第5話

11

 滑るように、白鷲ヴァムレイは夜空を切り裂いて飛んだ。羽ばたきの音はほとんど聞こえなかった。

 眼下に、真っ黒な水晶湖の水面が広がっていた。黒い鏡のようだった。前方には、水晶山の威容が黒い影となってそびえている。頬に吹き付ける夜の風。痛いほど冷たい。

 ワドワクスは、しっかりと私の腰に摑まっていた。私の上衣を握る拳は震えていた。いっぽう、私の前のトレアンダ少年は、眼下の水晶湖を見回し、歓声を上げていた。

「わあ、凄いよ! 呪技遣じゅぎつかいになったみたいだ!」

 私はそっと彼の頭の上に手を置いた。

「ヒジーは怒っているかな?」

 トレアンダ少年は、はっとした様子で私のほうを振り向いた。

「ヒジーは……ほんとに呪技遣じゅぎつかいだったんだね」

「真に偉大な人は、己が偉大であることを表には見せないものだよ」

 トレアンダは、前方彼方に見える水晶山に顔を向けた。

「姉ちゃんに話したらたまげるだろうなぁ。姉ちゃんと一緒に、乗りたかったな……」

「水晶山からの帰りに乗れるよ。今度は、お父さんやお母さんも一緒に」

 そう言ったが、口の中に苦みが残った。

「そうだね、うん。帰りはみんな一緒なんだ! 一緒に、またレースト村で暮らせるんだ!」

 私は、何も言わなかった。


 半刻も経ったであろうか。私はいつの間にか眠っていたようだった。想像したこともない遙か空の上――しかも伝説の白鷲の背の上で眠れたことが、不思議だった。

「ねえ見て、水晶山があんなに大きい!」

 トレアンダ少年が前方を指さした。

 いつの間にか、眼前の水晶山が、視界を覆うほどに近づいていた。白い雪をかぶった山頂。わずかに星の光を浴びて、その円錐型の影が闇夜に浮かび上がっている――山頂にうがたれた漆黒の穴は、かつて火を噴いていた頃の火口であろう。

 水晶山の東側のふもとに、かがり火らしき赤い光が明滅しているのが見えた。ゆっくりと動いている光の点が七つか八つ。人が持つ松明たいまつであろうか。さらに水晶山から水晶湖に添うように東へ連なるかがり火の列が見えた。その長さは、おそらく五イコル(約百五十メートル)はあるだろう。麓付近には、建物らしき影も五棟ほど見えた。

「もう着いたんですか?」

 始めて背後のワドワクスが声を漏らした。今までずっと、私の上衣にしがみついたまま、うつむいていたらしい。

「ワドワクス、あんたは水晶山へ行ったことがあるのか?」

「ええ、一昨年に一度だけ。五本角のシロカブトムシが生息しているという噂を聴いて調査に。見つかりませんでしたが。この地域は地味も悪く、いくつかの廃村がありました」

「東側から水晶山へ向かう道ができ、山麓にはいくつか建物がある。多くの人が集まっているようだ。それに、こんな刻限だというのに、人も歩いている」

 私は眼下の光景を指さした。が、ワドワクスは、そちらを見ようとしなかった。

「顔……上げられないんです。す、すみません。こんな高いところに登ったのは、はじめてで……眼がくらんでしまって……」

「私だって、トレアンダだって、はじめてだよ。いや、この百年のあいだ、この高みから水晶山を見下ろした者は、ヒジー殿の他には我々だけに違いない」

「ぼくはへっちゃらだよ。学舎まなびやの先生なのに、臆病なんだね」

 トレアンダ少年が笑った。彼の笑い声を聴くのは、はじめてだった。

「ヴァムレイ、かがり火の東の端へ向かってくれ」

 私が言うと、白鷲ヴァムレイは返事をすることもなく、進路を南東へ変えた。みるみるうちに、かがり火の連なりが近づいてくる。

「ヴァムレイ、あのかがり火の道からはずれた、闇の北側に降りてくれるか?」

 やはり、白鷲ヴァムレイは返事をしなかった。しかし、私の言葉は充分伝わっていた。

 かがり火がまたたく地から、さらに北へ十イコル(約三百メートル)ほどの辺りは、ごつごつとした大小の岩が転がる荒れ地だった。ヴァムレイは、巨岩の一つの上に近づいた。

 着地の衝撃は、まったく感じなかった。まるで野の花に留まる蝶のように、音もなく、白鷲ヴァムレイの両脚は巨岩を摑んだ。静かに翼を閉じる。

 真っ先にヴァムレイの背中から降り立ったのはトレアンダだった。小さな体で鞠のように跳ね、器用に岩の上に降りた。私も続いた。いちばん心許こころもとなかったのが、ワドワクスだった。足元を確かめながら、おそるおそる白鷲ヴァムレイの背中から地に降りた。

