第4話

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 私たちは、セネクと呪技遣じゅぎつかいらの亡骸を残し、すぐに〈蒼蛇あおへび亭〉を出た。宿代として多すぎる金貨七枚を寝台の上に残し、夜明け前に出発した。

 こんな刻限に蟲車を拾えるはずもなく、街道には徒歩で出ることにした。陽が昇り、昼近くになるまで延々と歩く羽目になった。衛士隊は追ってこなかった。金貨七枚が効いたのかも知れない。

 その間、私とワドワクスはほとんど無言だった。

 陽が昇り、気温も上がり始めた。先に口を開いたのは、ワドワクスだった。

「ゴルカンさん……怒っていませんか?」

「なぜ怒らなきゃいけない?」

「ゴルカンさんもセネクさんも、あの連中と命懸けで闘った。なのに、僕はただ見ていることしかできなかった……怖かったんです。死ぬほど怖かった。笑って下さい。あまりに怖すぎて、逃げることすらできなかったんですから」

「私も、怖かったよ」

「ご冗談を。あなたは勇敢でした。セネクさんも。僕はとんだ腰抜けだ。僕みたいな弱虫が、ジェク君を救えるんでしょうか? 今、僕はどうしてこんな街道を歩いているんだろう。疑問に思ってしまいます。こんな腰抜けの自分が、蛇神と闘えるのか? ジェクを……ドゥイータを救えるのか……?」

「前にも言ったはずだ。人にはできることとできないことがある。あんたは、子どもに知恵を授け、導くことができる。私は、村はずれで木を削っている」

「やめて下さい。よけいに惨めになるだけです。僕は……やっぱりドゥイータには不釣り合いな男なのかもしれない」

 そこで一度ワドワクスは言葉を切った。そして、自嘲気味に笑った。

「夕べの僕の姿……ドゥイータが見たら軽蔑するでしょうね。そう思いませんか?」

「さあ、今のドゥイータを、私はよく知らない」

「じゃあ、あなたの知っている八年前の彼女ならどうです?」

 ワドワクスの目つきは真剣だった。少しの間考えて、私は答えた。

「おそらく、しないだろう。彼女が軽蔑するのは、そして腹を立てるのは、人を傷つける者だ。理由はどうであれ、人の心や体を傷つける者を、彼女は心底、憎悪していた」

 ワドワクスは口をつぐんだ。考え込んでいる様子だった。私は続けた。

「正直に告白するよ。私は今この瞬間もまだ、怖いんだ。吐きそうなくらい、怖い」

「怖い?」

「人の命を奪ったのは八年ぶりだ――どんな相手であれ、四つもの命を」

 私は両の手をワドワクスの前に差し出した。指先が小刻みに震えている。

「止まらない。ずっと震えっぱなしだ。胸もむかついている。胃の腑が裏返りそうだ。人の命を奪うのが、こんなにおぞましいことだと、すっかり忘れていた」

「ゴルカンさん……」

「衛士を辞めてサンナ村へ引っ込んでからも、剣はいつも体に帯びていた。毎日、剣の手入れもしていた。剣術の訓練も怠らなかった。何度か、酒場で不逞ふていやからと斬り合いになったこともある。二度と剣を握れないようなかたわにしてやったこともしばしばだ。しかし、命までは奪わなかった。これまでは、殺さずに済んだ」

「でも夕べは、ゴルカンさんがやらなかったら、みんなが殺されていました」

「やつらを殺さずに、撃退することもできたかもしれない。しかし、私は四人を斬り殺した。反吐へどが出そうな気分だ」

「自分の身を守るなら、あるいは人を守るためなら、剣を振るうのは当然でしょう。それができるあなたを、私は尊敬します」

「大きな間違いだ」

「何ですって」

 ワドワクスは気を悪くした様子だった。

「人を殺せる人間を、尊敬すべきじゃない。衛士隊にいた頃は、私も人を斬ることが平気だった。むしろ悪党どもを斬り殺すことが衛士の義務だとさえ思ったことがある。衛士のなかには、斬った相手の人数を競っている連中もいた――ベリーグもその一人だったがね。私が衛士になったばかりのとき、テジンで辻斬りが横行したことがある。毎晩のように、何の罪咎つみとがもない市民が何人も斬り殺された。私は、下手人の殺し方から、相手の出方を読んだ――そして、読みは見事に的中した」

「やっぱり、あなたは腕利きの衛士じゃないですか」

「下手人は衛士だった。その男は、人を斬ることによこしまな快楽を覚えるようになっていた。私は、その男をその場で斬り捨てた。そして、事件そのものを葬った……そんな私も、その男と同罪かも知れない」

