瓶を見つめた。そして、残っている藍火酒をすべて一気に飲み干した。喉が焼け付く。

 そのまま寝台に仰向けになった。

 結局、朝まで寝付くことはできなかった。


「蛇神覚醒」第七話へつづく

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