 その様子を見届けると、白鷲ヴァムレイは羽ばたきを始めた。翼の巻き起こす風が、私たちの間を吹き抜けた。

「ヴァムレイよ、感謝する。ヒジー殿にも私たちの感謝を伝えてくれ」

 ヴァムレイは喉を鳴らすような声を出した。

 そして伝説の白鷲は、現れたときと同様、静かに、そして我々に見送る暇も与えぬうちに、漆黒の空に一気に飛び去って姿を消した。

 ワドワクスが、呆然とした顔つきで空を見上げていた。

「まだ……信じられません。あんな……巨大な鳥が存在していたなんて……」

 にやりと微笑んで、トレアンダが言った。

「それだけじゃないよ。その背中に乗って、水晶湖を渡ったんだ!」

「あの暖かい羽毛の感触が、まだ残ってる……ああ、夢を見ているようだ」

「では、そろそろ現実に戻るときだ」

 私は言った。胸をかれたように、ワドワクスが私を見返した。

「そうですね。水晶山へ行かなければ」

「父ちゃんと母ちゃんと姉ちゃんを、助けるんだ」

 トレアンダが、遠くに見える水晶山の影に向かって言った。

 私たちは、歩き出した。むき出しの岩が転がる荒れ地はひどく歩きにくかった。周囲に植物の生えている様子はない。ワドワクスはまだ飛行の余韻が残っているらしく、何度もつまずいて転びそうになり、その都度、トレアンダに支えられていた。

 やがて、闇の中にかがり火の列が見えた。道のようだ。幅およそ四十エーム(約十二メートル)。その両側に、かがり火が規則的に並んでいる。その間隔は、およそ三エームほど(約十メートル)くらいだろうか。人の姿はない。ただ静寂だけが、その場を覆い尽くしていた。虫の鳴き声すら聞こえない。

 私たちは黙ったまま、かがり火が並んだ道に入った。最近作られたものだろうか。道を削るときに出たとおぼしき土の塊が、かがり火の外側に、何ヶ所か小山となっている。荒れ地には、他にも何か焦げたような塊の影が、あちらこちらに怪しげな姿をさらしている。

 私たちが歩き始めてほどなくして、トレアンダ少年が甲高い声を上げた。

「ねえあそこ! 誰か倒れてる!」

 そう言い終えないうちに、少年は走り出していた。私たちも追った。

 道から外れた土の上に、大人の男がうつ伏せに倒れていることがわかった。

「おじさん、大丈夫……」

 倒れている男に手をかけたトレアンダ少年が凍り付いた。私は少年の肩を摑んで男の体から離した。ワドワクスもすぐに察したのだろう。彼は少年をぐいと抱き寄せた。

「あああ……あ、あ、あの顔……」

 少年はがたがたと震え出していた。

 近づく前に、男がとうに息絶えていることはわかっていた。すでに腐敗が始まっている。かがり火にちらちらと照らされたやせこけた顔。歳は六十に手が届くくらいであろうか。屍体となって面変わりしているので、本当はもっと若かったのかも知れない。画面の中央にうがたれた、空虚な二つの眼窩――その内部でうごめく無数の赤蛆虫うじむし

「十日はたっている。この装束から見て、東の国の者だろう」

 私は言った。

蛇神崇拝者ヘクロノミでしょうか?」

 ワドワクスは、少年を抱きしめたまま訊いた。

「装束だけではわからないな」

「水晶山へ向かう途中で、力尽きて息絶えた……?」

 ワドワクスの問いに、私はかぶりを振った。私は腐臭に耐えながら、屍体を改めた。

「これは刀傷だ。背中から突かれている。右肩胛骨けんこうこつの下から刺され、左胸に貫通している」

「つまり……殺された、と?」

 屍体のふところに、革袋を見つけた。開くと、数枚の金貨と銅貨が入っている。東方のニムランドゥ公国で使われているものだった。追い剥ぎの仕業ではない。

「ゴルカンさん、脚を……」

 ワドワクスが屍体に歩み寄ってきた。

「この人の右膝、曲がっていますね。ミリド病かもしれません。人に伝染はしませんが、北東の果ての赤東しゃくとう山地のミリド銅山から流れ出た悪い水を飲んで流行した病と言われてます。これはかなりひどい。おそらく、歩くのも一苦労だったことでしょう」

「こっちにも、人がいるよっ……! ああっ、ここにも……!」

 いつの間に私たちから離れたのか、かがり火の明るみの外からトレアンダの悲鳴に近い叫び声が響いてきた。

 私とワドワクスは、トレアンダの声がしたほうへ駆け寄った。

 トレアンダ少年は闇に覆われた荒れ地に立ち尽くし、泣きべそをかいていた。

 むき出しの大小の巨岩のあいだのそこここに、焦げた布きれの塊、そして屍体が転がっているのが暗闇の中、かろうじて見えた。少なくとも両手で数えきれる人数ではない。

 ワドワクスが、あえぎながら言った。

「なんてひどい。いったい誰がこんなことを……」

 私は、近くの屍体から改め始めた。その着衣によると、屍体は様々な地域から来た者たちであった。東方人もいれば、南方人もいる。見慣れぬ装束をまとった者もいた。男も女も若者も老人も大人族コディーク小人族オゼットもいる。

 共通しているのは、みな剣で殺されているということだ。 天幕のあととおぼしき汚れた布が巨岩に引っかかっているのを見つけた。焦げ跡。焼かれたのであろう。見回すと、他にもあちらこちらに天幕を張られた痕跡が残っている。