 ワドワクスは言葉を選びながら、言った。

「衛士を辞めることによって、人の命の重さを知ることができた、ということなのですか?」

 私は苦笑した。

「命が重いのかどうか、私にはわからない。それこそ神のみぞ知る、というやつだ。この世界を創造した神々が、大人族コディーク小人族オゼットの命をどの程度に見積もっていたのか。そこを這ってるフウセンアリや、空を飛ぶヒイロハシツバメとどれだけ違うのか。人は、神々が人そっくりの姿をしていると勝手に解釈しているが、実はツノナメクジのような姿かもしれない。人は、地面でうごめ塵芥ちりあくたのようなものかもしれない」

「しかし人には知恵があります。僕は博物学者ですよ。この世界の生き物については、あなたよりも詳しい。人なみの知恵を持った生き物は、ほかには存在しません。人だけが、高い城も建てられるし、田畑も耕せるし……人も愛せる」

「そしてつまらぬ領地争いで、いがみあい、殺しあう。あるいはもっとくだらない理由で同族の命を奪う。そんなことをする生き物が他にいるか?」

 ワドワクスは無言だった。


 エクウムから街道を八ラグル(約二十四キロメートル)ほど歩いたところで、ようやく一台の蟲車を拾うことができた。手綱につながれたミドリカケトカゲは、ずいぶんと年老いていた。が、それ以上に御者の男が老いさらばえているように見えた。

 水晶山へ行く道は二つ。このまままっすぐに五百洲いおす川沿いの街道を南へ進み、水晶湖のほとりの村まで行き、そこで舟を雇って水晶湖を渡る方法。もう一つは、遠回りになるが、途中で進路を東へ向け、水晶湖を迂回する方法。

 私たちは前者を採ることにした。水晶湖を渡るには死の危険があるというさまざまな噂を知らないわけではない。が、時間を無駄にできない。

 夕刻まで蟲車に揺られ、水晶湖の北側の畔にあるレースト村に着いた。水晶湖の畔に位置するレーストは、かつては街道の交わる交易の要所として栄えた街である。また、水晶湖で獲れる魚介類は、高級食材としてテジンの都まで運ばれたものだった。

 蟲車が街への門をくぐったときには薄暗くなっていた。

 人の姿はまったく見えない。これが、かつて繁栄を誇った街なのか。門の前は広場になっていた。中央に、かつては噴水であったろう石の構造物があった。水は涸れている。噴水はおそらく、雨の女神ニアールをかたどったものに違いない。が、今では雨神の両の腕はもげ、頭も半分欠けていた。

 私たちを降ろし、銀貨を受け取った老御者は、逃げるように蟲車を走らせて去った。

「いやな気配です。いったい人々はどこに消えてしまったんでしょう?」

 ワドワクスが言った。

「消えちゃいない」

 中央通りに面する建物のあちこちの窓から、強い視線を感じていた。町人たちは我々の到着に気づいている。しかし、姿を現そうとしないのだ。

 私は周囲を見回した。窓、窓、窓……暗い穴のようなそれらの向こうに、警戒と恐れと好奇に満ちた眼が隠れている。

 私は、酒場兼旅籠はたごとおぼしき店に近づいた。風雨にさらされて薄汚れた看板には南方文字と東方文字の両方で〈白鷲しろわし亭〉と彫られているのが、かろうじて判読できた。

 〈白鷲亭〉の扉を押した。鍵はかかっておらず、難なく開いた。その瞬間、むっとするような澱んだ空気に包まれた。ワドワクスは、露骨に鼻を手で押さえた。

 酒場に客はいなかった。店の者の姿も見えない。

「ごめん」

 私の声に反応して出てくる者はいなかった。しかし、厨房の奥には間違いなく人がいる。

「酒をくれ。開いているんだろう?」

 沈黙がしばし続いた。

「旅の者だ。ここは酒場だろう。酒くらい出してくれ」

 ワドワクスが私の腕を引きかけたとき、厨房の奥の扉が開いた。現れたのは小人族オゼットの、しかも子どもだった。そしてその手には、短剣を握っている。小人族の少年は、厨房と酒場を仕切る飯台の上に軽々と跳び乗った。背丈は私の腰くらいまでしかない。が、飯台に上れば、視線は私たちを見下ろす高さに来る。

「おまえらの仲間、二人も斬ったんだからな! おまえらも真っ二つにされる前に、さっさと水晶山へでもどこへでも消えちまいな!」

 威勢のいい言葉が少年の口から発せられた。年の頃はまだ十二、三歳くらいだろうか。

「待ってくれ。何の話をしてるのか、私にはわからない。我々は、ただの旅人だ」

「うるさい! 父ちゃんと母ちゃんをあんなふうにしやがって! 姉ちゃんを……姉ちゃんを返しやがれ、人でなし!」

 その言葉の最後は嗚咽で震えていた。

蛇神崇拝者ヘクロノミが、現れたのか?」

 少年ははっとして顔を上げた。

「蛇神を崇拝している連中だ。武装している者もいる。連中は水晶山へ向かっている。つまり、北方や西方の蛇神崇拝者たちは、必ずこの町に来ざるを得ない――水晶湖を渡るために。やつらは何をしたんだね? この町の人たちにどんなことをしたんだ?」

