第2話

 蟲車が停まったのは、テジンの都の北西側に隣接するブレジクの町、広いアッカ豆の畑の中だった。畑の奥に、赤い煉瓦れんが造りの古風な三階建ての建物があった。

 その建物の前庭で、腰の曲がった老人が雑草をむしっていた。

 ワドワクスが蟲車から跳び降りると、老人はぱっと顔を輝かせた。

「若先生! いったいどちらへいらしていたんですか?」

「すみませんでした、セイロウさん。西の国まで行っていたんですよ」

「ドゥイータお嬢様に加えて若先生まで……気が気じゃなかったですぞ!」

 私は蟲車から荷物を下ろし、少年御者にほぼ二倍の料金を払った。

「気を付けて帰るんだよ。野盗と人喰い鬼には……それから特に衛士にも」

 私が言うと、少年はにっこり笑って御者台に飛び乗り、蟲車を走らせて、去った。

「こ、これは、なんと、なんと……」

 老人のしわがれた声が聞こえた。

「この爺の眼は夜神クオナースに魅入られて狂ってしもうたか?」

 私は荷物を抱えながら、セイロウに近づいた。

「狂っちゃいない。お爺。私だよ、ゴルカンだ」

 セイロウは眼を見開き、わなわなと唇を振るわせた。

「ゴルカン……まさしくゴルカンだ。なんということだ。ああ、山神よ! あのゴルカンが。フォリスの馬鹿息子のゴルカンが。この……この恥知らずの卑怯者のゴルカンが! よくも、よくも、よくも、おめおめとこのわしの前に姿を見せおって……!」

 セイロウの吐きだした言葉とその形相に、ワドワクスの笑みが凍りついた。

「まだ足りぬと言うか! まだドゥイータお嬢様は苦しみ足りぬというのか! 今度は何を奪いに来た? 何を傷つけに来た?」

 セイロウ爺さんは額に汗をにじませて叫んだ。私はゆっくりと荷物を肩にかついだ。

「奪うつもりも傷つけるつもりもない。ただ、ドゥイータを探す手伝いに来ただけだ」

「な、何を言うか! 山神マンテラの名にかけて、おまえなどの助けは要らんわ! おまえなど現れたら、お嬢様はむしろ逃げ出しなさるわ!」

「確かにそうだろう……」

 私はつぶやいた。

 ワドワクスがためらいがちに口を挟んだ。

「セイロウさん、ドゥイータが書いていた講座日誌の帳面が三階にあるはずですよね。取ってきていただけませんか?」

 セイロウは渋面を作ったまま、口のなかで何かもごもごとつぶやきながら赤煉瓦の建物の中に入っていった。

「さあ、僕たちも」

 ワドワクスに促され、私たちは扉をくぐった。

「立派な学舎まなびやだ。お転婆のドゥイータとはまったく結びつかないが」

「ときがたてば、人は学びます。いろいろなことを」

 ワドワクスは明るく言った。

 学舎の教室に入った。二十あまりの机と椅子が整然と並んでいた。子どもたちの姿はない。

 そこへ、どたどたという足音を立ててセイロウが現れた。口をへの字に曲げて黒い帳面をワドワクスに突き出した。

「わしは市場へ行かねばならんのです。白墨の蓄えが切れそうなのでな」

 つぶやくように言うと、学舎から彼は去っていった。

 ワドワクスは机の一つに腰をかけ、帳面を開いた。

「ドゥイータが毎日付けていたものです。その日の子どもたちの様子、天候、その他の出来事などが書いてあります。読んでみますか?」

「いいのかね? よそ者の私が覗いても」

「構いません。それに、あなたは部外者じゃない。ドゥイータがこの町でどんなことを行ない、どんなことを考えているか、それを知っておいて欲しいんです」

 ワドワクスから帳面を受け取った。蟲皮紙でできた表紙には、力強い東方文字で「まなびやのきろく」と書かれていた――ドゥイータの手跡。私はそっとその表紙に触れた。文字をなぞった。その様子を、ワドワクスが黙ったまま見つめていた。私は帳面を開いた。