 ワドワクスは、そでで屍臭を必死に押さえながらも、屍体を見て回っていた。

「あちらの女性二人も、ミリド病のようです。そちらの老人は、おそらく白内障で、ほとんど盲いていたでしょう。ひどい、これはひどすぎます……」

 ワドワクスも、トレアンダと同様に涙ぐんでいるようだった。

「彼らは寄り添って天幕で暮らしていたのだろう。そこを、何者かが襲った」

「誰がこんな非道な真似を? 仲間割れでもをしたんでしょうか?」

「彼らは、救いを求めて水晶山へ旅してきた人たちだ。水晶山に大蛇が召喚されるという噂は、世界中に広まっているようだ。体に傷や病を得た人たちが、藁にもすがる思いで、長い旅路の末に水晶山に着いた。そんな彼らが、なぜここで殺し合わなければならない?」

「じゃ、やっぱり誰かに殺されたんだ!」

 トレアンダの声は憤りに震えていた。

蛇神崇拝者ヘクロノミ……いや、その呼び方は正しくない」

「じゃ、誰なんです?」

 ワドワクスが身を乗り出す。

「マトスの一派だ」

 確信していた。水晶山には、マトスがいる。そして間違いなく、彼に忠誠を誓う狂信者集団がいる――ちょうど八年前のテジンのように。

「マトスたちにとって、体が不自由だったり、病を持っていたりする者は、邪魔でけがれた者でしかない。そういう集団だ。やつらに人を救う心など、あろうはずがない」

「許せない! そんな者が宗教者を騙るなんて、絶対に許せません!」

 私がサンナ村のはずれで隠遁している間にも、連中は密かに力を蓄えていたのだ。

 顔を上げた――水晶山の影。その麓で揺れ動く光の群れ。

 歩き始めた。自然に歩が速まった。後からワドワクスとトレアンダが追ってくる足音が聞こえた。振り返らなかった。


 道端のかがり火の間隔が短くなっていた。前方に、ぼんやりと紅い光の塊が見える。ヴァムレイの背中から見えた建物が近づいているようだ。

 動いている光点――松明を持った人だ。

 私は歩みを止め、道からそれて闇の中の荒れ地へと移動した。

「どこへ行くんです?」

 問いかけたワドワクスを、私は手で制した。

 私たちは道の外側の荒れ地を進んだ。光の塊が近づいてくる。かなり大きなかがり火が焚かれているようだった。さらに、建物の影もはっきりと見て取れるようになっていた。

 建物まで約七、八十エーム(約二十メートル強)に近づいたところで、私は止まった。岩だらけの地面にかがみ込んだ。二人も私にならった。

 粗末なあばら屋のような建物が、道を挟むようにして北側に二棟、南側に一棟建っている。おそらくは急造されたものだろう。北側の二棟を取り囲むようにして、木製の高い柵が張り巡らされていた――その上部は鋭く尖っている。外部から建物に人が入らぬためでなく、内部から逃げ出さないためだ。

 松明を掲げた人影が見える範囲に五つ、柵の周囲を行き来している。

「何でしょう、あれは」

 ワドワクスが声を押し殺して言った。トレアンダも、小声で続けた。

「なんだか、やな感じだ。まるで牢屋みたい」

「それは、当たっているかも知れない」

 私は剣を抜いた。抜き身――鈍く光る。

「ゴルカンさん……」

 ワドワクスが眼を見張った。

「これからは、こいつが必要になる。あんたも、覚悟をしておいてくれ」

 ワドワクスがぎょっとした表情になった。そんな彼の前で、トレアンダ少年もまた、彼の体には不釣り合いに長い剣を抜いた。

 私はトレアンダの肩に手を置いた。トレアンダ少年は、こわばった笑みを私に向けた。

「駄目ですよ、こんな子どもを巻き込んでしまっては」

 ワドワクスが抗弁した。

「もうすでに巻き込まれている」

「しかしゴルカンさん……」

 さらに続けようとするワドワクスを遮ったのは、当のトレアンダだった。

「ぼくが、行くって決めたんだ。ゴルカンさんに命令されたわけじゃないよ。ぼくがみんなを助けるんだ。先生こそ、ここで待ってて。もし、全員がやつらに捕まっちゃったら、元も子もないでしょ? ぼくたちがもしも帰ってこなかったら、先生が代わりに――」

 ワドワクスは、やや震えた声で答えた。

「なんて子だ、きみは。先生にも、やらなきゃいけないことがある。大切な人を助けると自分自身に決めたんだよ。自分との約束を破ることほど、卑怯なことはない」

「そうだね、先生が嘘ついちゃいけないよ」

 トレアンダが緊張を解いた微笑みを見せた。ワドワクスも笑顔を返した。

 私は歩き出した。二人は黙ったまま、後についてきた。

 かがり火を浴び、私の剣が赤い光を放った。

 男が一人、近づいてきた。私たちには気づいていない。私はワドワクスとトレアンダに待つよう合図した。男は東方の装束を身につけ、髪を辮髪べんぱつにしている。

 そっと男の背後に回った。

 左手で男の顔を覆った。かがり火の陰へ引きずった。

「マトスはどこだ?」

 私は剣を男の喉元に突きつけ、押し殺した声で訊いた。

「き、貴様たち、またしても……?」

 男の双眸そうぼうが恐怖に見開かれていた。

「訊かれたことだけを答えろ。マトスはどこにいる? 大蛇は水晶山に着いたのか?」

「冥府でヘクロン神に舌を抜かれるがいい!」

 辮髪べんぱつの男は歯がみした。

「『またしても』と言ったな。どういう意味だ? 他にもおまえたちを襲う者が――」

 背後に気配――

 振り返った。かがり火を反射した刃。二人目の男が、細身の剣を振りかぶっていた。この男もまた東方人のように見えた。

 振り向きざま、相手の剣をぎ払った。火花が散った。次の瞬間、胸を深々と突いた。男はうめいて地面に突っ伏した。向き直る――辮髪の男。すでに抜刀している。突進してきた。やりすごす。前のめりになった男の腕。剣を振り下ろした。男の手首をかすめた。血しぶきが激しく噴き出した。その血を見て、辮髪の男自身が驚愕の表情を浮かべた。