「剣を下ろしなさい、トレアンダ坊ちゃん」

 厨房の奥からしわがれ声が聞こえた。姿を現したのは、同じく小人族の老人だった。腰がほとんど「くの字」にまで曲がっていたが、その眼光は鋭く私を見据えていた。

 次の瞬間、トレアンダと呼ばれた少年の手から、短剣ががちゃりと音を立てて落ちた。少年は飯台の上にしゃがみ込み、激しく泣きじゃくり始めた。

 ワドワクスが、思わず手を差し延べ、少年の肩に触れた。少年は邪険にその手を振り払った。もう一度ワドワクスは少年の肩に触れた。今度は、少年は抗わなかった。少年はワドワクスの胸に顔を埋め、激しく嗚咽し始めた。

「かわいそうに……よほど恐ろしい目に遭ったんだね」

 ワドワクスは学舎の教師らしく、慣れた様子で少年の背中をさすっていた。その優しい仕草は、血でけがれた私には決して真似することができなかった。

 老人は、いつの間にか大ぶりの二つの杯をコルメ酒で満たし、私たちの方へ押して寄越した。

「あんたらは連中とは違うようだ。かりにお仲間だったとしても、もう遅いがね」

「どういう意味ですか?」

 私はコルメ酒の杯を一気に空けた。

「やつらは行っちまったってことよ。もう水晶山へ行っちまった。この町にゃ何も残っちゃいねえ。尻の毛まで抜いて行きやがった。残ってるのは、ほれ、こんな子どもと年寄りだけ。連中の言葉を最後まで信じなかった者たちだけじゃ」

蛇神崇拝者ヘクロノミたちが、若い人たちを連れ去ったということですか?」

 ワドワクスが尋ねると、老人は冷ややかな眼を彼に向けた。

「兄さん、ここは酒場だ。人にものを訊く前に、杯を空けるのが礼儀ってもんだ」

 ワドワクスはぎょっとした顔つきになった。

「僕は、お酒が……」

 言いかけたが、老人の表情を見ると、意を決したように眼をつぶって一気に杯をあおった。次の瞬間、ワドワクスは泣きそうな表情になり、激しく咳き込んだ。

 老人はそこで初めて笑みを見せた。

「すまぬことをしたな、旅人さんよ。あんたたちは、北の国から来たのじゃな?」

 老人の問いに、必死に咳をこらえながら、ワドワクスが答えた。

「そ、そ、そうです。私はワドワクスと申します。北の国のブレジクという町で、学舎まなびやの教師をやっております。ここまで……人を探しに来ました」

「わしの名はヒジー。で、こちらも学舎の先生なのかね? そうは見えぬが」

 ヒジーは、私の腰に帯びた剣を見下ろしながら言った。

「私は西の国の者です。ゴルカンといいます。ワドワクスとともに、人を探しに水晶山へ行く途中なのです」

「北の国のお方と西の国の者が一緒に? わざわざこんなところまで……」

 私はただ黙って、空の杯をヒジーに押し出した。ヒジーも何も言わず、杯をコルメ酒で満たした。私はそれを一気にあおった。

 私は言った。

蛇神崇拝者ヘクロノミたちがこの町を訪れたのはいつです?」

「そう……はじめて連中が姿を見せたのはいつじゃったかな……坊ちゃん、覚えておいでで? わしはもう耄碌もうろくが激しくて、すぐに忘れてしまうんじゃ。どんな大切なことも」

「もう三月も前だよ、ヒジー」

 それまで黙っていたトレアンダが言った。

「ぼく、覚えてる。お姉ちゃんの誕生日だったんだ。みんなでミドリイチゴの焼き菓子を食べて、甘いガボノ茶を飲んだんだ。その夜だったよ。見たことない黒い長衣を着たおかしな人がレーストの門をくぐったのは。ぼく、お姉ちゃんと一緒に二階の窓から見たんだ。それでぼく、言ったんだ。『あの人たちがどこから来たのかあてっこしよう』って」

 あとを引き継いだのは老人だった。

「その日を境に、次々に旅人たちが訪れるようになった。この町の旅籠はたごは大繁盛じゃ。誰もが喜んだもんだ。そのうちに、おかしなことを言い出す者が出始めた。そのときには、わしはまだこの町全体が呪われることになろうとは、思いもせなんだ」

「呪い?」

 ワドワクスが二杯目のコルメ酒の杯を空け、身を乗り出した。

「わしが最初に聞いたのは、隣の宿屋の女将おかみだ。なんでも、今泊まっている集団の客は水晶山に不老不死の薬をもらいに行く連中だ、とな」

「不老不死の薬――大蛇の唾液――〈蛟漿こうしょう〉のことですか」

「そのときはまだ蛇のことなど誰も口にしておらなんだ。わしも気づかなんだ。しかし、人の口に戸は立てられぬ。十日もせぬうちに、旅人たちは蛇神の僕たる大蛇を甦らせるためにあちらこちらから集まってきた蛇神崇拝者だということがわかってきた」