 学舎まなびやの毎日というのは、子どもたちとの格闘の日々だということがわかった。ドゥイータは、日々の子どもたちの反応や行動に一喜一憂し、そしてそんな毎日を楽しんでいる様子が、帳面の彼女の記述から窺えた。

 なかでもジェクという名の少年についての記述が目立った。ここ一ヶ月ほど、ジェクは学舎に姿を見せていないらしい。ドゥイータは特に彼のことを気にかけている様子だった。

 私はページを繰り、巻末に、学舎に通う子どもたちの名簿を見つけた。子どもたちの数は十九名。ジェクの名の脇に、朱色の文字で覚書のようなものが書かれていた。

「このジェクという少年だが」

「ジェク君? 彼がどうかしましたか?」

「ドゥイータは、『注意! 静かな悲鳴』と朱書きしている。どういう意味なんだね、『静かな悲鳴』というのは?」

「えっ、そんなことが書いてありましたか? 気づかなかった」

 そう言ってワドワクスは私から帳面を受け取った。

「どんな子なんだね、このジェクは」

「変わった子ですよ。そう、一人だけ子どもたちの仲間からはぐれた子という言うんでしょうか。ここを見てください。ふた月ばかり前の講義記録です。この学舎の扉一面に馬の糞がなすりつけられる事件がありました。その犯人と目されたのが、ジェク君でした」

「なぜ?」

 ワドワクスは、ためらいがちに答えた。

「彼の……家柄です。彼の母親も、祖母も、そして姉も、導術師どうじゅつしなのです。そして、ご存じの通り、馬の糞は闇の呪技じゅぎの呪いに使われる、と言われています」

「しかし、導術師は女だけだ。導家どうけの一族に生まれても、男子は決して導術師にはなれない。それに、そもそも導術師と呪技じゅぎつかいはまったくべつの者たちだ」

「でも、子どもたちにとっては、『導術』も『呪技』も、さして違いなどありませんよ。どちらも常人には理解のできぬあやしの術。数少ない異質な存在は、排除されるんです。たとえ子どもの世界であっても、いえ、無邪気な子どもの世界であるからこそ」

「このジェク少年が学舎に来なくなったのは、例の糞の事件が原因だったのだろうか?」

 ワドワクスは口ごもった。

「僕はしばらく亜麻淵湖あまふちこへ出かけていました。そのあいだ、学舎で起こったことは……」

「今、ジェクはどうしている?」

「まだ、学舎に姿を見せてはいません」

「ジェクの家には行ってみたかね?」

「ジェクの家に? なぜですか?」

 私はもう一度「まなびやのきろく」という文字に視線を落とした。そして、言った。

「ドゥイータは、行っただろう」

 ワドワクスは、はっと胸をかれたような顔つきになった。

「それは……考えませんでした。ジェク君が、ドゥイータの失踪と関係があるとでも?」

「わからない。しかし、ドゥイータがジェクという子を案じていたことは確かだ」

「そうか……そうですね、急いだほうがいい。荷物はここに置いていきましょう」

 私とワドワクスは学舎を出た。ワドワクスは、扉を施錠しながらぽつりと言った。

「僕は、自分を恥じなければいけませんね」

「何を?」

 ワドワクスは哀しげな笑みを観せた。

「僕は、学舎の教師です。なのに僕は、ジェク君のことを何も知らない。それに……」

 私は黙って待った。

「ドゥイータが子どもを案じて姿を消した、など……少しも考えたことがなかった」

 ワドワクスは口をつぐんだ。私はそれ以上何も訊きはしなかった。


「ジェクにはほとほと困らされています。いったい、どれだけ心配をかければ済むのか」

 ジェクの母親であるオーアは、そう言って鍋のなかに赤茶色の薬草を放り込んだ。鍋からは、鼻を突く匂いが立ち上った。

「あの子は、ただでさえ導家の〈汚穢おわいの者〉だというのに。好き放題のことばかりやっている。ノーアの――あの子の姉の――何倍手が掛かることか……」

「ジェク君は、何の前触れもなく家を出たんですね」

 ワドワクスが尋ねると、オーアは鍋から顔を上げた。

 オーアは、私とさして歳は違わないだろう。赤毛をひっつめにして、後ろで黒い飾り紐で留めている。やや顎と鼻梁がとがってきつい印象を与える顔立ちだった。焦げ茶色のたっぷりとした長衣は、導術師独特の装束だ。