 私は辮髪を摑んだ。ぐい、と引き寄せる。喉元に血に濡れた刃を当てた。

「早く手当しないと、おまえは血を失って悶え苦しみながら死ぬ。答えろ。マトスはどこだ? 大蛇とともにいるのか?」

「〈聖蛇師せいじゃし〉様は……」

「〈聖蛇師〉様? マトスはそう呼ばれているのか?」

 そのときだった。

「ゴルカンさん!」

 トレアンダ少年の悲鳴が聞こえた。振り返ると、かがり火の明滅する下で、五つか六つの人影がもみ合っている。そのうちの一つはトレアンダ、一つはワドワクスに他に違いないだろう。さらに、南側の建物から、数名が飛び出してくる気配があった。おそらく、南側に建っているのは兵舎なのだ。

 彼らに気を取られた隙に、辮髪べんぱつの男が私に体当たりしてきた。私はもんどり打って倒れた。が、すぐに剣を突き出した。切っ先が男の下腹部を貫いた。私の顔面に生暖かく、生臭い返り血が降りかかってきた。立ち上がり、さらに男の胴を薙いだ。

 トレアンダは、自分の体には不釣り合いな長い剣を振りかぶり、人影たちへの威嚇を試みている様子だった。が、人影の一つがたやすくその剣を振り払い、トレアンダの首根っこを摑んで引きずるのが見えた。

 顔を拭うこともせず、私は剣を構えて走った。

 一人を背後から斬り伏せた。

 暗がりの中で、男の悲鳴が聞こえた――ワドワクス。彼は丸腰だ。

 駆け出そうとしたときだった。鋭く甲高い音が間近で響き渡った。呼び子だ。ワドワクスとトレアンダを襲った男たちが吹き鳴らした警報の笛に違いない。

 地鳴りのような振動を、両足の裏に感じた。かなりの人数の足音だ。少なくとも、両手の指では数えられまい。足音は、南側の建物だけでなく、水晶山のほうから響いてきた。今の呼び子で、討手が差し向けられたのだろう。

 わずかに周囲を照らしていたかがり火が、唐突に消された。いつの間にか私の周囲を、数十名の人影が取り囲んでいた。装束はまちまちで、様々な地から集まった者どものようだった。彼らは剣を抜き、今にも飛びかからんと、私を凝視していた。装束は異なっても、彼らはひじょうに訓練された軍隊であることがわかった。蛇神崇拝者ヘクロノミたちを――マトスを守るために傭われた私兵たちだ。

 私に選択の余地はないようだった。

「剣を捨てろ」

 私兵たちのなかでも、もっとも長身の南方の装束をまとった剣士が前へ出た。寄せ集めのやとい兵たちの隊長格なのであろう。赤と黄の格子柄こうしがらの長衣がひときわ目立った。

 私は剣を鞘に収めた。ゆっくりと地面に剣を置いた。

 隊長格の男が眼で合図すると、六人もの私兵が駆け寄り、私を押さえ込んだ。私はあらがわなかった。後ろ手で、革の手枷てかせを掛けられた。私の剣は一人の私兵に取り上げられた。

 私は六人の雇い兵どもに囲まれた。目的地は、木製の粗末な小屋だった。


12

 やとい兵たちに連れ込まれたのは、一辺が四十エーム(十数メートル)ほどの、ほぼ正方形をした牢獄だった。ざっと見たところ二十名あまりの人影がほとんど隙間なく押し込められている。

 入った瞬間、排泄物と汗と腐乱屍体の臭いが入り混じった臭気が私の鼻孔を突いた。

 傭い兵の一人が私の手枷をはずすと、牢獄内に突き飛ばした。私は収容者の上に覆い被さるように転がった。相手は無反応だった。床には何も敷き詰められておらず、むき出しの土のままだった。

「ゴルカンさん!」

 呼び声――振り返ると、人混みをかき分けてワドワクスが歩み寄ってくるのが見えた。泣きそうな顔つきをしている。

「トレアンダは?」

「僕とはべつに、兵士たちに連れて行かれました。あの連中は、子どもを狙ってます」

「怪我はないか?」

「頭を殴られましたが、平気です。コブができただけです」

 私は改めて牢獄内を見回した。

 囚われている者たちは、誰もが無言だった。私が連れ込まれたことすら気づいていないのかも知れない。みな一様にうつむき、中にはすでに死んでいる者もいるに違いない。

 牢は鉄ではなく、木でできていた。粗末な作りだ。体当たりをすれば破れそうに見えた。すぐ外に、槍を持った傭い兵が一人、立っている。

「ゴルカンさんは怪我をしていませんか?」

 ワドワクスが小声で訊いた。私は床――地面のわずかな隙間に腰を下ろした。

 先日の〈蒼蛇あおへび亭〉での立ち回りでの傷が疼いた。見てみると、化膿はしていない。

 異様な静寂が牢獄内に充満していた。息が詰まりそうだ。

 私は、もっとも近くにいる人影ににじり寄った。男は、かなり年老いていた。骨張った両手で膝を抱えてしゃがみこんでいる。ぼろぼろにほころびた上衣は、私が暮らしたサンナ村辺りでもよく着られている装束だった。西方から来たのだろう。