 嗚咽を噛みしめた声でトレアンダ少年が続けた。

「その頃からこの町全体がおかしくなり始めたんだ。トクルもレナシュ――ちっちゃい頃からの僕の友達だけど――も、家族で水晶山へ行くなんて言い出すんだ。みんなで不老不死の妙薬を恵んでもらうために。二十日くらい前、突然父ちゃんまで言い出したんだ。みんなで水晶山へ行くって。でも、うちの旅籠に泊まってたあの先生が止めたんだ。でも……みんな言うこと聞かずに行っちゃった」

「あの先生というのは?」

 ワドワクスが身を乗り出した。

「女の先生……あ、思い出したよ。先生も人を探してるって言ってた。男の子を」

 私とワドワクスは思わず顔を見合わせた。先に口を開いたのはワドワクスだった。

「その女の先生は、何て言う名前だった? 探している子どもの名前は? 旅籠を出てどこへ行ったの?」

「そんなにいっぺんに訊かないでよ……。ええっと……女の先生の名前は、宿帳に書いてあるかも知れない」

 少年は、厨房へ引っ込み、すぐに、一冊の年季の入った冊子を持ってワドワクスに差し出した。ワドワクスは、引ったくるようにしてそれを受け取った。

 私は、少年に向かって尋ねた。

「きみはどうして家族と一緒に水晶山へ行かなかったんだね? 不老不死の妙薬がもらえるかも知れないんだよ」

 トレアンダは唇を噛みしめた。

「それはわしのせいじゃ」

 口を挟んだのはヒジーだった。いつの間にか、飯台にはマカル酒の瓶が立っていた。ヒジーは瓶に口を付けて、直接飲んだ。彼はその瓶を私に渡した。私も無言のまま、コルメ酒よりずっと強いマカル酒を瓶から喉に流し込んだ。喉と胃の腑が焼けるようだった。

「わしは、蛇神の……いや、蛇神に魅入られた愚かな者どもの恐ろしさを知っておった。若い頃には、そういう輩と一戦を交えたこともあった。昔の話じゃがな」

 ヒジーは私からマカル酒の瓶をひったくると、瓶に口を付けてぐいぐいと強い酒をあおり、再び私に瓶を突き出した。私も同様に瓶からあおった。無言で先を促した。

「人は何かに魅入られると、『人であることをやめる。邪なるものに操られる傀儡くぐつと化す。『邪なるもの』とは蛇神のことではない。我々人が内に秘めている闇じゃ。だから、始末が悪い。邪なるものが外に形あるものとしておれば、そいつを退治すればよい。が、己の内にしか存在しないのだ。いかに闘う? いかに救う? なあ、あんた方、『人が人である』とはどういうことかわかるかね」

「あなたはいったい……」

 私は言いかけたが、ヒジーは無視して続けた。

「人が人の思いを感じ取ること。人が人を理解すること――少なくとも理解しようとすること。これは他のどんな動物にも真似のできぬ技じゃ。しかし、ひとたび強大な『何か』に己を託してしまえば、人は人を思いやることができなくなる。その眼は己の内しか見ることができなくなる。その耳は己の声しか聞くことができなくなる」

 言葉を切り、ヒジーはマカル酒の瓶をあおった。もう酒は数滴しか残っていなかった。

 沈黙が下りた。聞こえるのは、ワドワクスが急いで宿帳の紙をめくる音だけだった。

「旅の方たちよ、悪いことは言わぬ。水晶山へ行くのはやめるのだ。いずれにせよ、この町からの渡し舟はもう一隻も出ておらん。さっさとあんたがたの国に帰るのだ。そして、静かにときを過ごすのだ――嵐が去るまで」

「駄目です……載っていませんでした。ドゥイータの名は」

 ワドワクスが悲壮な声で言った。

「あの娘さんなら、わしも覚えとる」

 ヒジーが言った。

「なんですって?」

 ワドワクスが勢い込んだ。

「聡明な娘さんだとお見受けしたよ。うつくしく、また強いお人であったな。止めるのも聴かず、水晶山へ向かう最後の渡し舟に乗って行ったよ。十六日、いや、もう日が変わった、十七日前のことじゃ。名は名乗らなかったが……あんたと同じく、学舎の先生だったようじゃ。が、奇妙なことに、腰には剣を帯びておった。あんたのように」

「すると、ティマーが殺される十日も前のことですね。つまり、彼女はティマーの事件を知らずに、ここまで来た。すると、ティマーの事件とジェク君の失踪は無関係なんですね」