 ジェクの家は、ブレジクのもっとも北のはずれ、林を突っ切る一本道の突き当たりにあった。地味だが、大きな石造りの母屋がどっしりと建っている。その背後には、薬草園が拡がっていた。私たちは母屋の隣にある薬草の調合室に通された。大きな釜が二つあり、一つには巨大な鍋がかかっていた。そこから鼻孔を衝く臭気がたち上っている。

「前触れなんかありはしません。学舎に行くのを毎日楽しみにしていました。とてもドゥイータ先生にはなついていたようですよ」

 オーアは大鍋の中を覗き込んだまま答えた。ワドワクスは、なおも質問を続けた。

「お母様としては、ジェク君の行き先にまったく心当たりがないんですか?」

「もちろん、あちこちを家族で手分けして探しました。親類縁者の家も訪ねました。けれど、あの子の姿は一向に見つかりませんの」

 相変わらず、ワドワクスの問いに対するオーアの受け答えは素っ気なかった。

「ドゥイータ……先生が、こちらのお宅にお邪魔したことがありましたか?」

「ええ。ドゥイータ先生にも、一度だけ一緒に探していただきましたわ。投げ縄通りに、わたしの弟が住んでいるのです。そこへジェクを探しに行きました。どういうわけかあの子は、弟――つまりあの子にとっては叔父ですが――と仲が良かったのです」