「あなたも大蛇の唾液を求めて、ここまで来たんですか?」

 私は尋ねた。が、老人は無言だった。

 そのとき、奥の暗がりから声が聞こえた。

「無駄だよ。その爺さんはつんぼだ」

 答えたのは、私とさして変わらぬ歳の男だった。男は、地面をゆっくりと這うようにして、いざり寄ってきた。男には片脚がなかった。

「あんたたち、見たところ二人とも五体満足じゃねえか。なんでまたここへ?」

「あんたも蛇神の御利益ごりやくを求めてここへ?」

 男は声をひそめた。

「いつもより早いんで驚いたよ。予定を間違えやがったかと思った……」

「何の話だ? 私たち以外に、誰かがここに来るのはずだったのか?」

 男は、突然ばつが悪そうな面持ちになった。

「いや、いつももっとやかましいから、何かあったのか、って思っただけさ」

 男は、私の問いをはぐらかすようにあらぬ方向を向いていた。

「なぜこんな牢獄がある? 蛇神は信ずる民すべてを救ってくれるんじゃないのか?」

「そうさ、だから、こうして待ってるんじゃないか」

「待つ? こんな牢屋の中で?」

 ワドワクスが怪訝けげんそうな声を出した。

「しかたねえだろ。じゃあ、他にどうすりゃいいんだ」

 男は投げりな言い方になった。男の態度には、どこか違和感を覚えた。

「なぜ、ここに入れられたんですか?」

 ワドワクスが問うと、男はかすれた声で笑った。

「見りゃわかるだろ、あんた。この部屋にいる五体満足なやつはあんたらだけだぜ。〈聖蛇師せいじゃし〉様は、俺たちを後回し、ってわけさ。順番が来るまで待つしかねえだろう」

「水晶山へ続く道が作られていた。そこで私たちは見たんだ――数えきれぬ遺体を」

 私の後を引き取って、ワドワクスが言った。

「みな、病者であったり、もっとも蛇神の救いを欲しているはずの人たちでした。そんな人たちが、なぜ殺されなければならないんです? あなただって、こんな牢屋に閉じ込められるのはおかしいじゃありませんか? 蛇神の救いなんて嘘っぱちだ。救いを求める人を殺す神がどこにいるんです!」

「信じるっきゃねえだろ! 俺はな、この体で南の国のムドーからはるばる来たんだ。今さら帰れるかってんだ」

 男の態度が頑なになった――しかし、私の胸裡きょうりに浮かんだ違和感は消えなかった。

「じゃあ訊きます。今まであなたの言う順番が来た人がこの牢屋にいましたか? 大蛇の唾液をもらって、病や傷を癒されて故郷へ帰った人が一人でもいましたか?」

「うるせえ! あんたらに何がわかる? えっ? 脚のない人の気持ちがわかるのか? めしいた者の気持ちがわかるのか? つんぼの気持ちがわかるのか? ガキのときから厄介者扱いされ、役立たずと言われ続けた人の気持ちが、かけらでもわかるってのか?」

「思いを馳せることは……できます」

「はっ、冗談じゃねえ。いいかい、あんた。俺はご覧の通り、脚がねえ。ガキんとき、蟲車にかれたんだ。だから、同じように脚のないやつの気持ちはわかる。けどな、腕のない人の気持ちはわからねえ。めくらの気持ちもわからねえ。つんぼの気持ちもわからねえ。口が裂けても『わかる』なんて言えねえ……」

 男の口調は、だんだんと哀しみを増していった。

「……す、すみません……」

 ワドワクスが頭を下げた。男は顔を背け、地面に向かって唾を吐いた。

 私は話題を変えることにした。

「水晶山の中はどうなっているんだ? もう大蛇は活動を開始しているんだろうか」

「知らねえよ。ただ、噂だが……連中は、何とかいうガキを探してるって話だ。大蛇の言葉を通訳できるガキだそうだ。そいつが見つからない限り、〈蛟漿こうしょう〉もお預けだよ」

「子どもとは〈拠代よりしろ〉のことですね。じゃあ、まだ連中は見つけていないことになる……。ジェクは〈拠代〉になれなかったんでしょうか? トレアンダは? 彼は、他の牢獄に囚われているんでしょうか? それとも……」