 ワドワクスは私に向かって言った。

「わしは言うたのだ、同じことを。『嵐の去るのを待たれよ』と」

 ヒジーは一度言葉を切り、真っ暗な窓の外に眼をやった。

「あの娘さんは、ドゥイータと言いなさるのか。あの娘さんも、おそらくは蛇神の恐ろしさを身をもって知っておったのじゃろう……」

 そこでヒジーは言葉を切った。私の顔をじっと見つめた。

「そなたと同じく、な」

 ヒジーは飯台の下に手を伸ばし、二本目のマカル酒の瓶を持ち出した。

 私は唾を飲み込んだ。じっと老人を見つめ、言った。

「アムブレクのヒジー殿……」

 私の言葉に、老人はぴくりとも反応しなかった。ただ、マカル酒の瓶の口を小刀で開けようと悪戦苦闘しているだけだった。

「アムブレクの賢人。〈白鷲遣しろわしつかい〉のヒジー。なぜあなたのようなお方がこんなところに……」

 ワドワクスが愕然とした表情になった。

「なんてことだ! 〈白鷲遣い〉のヒジー? あの大賢人の呪技遣じゅぎつかい、ヒジーなんですか? 白い大鷲、ヴァムレイにまたがって世界を駆け巡り、蜘蛛神ダイランガに造反した悪鬼たちを北の国で退治して、東の国のザイ王に呪いをかけた黒呪技遣いを倒し……いや、そんな馬鹿な……五百年も前の伝説です」

「伝説とな、はっ!」

 ヒジーは、マカル酒の瓶をようやくこじあけた。

「ヒジー? この人、何言ってるの?」

 トレアンダがきょとんとした顔で、老人を見上げて言った。ヒジーはにやりと笑った。

 やや酔いの回った表情のワドワクスが勢い込んで言った。

「ヒジーさん……あなたがほんとうに、かの〈白鷲遣い〉のヒジーであるなら、あなたのお力を貸して下さい。今こそあなたの力をもう一度この世のために発揮するときです」

 ヒジーは何も言わず、ワドワクスに向かってマカル酒の瓶を無造作に突き出した。ワドワクスは困った表情になった。が、勇気を振り絞るようにして瓶を受け取り、口を付けてあおった。次の瞬間、はげしく咳き込んだ。

 ヒジーが渇いた笑い声を上げた。

 私は瓶をヒジーに向かって差し出した。

「ワドワクス、それは無理な相談だ。ヒジー殿はもう呪技じゅぎを捨てたのだ」

 私は言った。ヒジーは無言のまま瓶を受け取ったが、飲もうとはしなかった。私は続けた。

「五百年だ。五百年のあいだ、〈白鷲遣い〉のヒジー殿は沈黙を続けてきた。おそらく大賢人様にとっては、五百年などまばたきほどの時間とさして変わらぬ長さだったろうが」

「旅人よ、それが何だと言うのだね?」

 私は眼の前の老人をじっとにらんだ。

「八年前……八年前のテジンだ。マトスが蛇神崇拝者ヘクロノミを率いて大蛇を召還しようとした事件をご存じないとはおっしゃるまい。そのとき、私もどれだけ『今、ヒジーが助けの手を貸してくれれば』と思ったことか。実際、小さな噂を頼りに、部下の何人かを北の国のアムブレクや東のフィヨンをはじめ、各地に派遣して大賢人ヒジーを探したほどだ」

「ほう、それはご苦労なことじゃったなぁ……」

 当のヒジーは他人事のように言った。

「無論、見つけられなかった。あんた自らが現れてマトス一派と闘ってくれることを、私や私の仲間の衛士たちも期待していた。しかし、あんたは現れなかった。この地上の危機に、〈白鷲遣い〉のヒジーが救いの手をさしのべることはなかった。そして、マトスは少女たちの命を奪い……その一派とともに消えた」

「わしには何が言いたいのかさっぱりわからぬがね、若き旅人よ」

 ヒジーは瓶からマカル酒をラッパ飲みした。

 私はそんなヒジーを見据え、さらに続けた。

「五百年だ。〈白鷲遣い〉のヒジーが最後に呪技を使ってから――クトラシアでの騒乱を鎮めてから――五百年も経っている。そのあいだにも、この地上は何度も危機に見舞われたことだろう。争いは絶えず、邪悪な者どもが、絶えず跋扈して人びとの命を奪った。しかし何が起ころうと、あんたは手を差し伸べなかった。この世界を救おうとはしなかった」

 私はそこで一度言葉を切った。

 酔っている、と思った。そう思いながらも、ヒジーからマカル酒の瓶を奪い、あおっていた。

「あんたは呪技を捨てた、というわけだ。そして、この世界をも、捨てた」

「だから、どうだというのだね? かりにわしがあんたの言う大賢人ヒジーだとして、なぜそんな老いぼれ呪技遣いが『世界を救う』などと大それたことをしなきゃならん? 呪技遣いなら、この地上に何百とおるではないか」

「あんたほどの力を持った呪技遣いはいない」

「ほう、そりゃありがたいお言葉だな。しかし、旅人よ」

 ヒジーは言葉を切り、私の眼の奥をじっと覗き込んだ。ヒジーの双眸は、深い海の底のように暗かった。私は、呪技をかけられたのか、身動きできなくなっていた。

「この地上界を救う? わしには、上っ面だけ綺麗事を塗りつけた安っぽい正義感にしか聞こえぬがな。たいそうなご託を並べてくれたものだ。おまえさんの真実の心がどちらを向いているのか、わしにはわからぬ。見えぬのだよ」