「けれど、見つからなかった?」

「ええ」

 沈んだ声でオーアは言った。鍋のなかが煮立ち始めた。ワドワクスが質問を続けた。

「ドゥイータ先生がこちらをお邪魔したのは、いつのことですか?」

「そうですわね。剣歯虎けんしこ祭りの前後でしたから、そう、二十日ほど前でしょうか」

「それ以来、ドゥイータ先生とは会っていらっしゃらないんですか」

「ええ」

「ジェク君からも、まったく連絡がないんですね?」

「まったくありません」

 相変わらず素っ気なくオーアは答え、気を紛らすように大きなひしゃくで鍋の中身をかき回し始めた。ますます鼻を衝く臭気が強くなった。

 それまで黙っていた私は、口を挟んだ。

「術は試しましたか?」

「ええっ?」

 虚を突かれたかのように、オーアは顔を上げた。

「私は先日、西の国で術を見たばかりです。ジェク君のため、術はお使いになりましたか?」

 オーアは手を止めて、さっと私を振り返った。

「馬鹿げた西方の手品のことをおっしゃっているのかしら?」

「さあ、馬鹿げた手品かどうか、私にはわかりません。導術にも、同じような遠見とおみの術があると聞いているのですが」

「残念ですわ。導術師もそんないかさま師と同じように見られているかと思うと」

 そのとき、私の背後で木の扉が開いた。入ってきたのは、十五歳くらいの少女だった。亜麻あま色の髪に、やや不健康なくらい色白の肌をしていた。導術師の長衣を着ている。

「お母様、お婆さまが――」

 言いかけて、彼女は私とワドワクスの存在に気づき、ぺこんとお辞儀をした。

「何なの?」

「お婆さまが、学舎まなびやの先生にお会いしたいって……」

 オーアは、一瞬のためらいのあと、うなずいた。

「娘ですわ。ノーア、ご挨拶なさい」

 少女はやや戸惑い気味の顔を私たちに向けながら、

「ノーアともうします。ジェクの姉です」

「ワドワクスです。ジェク君をドゥイータ先生と一緒に学舎で教えていました」

 ノーアは私に眼を向けた。私はただ名前を名乗った。

「お婆さまは薬草園においでなのね。お二人をご案内してさしあげて」

 伏し目がちにうなずいたノーアは、私たちに「どうぞこちらへ」と、かろうじて聞こえる程度の小さな声で言うと、木の扉をくぐって廊下へと出た。

 ノーアは、絶えず緊張しているかのように、足音を立てずに廊下を進んだ。

 裏庭に続くと思しき扉の前で、ノーアは不意に私たちのほうを向き直った。

「ジェクは……ジェクは、『転んで』なんかいません」

「転ぶ?」

 ワドワクスが訊き返した。

「母も、祖母も、ジェクのことをわかっていないんです。いいえ、わかろうとしない。みんなにとって、ジェクは単に〈汚穢おわいの者〉でしかないんです」

「〈汚穢の者〉というのは、何なの?」

 ワドワクスが尋ねた。その顔つきは、学舎の教師のそれになっていた。

 ノーアははっとしたような顔つきになった。

「す、すみません」

「何を謝るんだい?」

 きょとんとした顔で尋ねるワドワクスの横から、私は口を挟んだ。

「ここは導術師の家だ。導術師には、女子しかなれない。だから導家に生まれた男子は、導術を使えない穢れた存在、つまり〈汚穢の者〉と呼ばれる」

 ワドワクスは一瞬だけ眉根に皺を寄せた。

「ノーア、きみもジェクのことをそう呼んでいるの? 〈汚穢の者〉と。けがれた者と」

 ノーアは激しくかぶりを振った。華奢な両肩には力がこもり、小刻みに震えている。

「そんなこと言いません! 母や祖母のようなこと、言いません。絶対に、絶対に……!」

 ノーアはまくしたてた。その剣幕に圧されるように、ワドワクスは吃った。

「す、すまない」

「母も祖母も、ジェクは『転んで』しまったと思っているんです」

 私は尋ねた。

「『転ぶ』というのは、どういうことなのだね?」

 少し考える素振りを見せてから、ノーアは言葉を選びながら答えた。

「『転ぶ』っていうのは、導術を使えない導家の男子が、術を身につけようとすることです」

「術を? そんなことが可能なの?」

 ワドワクスが訊いた。ノーアはかぶりを振った。

「無理です。男の人が導術を使うことは、決してできません。けれど――」

 ノーアは言い淀んだ。私はそのあとを引き継いで言った。

「導術を身に付けることは、無理だ。が……呪技じゅぎなら可能かも知れない」

「なんですって! じゃあ、ジェクは呪技つかいになろうとしているって言うんですか?」

 ワドワクスが思わず頓狂な声を上げると、慌てた様子でノーアが手を振った。

「いけません! そんなことをこの家の中で大声で口にしてしまっては!」

 ノーアが発する暗い影は、怯えに違いなかった。

「祖母に聞かれてしまいます。どうか、お声を低くしてください」

 ノーア自身が消え入りそうな声で言った。彼女は、今にも眼の前の扉から祖母が飛び出してくるのを恐れているかのようだった。ノーアは、そろりそろりと扉を開けた。

 無論、祖母は飛び出してなど来なかった。

 扉の向こうには、緑が拡がっていた。苦みと甘みの混じった新緑の林の匂いが満ちている。

「あちらです」

 ノーアは薬草園のなかを突っ切る小道を足早に進んだ。彼女は小声で言った。

「ジェクは、家の中でも、いつだって、たった独りだったんです。ジェクにとって、学舎の先生たちとセネク叔父さんだけにしか、心を許せなかったんです、たぶん」

「かわいそうな子だ」

 ワドワクスはつぶやいた。

「なのに、わたし、ジェクのために何もして上げられない。今、悪い人にさらわれて怖い目にっているかもしないのに……もしかしたら、人喰い鬼に襲われたのかも……」

 今にもノーアの両眼から涙がこぼれ落ちそうだった。慌てた様子でワドワクスは言った。

「きみは何も悪くないよ。ジェク君はきっと元気だ。何も心配しなくていいんだよ」

 そのときだった。薬草園の奥から、きりきりきり、という木がきしむような音が近づいてきた。そして、しわがれた、しかし鋭い声が聞こえた。

「ノーア、ノーア、お客さんかえ?」

 その瞬間、ノーアは全身を緊張させて答えた。

「はい、お婆さま。お客様をお連れしました」

 細長い緑の葉が茂る灌木の向こうから、何か動く気配があった。

 ノーアの祖母が現れた。彼女は奇妙な乗り物――と呼んでいいのなら――に座っていた。大きな車輪が取り付けられた椅子に腰掛け、両手で車輪を回しながら、座ったままゆっくりと私たちに近づいてきた。おそらく両脚が不自由なのだろう。そのために特別に作られた「動く椅子」らしい。やはり焦げ茶色の長衣で全身を覆っていた。