「わからない。とにかく、早く水晶山へ入らなければ」

「はっ、順番はまだまだ先だぜ、お二人さんよ。それにあんたら、〈聖蛇師せいじゃし〉様に刃を向けたんだろ。今夜中にも両腕両脚を切り落とされて火あぶりだぜ」

 男がまたかすれた声で笑った。

「他にも捕まったものがいるのか?」

「〈蛟漿こうしょう〉を独り占めしようって腹だろ。夕べも三人捕まって、焼き殺された。その前の日は、二人だ。俺なんか、このクソ溜めで、もうひと月も待ってるってのに」

 再び、男は地面に唾を吐いた。

 そのときだった。傭い兵が三人現れ、格子の錠前を開けた。その後ろから入ってきたのは、雇い兵の隊長だった。背後に、さらに五名の部下らしき男たちを引き連れている。

「貴様と貴様だ、来い」

 五人の兵たちが駆け寄って来た。彼らは、私とワドワクスの体を押さえつけ、牢獄から引きずり出した。

「無罪放免かね?」

 私は言ったが、返事はなかった。ワドワクスは必死に身悶えし、男の蹴りを腹に受ける羽目になっていた。

 私たちは、外部へと通ずる廊下を歩かされた。

「私たちと一緒に捕まった小人族の少年はどうした?」

 やはり、返事はない。

「私たちをどこへ連れて行くつもりだ?」

「貴様に質問は許可されていない」

 隊長格の男が、憮然とした声で言った。

 私たちは牢獄の建物を出て、かがり火の道の真ん中へ連れ出された。そこからさらに、道の西方――水晶山へ向かって連行された。

 いつしか、背後の東の空が白々と明けかけていた。

 二イコル(約六十メートル)ほども進まないうちに、私たちは止められた。そこは、道幅がやや広くなっており、楕円形の広場になっていた。かがり火の数も多く、周囲よりも明るく照らされていた。道はさらに先へと続き、一直線に水晶山の岸壁に向かって延びていた。水晶山の岸壁には、巨大な岩でできた扉のようなものがぼんやりと見えた――これが、水晶山内部への入り口なのかも知れない。見上げれば、はるか上方に雪を冠した山頂が青白く輝いている。

「ほんとうだったんですね、水晶山の伝説は。この内部に――」

 ワドワクスがささやいた。

「黙れ」

 私兵の隊長が低い声で言った。

 いつの間にか、水晶山へと続く道に三つの影があった。一人は紫色の長衣を頭から身にまとっている。首に銀色の装飾品を掛けているのが見えた。蛇の姿をかたどっている。その後ろに控える二つの影は、漆黒の鋼の鎧と兜に身を包んだ兵士だった。長い槍を片手に構え、腰には剣を帯びている。寄せ集めの傭い兵たちとは、明らかに違う。

 紫色の長衣の男が、ゆっくりと歩み出てきた。

 私たちを押さえつけていた傭い兵たちが、手を離した。

 私は長衣の男をじっと見つめた。頭部を覆う布のため、男の表情は窺えなかった。

 誰も、身じろぎ一つしなかった。

 私は周りを見回した。傭い兵たちの顔も緊張でこわばっているのが見て取れる。

「――何が、可笑しい?」

 長衣の男がはじめて口を開いた。低く響く声。

 どうやら我知らず、私は笑みを浮かべていたらしい。

「実に可笑しいね。貴様のような輩が、〈聖蛇師〉とやらを名乗っていることが」

 長衣の男は無言のまま、首をかしげるような仕草をした。

「大蛇の唾液とやらはもう手に入ったのか、マトス?」

 ワドワクスがはっとした顔で私を見つめた。私は続けた。

「まだだろうな。賢き蛇神の使徒たる大蛇が、貴様に何ものをも与えるはずがない。なぜなら、貴様にはその資格がないからだ。たとえ大蛇がよみがえろうと、貴様は何も得られない。貴様は〈聖蛇師〉をかたる詐欺師、そして邪悪な殺人狂だからだ」

 耳が痛いほどの沈黙が落ちた。

 私とマトスはしばし、にらみ合った。

「言いたいことは、それだけか……ゴルカン衛士隊長殿」

 そう言ってマトスは頭巾を脱いだ。

 その下に現れた顔は、八年前とほとんど変わっていなかった。いや、むしろその当時よりも若返ってさえいるように見えた。

「私はもう衛士隊長じゃない。が、貴様は八年前と変わらず、人喰い鬼にも劣る畜生だ」

 マトスは私を一瞥し、片方の眉を上げた。そして、軽く手で合図を送った。

 背後から羽交い締めにされた。次の瞬間、後ろ手に手枷てかせをはめられていた。木製の頑丈な手枷だ。ワドワクスもまた、同じ手枷を後ろ手に架けられ、取り押さえられている。

 いつの間にか、我々のいる円形の広場を数多くの者たちが取り囲んでいるのに気づいた。

 彼らは音もなく、いずこからともなく、周囲からわらわらとフウセンアリのように姿を現した。男も女も、老人もいれば、子どももいた。大蛇の御利益ごりやくを求めて集まった者たちであろう。その数、百は下らない。人びとは声もなく、円形の広場を取り囲み、私たちを凝視していた――嫌悪と恐怖と好奇と卑屈さの入り交じった表情で。

 マトスが、広場を取り巻く者たちへ呼ばわった。

「見るがよい。またここに蛇神ヘクロンを畏れぬ不敬の者が現れた。懲りることを知らぬ愚者を、〈大くちなわ様〉に近づけることはならぬ。心ならずも、また今宵こよい、愚者をめっする儀を行なわねばならぬ!」