「呪技で読み取ってみるがいいさ」

 私は吐き捨てた。

 ヒジーは私から瓶をひったくると、瓶の底に残ったマカル酒を飲み干した。そして、瓶を飯台の上に乱暴に置いた。がちゃん、という音を立てて瓶が横倒しになった。

「ずいぶんと遅くまで話し過ぎた。さあお二人さんよ、もう帰っとくれ。酒代は頂くがね。金貨二枚にまけておく。一人あたり、金貨二枚じゃ」

「ヒジーさん……」

 ワドワクスが言いかけると、ヒジーは手を振って遮った。

「もうこの酒場はしまいだよ。さあ、トレアンダ坊ちゃん、戸締まりしましょう」

 ヒジーは言ったが、トレアンダ少年は無反応だった。ただ、かたくなな面持ちでヒジーを見上げているだけだった。

「もうすっかり夜の帳は降りてしまいましたよ。人喰い鬼が出る前に、床に就きましょう」

 ヒジーは、ワドワクスの脇に立ち尽くすトレアンダに近寄った。

「ほんとに、ヒジーは呪技遣いなの?」

 トレアンダは、おそるおそるといった様子で言った。

 ヒジーは顔をしわくちゃにして笑った。

「さあさ、もうそんな話はやめましょう――」

「ねえヒジー、ほんとにほんとに呪技遣いなの? 大賢人なの? 〈白鷲遣い〉の伝説、ぼくも聞いたことあるよ。あの伝説の呪技遣いなの? ねえ何で黙ってたの? 何で父ちゃんと母ちゃんと姉ちゃんを助けてくれないの? なんで……なんでぼくを水晶山へ連れてってくれないの? 蛇神と闘ってくれないの?」

「坊ちゃん、この年寄りを困らせんで下さい」

 ヒジーは、私たちに厳しい顔を向けた。

「坊ちゃんの前で、おかしなことを吹聴せんでもらいたいもんだね、旅人さんがた」

ヒジーは、そう言うと眼で入り口の扉のほうを指した。

「さあさ、階上でお休みになって下さい。ヒジーもすぐに参ります」

「でも……でも……」

 ヒジーの表情が一変した。険しい目つきでトレアンダ少年をじっと凝視した。そして、ゆっくりと右の手のひらをトレアンダ少年の額の前にかざした。

「坊ちゃん、もう眠るのです。そして、良い夢を見るのです。深い眠りが、坊ちゃんの哀しみを、怒りを消し去ってくれます。デッボ・トゥ・オグ・レ・ウェップ・リース……」

「ヒジー……?」

 尋ねかけたトレアンダ少年のまぶたが、ゆっくりと降り始め、体が揺らいだ。ヒジーは優しく少年を抱き上げた。まるで高価な羽根布団でも抱えるかのように、軽々と少年を運び、脇の階段から階上へ上がって行った。

 私とワドワクスが顔を見合わせていると、すぐにまたヒジーが階段を下りてきた。

「アムブレクのヒジーよ」

 私は言った。

「なんだね、〈灰色の右手〉ゴルカンよ」

 ヒジーの曲がった腰は、いつのまにか、しゃん、と伸びていた。その双眸も鋭く光り、顔の皺さえも消えていた。数十歳も若く見えた。

「最初から、私をご存じだったか」

「老いさらばえたとは言え、このヒジーの眼はまだ曇ってはおらぬ。テジンの都から逃げ出した腰抜け衛士隊長が、今更何ができる? 汚名返上でも企んでおるのか? とんだお笑いぐさじゃ」

「否定はしない。私を怒らせようというなら、無駄な試みだ。正しい言葉に腹を立てることは、もうなくなったから」

「ふん、おまえさんも愚か者でないことを証明したいのなら、このアムブレクのヒジーの言葉に従うのじゃ。帰れ。そして、嵐の去るのを待て」

 私は手を挙げてヒジーを遮った。

「私にまで呪技をかけるのは勘弁してもらいたい。あんたの言い分はわかった。もうあんたの力は借りない。しかし、帰ることもしない。なんとしても、水晶湖を渡ってみせる。そして、水晶山へ行く。これは、私が自分自身に対して決めた約束なんだ。それを破るのは、自分を殺すことと同じだ。私は……」

 言い淀んだが、一度、唾を飲み込み、改めて口を開いた。

「私は一度、自らを殺した。あんたの言うとおり、腰抜けの衛士隊長になり下がった。しかし、同じ過ちを二度は繰り返さない。再び死人になるのは、もうたくさんだ。たとえ大賢人様に蔑まれようと、嗤われようと、私は私の決めた道を進ませてもらう」