 私とワドワクスは、六人の私兵によって囲まれ、広場の中央に引きずり出された。

「ゴルカンさん……」

 ワドワクスが不安げにささやいた。私は黙ったままだった。

 傭い兵の隊長が、剣を抜いて私の前に歩み寄り、合図をした。まず、ワドワクスが引きずり出された。

 我々を取り囲む者たちのあいだから、地響きのような、うなり声が響き始めた。何と言っているのか聞き取れなかった。が、それが呪われた言葉であろうことは推測できた。

 ワドワクスが、広場の中央に引き倒された。彼は無様にうつ伏せに倒れ込んだ。顔を上げる。私に救いを求めるような表情だった。しかし、私にできることは何もなかった。

 次の瞬間――ワドワクスの目つきが変わった。

 彼は大声を張り上げた。

「眼を覚ませ! 病を得た者を、傷ついた者を、無惨に殺す神があるだろうか? みんな知っているだろう? 病者たちが無惨に殺され、そのかばねが累々と横たわっていることを。牢獄に閉じこめられ、殺されるのを待つ人々がいることを。それでいいのか? あなたたちにも家族はいるだろう。愛する人はいるだろう。そんな人々を捨て、苦しめてまで、『不老不死』が欲しいのか? 僕は今、この場で殺されるだろう。しかし、あんたたちの耳には、僕の最期の声を刻みつけてやる! あんたたちの眼には、僕が殺される場面を、とことわに焼き付けてやる! 万が一〈蛟漿こうしょう〉を得ても、その後の永遠の生は、冥府めいふ業火ごうかに焼かれるよりも苦しく恐ろしいものになるだろう! 得るものより失ったものの重さに、心を八つ裂きにされるだろう! それは、むくいだ。それを覚悟の上、今から起こることをしっかりと見るんだ!」

 次の瞬間、兵士の一人が槍の柄尻でワドワクスの鳩尾みぞおちを付いた。ワドワクスは「がっ」とうめいて地面にうずくまった。

 そのワドワクスに向かって、傭い兵の隊長が剣を振り上げた。

 ワドワクスが私を見上げた。彼は静かな笑みを浮かべていた。

「ちょっと、格好つけ過ぎましたね。僕らしくない」

 ワドワクスは自嘲するように言い、覚悟するかのように眼を閉じた。

 もはや誰も、しわぶき一つ立てなかった。

 次の刹那だった。腹に底に響く音。曙の空気を切り裂いた――重く低い角笛の響きだ。

 その場にいる誰もが体を硬直させた。

 南の方角から騒がしい物音が耳に届いた。多くの足音だろうか。続いて、金属的な音。傭い兵たちが、顔を見合わせた。徐々にこちらに近づいている――剣戟けんげきの音。

 出し抜けに私たちの眼に、彼らの姿が飛び込んできた。

 純白の長衣をまとい、同じく純白のカケトカゲにまたがった十人ほどの剣士の姿だった。異様なのは、そのいずれもが白い仮面を着けていることだ。ほぼ逆三角形のその仮面は、両眼の部分に細い切れ込みが切り開かれている。口の部分からは、紅く塗られた舌が飛び出した意匠が施されている――白蛇の面。一見、拙い彫刻だが、年季が入っている。

 白蛇面の集団は、傭い兵たちを剣でぎ払い、突進してきた。手練れている。

 広場を取り囲んでいた人びとは、蜂の子を散らすように逃げ始めていた。

「マトス!」

 私は怒鳴った。しかしマトスとその護衛の兵士たちは、すでに水晶山へ退き始めていた。

 白蛇面の一人が純白の長衣をひるがえし、カケトカゲからひらりと降り立った。と同時に、腰から剣を抜く――滑らかな動きで、素早く私の背後に回った。

 私の背中を、一筋の汗がしたたり落ちた。覚悟をした。

 次の瞬間、私の手枷が両断され、いましめが解かれた。

 ワドワクスのそばにも一人の白蛇面が近寄り、手枷を外していた。

 白蛇面の剣士は、私の前に戻り、低い声で言った。

「怪我はない?」

 女の声だった。

 答える間はなかった。次の瞬間、女剣士の背後に殺気を感じた。

 マトスの傭い兵――剣を上段に振りかぶって突っ込んでくる。隙だらけの構え。

 反射的に白蛇面の女から剣をもぎ取った。女を突き飛ばす。剣を下段から一気に斬り上げた。傭い兵は胸から激しく鮮血を噴き出し、一瞬後に地面にくずおれた。

「ゴルカンさん! 無事ですか?」

 ワドワクスが駆け寄ってきた。

「大丈夫だ――」

 言いかけたとき、もう一つの殺気。巨漢だった――ワドワクスの背後。私より頭三つ分は背丈が高い。見たことのないほど巨大な戦斧せんぷを上段に構えている。ワドワクスの前に、白蛇の面の女が立ちはだかった――丸腰のはずだ。彼女の剣は私が持っている。

 巨漢の傭い兵が戦斧を振るった。面の女は、ワドワクスを突き飛ばし、一撃はかわした。が、巨漢の第二撃。女が吹っ飛ばされた。面が真っ二つに割れた。地面に転がった。女はうつ伏せに倒れた。頭巾の隙間から、栗色の長い髪が流れるようにこぼれ出た。

 巨漢が下品な笑みを浮かべつつ女に近づいた。ワドワクスが素手のまま、巨漢の背中に飛びついた。背後から、指で巨漢の両眼を突く――巨漢が両手で顔を押さえ、獣のような咆哮を上げた。

 私は跳躍し、一気に剣を振り下ろした。巨漢の両腕が戦斧を握ったまま地面に落ちた。巨漢の狼狽した顔。ほとばしる血潮。私は剣で巨漢の胴を突いた。巨体が倒れ込んだ。地響きのような音。