 ヒジーは黙って、値踏みするかのように、私を見つめていた。次に、ヒジーはワドワクスに顔を向けた。

「おまえさん、ワドワクスと言ったね。この男についていくつもりかね?」

 ワドワクスはヒジーに正対し、はっきりとした口調で答えた。

「ついていくわけではありません。僕が、ゴルカンさんを巻き込んだんです。たとえゴルカンさんが行かなくても、僕は水晶山へ行きます」

 ヒジーは眼を見開いた。

「ほう、ほう、ほう……ここにも愚か者が一人増えた、ってわけかね。これはこれは面白くなってきたのう。おまえさん方の尋ね人は、そんなに大事なお人かね」

「ええ、たいへん大事な人です」

 ワドワクスははっきりと答えた。

「そいつは面白い」

 ヒジーは笑い出した。

 ワドワクスは、ちらっと私を見たが、私は黙っていた。答える代わりに、懐から銭入れの革袋を取り出し、金貨四枚を飯台の上に放り出した。

「邪魔をした。もう、あんたに会うこともないだろう」

「宿はどうするつもりだね? 今この町で開いている旅籠なんぞ、一軒もありゃせん」

「あんたには指図も同情も干渉も受けるつもりはない。今夜は寝ずに歩くだけだ。歩いて、水晶湖を東回りに迂回する」

 私は彼に背を向けた。足早に〈白鷲亭〉の扉を押し開いた。ワドワクスがあとに続く気配がした。

 夜気は冷たかった。村は、暗闇に包まれていた。そんななか、今し方出てきたばかりのヒジーの旅籠だけが、暖かく、柔らかい光を漏らしている。

「すまん、ワドワクス」

「なぜ、謝るんです、ゴルカンさん」

「大賢人〈白鷲遣い〉のヒジーと出会ったというのに、むざむざとその力を借りる好機を逃してしまった」

「構いませんよ。あの方は、きっとほんとうに知恵のある偉大な方なのでしょう。真の賢人であるが故、僕たちの愚挙を諫めて下さったんですよ」

「あんたは、よくよくでき上がったお人だ」

 私は笑い出した。それにつられるかのように、ワドワクスも少し微笑んだ。

「今の物言い、ヒジーさんに似ていますよ」

「なんとね」

 私たちはしばし笑いあった。

 不意に背後から声が聞こえた。

「ほう、わしはずいぶんと嫌われたものじゃの」

 ヒジーが立っていた。

「何か忘れ物でもしたかね?」

 私が尋ねると、ヒジーはにやりと笑みを見せた。

「ああ、忘れ物じゃ」

 不意に、ヒジーが何か小さな物を放って寄越した。私は慌てて腕を伸ばし、受け取った。

 それは、小さな骨でできた笛だった。首にかけられるよう、黒く細い革紐が付けられている。私はじっとそれを見つめた。そして、ヒジーを見た。

 ヒジーはもう私たちに背を向けて、旅籠に向かって戻り始めているところだった。

「ヒジー殿!」

 私は呼びかけた。ヒジーは歩みを止めたが、我々のほうに向き直ることはなかった。

「何も言うでない。わしも一度、自らを殺した者じゃ。そなたは言ったな、『自分の決めた道を進む』と。『誰の指図も同情も干渉も受けぬ』と。わしも同じじゃ。〈白鷲遣い〉のヒジーは、死んだ。それは、他ならぬこのわしが決めたこと。何人の指図を受けようと、懇願を受けようと、アムブレクのヒジーがこの地に甦ることは、もう二度とない」

「ヒジーさん……」

 ワドワクスが口を開いたが、ヒジーはそれを無視して続けた。

「そなたたちは、最後の最後に、心の底からの声を聞かせてくれた。だから、このわしも言おう。わしは、この地上界など、もはやどうなっても良いと思っておる。この五百年もの間、大人族も小人族も、争い殺し合うことをやめなんだ。平和な日々など、一年と、いや、一月と続かなんだ。そんな『人』というものなど、滅んでしまえば良い。それが、このわしが悟った境地じゃ。だからこそ、この五百年、愚かな者どもが何をしようと、黙殺してきた。よいかね、ゴルカン、そしてワドワクス。この世界は、遅かれ早かれ、いずれ滅びる。それが百年後なのか、明日なのかは、このわしにもわからぬが。蛇神崇拝者どもが、今、この世界にとって大きな脅威であることは間違いなかろう。しかし、連中どもを倒しても、早晩、次のマトスが現れる。それを繰り返し、人は己自身を滅ぼす……」