 ふもと近くの建物のほうから、煙が上がっているのが見えた。どこかで火が放たれたのだ。

「ええい、退け! 退くのだ!」

 私兵の声が聞こえた。が、すでに戦意を喪失し、混乱している傭い兵たちは、その声よりも前に、水晶山へ向かって遁走を始めていた。

 面を着けていた女が、よろめきながら立ち上がろうとしていた。

 私は彼女に手をさしのべた。が、彼女は私の手を振り払った。その顔を上げた。

 栗色の髪は、わずかに波打って腰の辺りまで垂れている。そして髪とほぼ同じ色の瞳。細い眉。ややとがった顎。額には、戦斧の一撃で付けられたらしい傷。血がにじんでいる。

 女、私、ワドワクス三人のあいだで、ときが止まった。

 最初に動いたのは、彼女だった。彼女は私から剣をもぎ取った。一振りして血脂ちあぶらを払うと、すばやくさやに収めた。

「すまん……」

 ようやく私の口を衝いて出てきたのは、その一言だった。彼女からの返答はなかった。

「きみの剣を汚してしまった」

 私は、ドゥイータに向かって言った――八年前には十六歳の少女だった剣士へ。

 ドゥイータはうつむいたままだった。私のほうへ視線を向けようとはしなかった。

「ドゥイータ……!」

 ようやくワドワクスが口を開いた。が、それ以上の言葉が出てこなかった。ドゥイータがワドワクスを見つめた。

「ワドワクス……どうしてこんなところに……?」

 ドゥイータが、あえぐようにして言った。

 少女は、大人の女になっていた。しかし、変わらぬ声だった――八年前と。

「決まっているだろう。きみを探しに来たんだ。やっと……やっと会えた……」

 ワドワクスが感極まった声で言った。

「ワドワクス……あなたは、なんて人。こんな恐ろしい場所まで……」

「きみのためだ。当然じゃないか」

 二人がほぼ同時に駆け寄った。そして、二人はしっかりと力強く抱擁を交わした。

 私は二人に背を向けた。

 煙の上がる兵舎のほうを見やった。火災は激しくなっているらしい。明け方の空に向かって、ちらちらと火の粉が舞い上がっていた。

 カケトカゲに乗った白蛇面の剣士が、手綱を巧みにさばいて私のほうへ近づいてきた。

「乗りたまえ、お若いの」

 年老いた声だった。が、有無を言わさぬ威厳が、その声には込められていた。

 私はあぶみを使わずに純白のカケトカゲに跳び乗り、男の後ろにまたがった。

「わしはフソリテス。そなた、北方の御仁ごじんとお見受けするが」

「私はゴルカンと申します。ご推察の通り、北方の生まれですが、西の国から来ました」

「そなた、いったい何用あって、水晶山へ?」

「話せば長くなります」

 ふと見ると、ワドワクスとドゥイータもまた、一頭のカケトカゲに乗るところだった。

「塔へ戻るぞ!」

 フソリテスが怒鳴った。

 私たちを乗せたカケトカゲを先頭に、白蛇面の一団も兵舎のほうへ駆け出した。

 ほどなくして、兵舎が焼け落ちてゆく様子が見えた。数十名の傭い兵たちが恐慌を来たし、散り散りになってあらぬ方向へ駆け回っている。

 牢獄は解放されていた。一人の男が、松明を掲げた白蛇面たちに大声で指示をしている。細長い毛布の包みを大事そうに抱えていた。収容者たちはすでに解き放たれ、牢獄はほぼ空のようだった。

 男はこちらに気づいて振り返った。

「首尾は?」

「駄目だ。またしても彼奴きゃつは逃げおった」

 私の前の男――フソリテスが言った。

「こちらは、ほとんどみな避難が済んでいます。とりあえず、歩ける者を先導させて、五百洲いおす川沿いに塔へ逃げるよう指示しました」

 男は、牢獄にいた片脚の男だった――しかし、今は二本の脚で立っている。

「逆らう者はいなかったか?」

「いえ、あんな仕打ちをされたら、誰も〈蛟漿こうしょう〉なんぞ、信じなくなりますよ」

 男も、私とワドワクスに気づいた様子だった。

「おっと、あんたたちも無事だったんですね」

 その口調が、がらりと変わっていた。

「片脚はどうした? 傭い兵どもから一本取り返したのか?」

 私は尋ねた。

「ははっ、そいつは面白い。ずっと縛ったままだったから、まだ痺れてますよ」

 男はにやりと笑って見せ、長い包みを抱えたまま、近くの白蛇面の乗るカケトカゲのくらに慣れた様子で跳び乗った。

 出し抜けに、轟音が響き渡った。眼前で、兵舎が崩れ落ちた。火の粉が明け方の空高く舞い散った。残ったわずかな兵たちは、白蛇面の集団に対抗することもせず、這々ほうほうていで水晶山のほうへ向かって逃げ出していた。さらに、牢獄からも炎が上がっていた。

 フソリテスと呼ばれた男が叫んだ。

「勝利したと思うな! 闘いは、これからだ!」

 彼は手綱たづなをさばくと、純白のカケトカゲに拍車を掛けた。

 他の者たちも続いた――ドゥイータとワドワクスを乗せたカケトカゲも。

 白蛇面の一団は、南に向かって走り出した。


「蛇神覚醒」第六話へつづく

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