 ワドワクスが割り込んだ。

「なぜ、あなたは人を信じることをやめてしまったのです?」

 ヒジーの肩が揺れた。笑ったようだ。

「老いた、ということなのじゃろう。しかし、だ」

 そう言って、ヒジーは私とワドワクスのほうを向き直った。

「この期に及んで、まだ人を信じようと悪あがきをする者がおっても、止めることはできぬ。ゴルカン、ワドワクス、行くがいい、水晶山へ。その笛の使い道は知っておろう」

 私は手の中の骨の笛を見つめた。

 〈ヒジーの呼び子〉――そう呼ばれた幻の笛。およそ七百年前に、緑龍の左手の指の骨で作られたという呼び子――

 顔を上げたとき、もうヒジーの姿はどこにも見あたらなかった。

「ヒジーさん!」

 ワドワクスが声を上げた。旅籠の灯りも、いつしか消えていた。レーストの村は完全な漆黒の闇に包まれていた。

「ゴルカンさん……?」

 私は答えなかった。

 ゆっくりと呼び子を唇にあてた――あらん限りの力を込めて、吹いた。

 何も聞こえなかった――かすかな音色さえも。

 肩すかしを食らったような面持ちで、ワドワクスが私を見ていた。

「ゴルカンさん、それは……?」

 ワドワクスが口をつぐんだ。

 確かに、聞こえた。遠い音が徐々に近づいている――羽ばたきの音。

 頭上はるか高くに、灰色の影がぼんやりと見えた。

 ワドワクスが言葉を忘れたかのように、口をぽかんと開けたまま、空を見上げていた。

 私は身じろぎもせず、待った。

 灰色の影が頭上を三度旋回した。そして、一気に私たちのほうへ急降下してきた。

「落ちてきます!」

 ワドワクスが逃げようとした。

「大丈夫だ」

 羽ばたきの風を頬に感じた。

 そして、それは地に降り立った――大賢人ヒジーの白い鷲。

 嘴の先から尾の端まで、身の丈は三十エーム(約九メートル)はあろう。尖った嘴。そして黄色く、鋭い二つの瞳。白く巨大なその体は、月明かりもないのに、うっすらと淡く妖しい光を放っていた。

「信じられない……これが……これが、あの白鷲、ヴァムレイ……!」

 ワドワクスが、あえぎあえぎ感嘆の声を上げた。

 賢き白鷲ヴァムレイは、黄色に輝く瞳で私とワドワクスを交互に見た。そして、喉の奥を鳴らすような声を上げた。

 私は〈ヒジーの呼び子〉をかざし、ヴァムレイに向かって言った。

「ヴァムレイよ、偉大なる白き翼よ。ヒジー殿から、この呼び子を預かったゴルカンという者だ。こちらは北の国のワドワクス。私たちを、水晶山へ連れて行ってくれ」

 白鷲ヴァムレイは、頭を地面近くまで下げた。

「ありがとう、ヴァムレイ」

 私は、ヴァムレイの背中によじ登った。白い羽毛はふわふわと柔らかく、そして暖かかった。ワドワクスも、おっかなびっくり、背中に登った。そして、私の背後にまたがった。

「ヴァムレイよ、よろしく頼む」

 白鷲ヴァムレイは、大きく翼を拡げた。ワドワクスが息を飲むのが背後に聞こえた。

 闇に覆い尽くされたレーストの村のなか、淡く光を放つ賢き白き翼――ヴァムレイは、体を一度震わせると、大きく羽ばたきを始めた。地面の砂が巻き上げられる。

 ヴァムレイは、私たち二人の重さなどまったく感じていないかのように、優雅に翼を上下させた。

 いつ浮き上がったのか、わからなかった。気づくと、私たちを乗せたヴァムレイはすでに地面を離れていた。

 その瞬間だった。

「待ってえっ!」

 甲高い声が聞こえた。小さな人影が、転がるようにして、こちらに近づいてくる。

「トレアンダ!」

 ワドワクスが叫んだ。

「ぼくも連れてって!」

 トレアンダに遅れて、もう一つの影が旅籠の建物から出てくるのがかすかに見えた。ヒジーだった。

「ヴァムレイよ、あの子も乗せてくれ」

 私は咄嗟に言っていた。

「ゴルカンさん、駄目ですよ、あんな小さな子どもを!」

 白鷲ヴァムレイが、首を曲げて私たちのほうを黄色の片眼で見た。「どうする?」と尋ねているかのようだった。

 次の刹那、小さなトレアンダ少年が、ヴァムレイの足にしがみついた。ヴァムレイの体が、ぐらり、と揺れた。

「ぼくも水晶山へ行く! 置いてかないで!」

 少年が悲痛な叫び声を上げた。

「すまない、ヴァムレイ。もう一人を乗せてくれないか」

 私が言うと、ヴァムレイはゆっくりと下降し、静かに着地した。

 トレアンダは、ふらつきながらも、ヴァムレイの背中によじ登った。私は、少年を私の前に座らせた。トレアンダ少年は、短剣を帯びていた。

 顔を上げた。旅籠〈白鷲亭〉の影の前に、ヒジーが立っているのがわかった。

 私は怒鳴った。

「ヒジー殿! あなたの白き翼、ヴァムレイをお借りする!」

 ヒジーは無言のままだった。うなずいたように見えたが、気のせいかも知れない。

 白鷲ヴァムレイが、再び羽ばたきを始めた。

 冷たい夜気を切り裂き、伝説の賢き白鷲が舞い上がった。


「蛇神覚醒」第五話へ続く

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