「何か御用かえ、お若い人たち」

 しわがれてはいるが、力強い声だった。ノーアの祖母は眼を細めた。もともと細かったその両眼は、皺だらけの顔の中に埋没した。

 ノーアはおどおどと言った。

「こちらは、ジェクの学舎から――」

「おまえさんに訊いてるんじゃないよ!」

 ノーアの祖母は、彼女に一目もくれず、鋭く言い捨てた。ワドワクスは、ノーアと祖母の間に歩み入り、言った。

「ワドワクスと申します。ジェク君の通っていた学舎で教えている者です。ジェク君が学舎に姿を見せないため、こちらのお宅にお邪魔したのです」

 老婆は「ふん」と鼻を鳴らすと、巧みに椅子の車輪を操り、ワドワクスから離れた。

「あの子は戻ってこないよ」

 突き放すように老婆は言った。

「なぜですか?」

 ワドワクスは尋ねた。

「転んだからさ。あの〈汚穢おわいの者〉は、導家を捨てて、よこしまな術に魅入られてしまった。そんな者をなぜ探さねばならんのかえ?」

「お婆さま――」

 ノーアがやや気色ばんだ声で言った。が、老婆がくるりと器用に車輪を回してノーアに向き直ると、彼女の言葉は力を失って尻すぼみに消えた。

 ワドワクスが見かねたように、腹立たしげなた声を上げた。

「お孫さんのジェク君はまだ子どもなんです。少しでも彼をご心配なさることはないんですか? 少しでも彼の家出の理由を知ろうとしたことはあるんですか?」

 老婆は細い目を見開き、ぎろりとワドワクスをにらみつけた。

「あんたがたに何がわかる? わたしたちは、導術師だ。導家なのだよ。導術を受け継ぐ血筋なのだ。そして、あの子は、そんな血を穢す者だ。どうせ転んだ馬鹿息子のセネクのところにでも転がり込んでおるんだろう。それだけじゃない。あの子は『エ・カーワの書』まで盗んで行きよった。性根まで邪な呪技に侵された〈汚穢の者〉だ」

 老婆は「ふん」と鼻を鳴らした。そのかたわらで、ノーアが悔しそうに歯を食いしばっているのが見えた。

「セネクさんに、ジェク君がなついていたそうですね」

「なついていた? ふん! 惑わされておったのさ。あの〈汚穢の者〉に」

 老婆は言い捨てると、車輪付き椅子を操り、薬草園の小道を奥へ進み始めた。

 ワドワクスが、不意にその背中へ言った。

「導術を見せてはくれませんか」

 老婆は車輪付き椅子を止めた。が、こちらを振り返りはしなかった。

「導術は、この世界を見つめ、人を癒し、救い、導く術だと聞いています。その術を、ジェク君のために使うことはできないのですか?」

 老婆は、やはり答えなかった。やや間があってから、老婆は車輪を操り、かたわらの灌木へ向き直った。大人の背丈ほどの灌木が数本、生えていた。すべて、導術で使う薬草なのだろう。小さな淡い緑色の葉が茂っていた。左右の灌木には、七枚の花弁を持つ小さな青い花が無数に咲いていた。が、真ん中の一本だけは、真っ黒な花弁を付けていた。老婆は、しばしその灌木に咲いた漆黒の花弁を見つめていた。

 やがて老婆は、私たちのほうを振り向くこともせず、小道を薬草園の奥へと進んでいった。きりきりきり……と車輪が不快な音を鳴らした。その姿は、すぐに灌木の影に消えた。

「なんて家族なんだ」

 ワドワクスが吐き捨てるように言った。

「導術師には導術師のしきたりがあり、世界がある。我々が口を出すことはできない」

「自分の孫を『血をけがす者』なんて、ひどいじゃありませんか。それに、ほかでもない、家族のために、なぜ天賦の導術を使えないんです? 僕は、導術師に失望しましたよ」

 そう言ってからワドワクスはノーアの存在を思い出し、ばつの悪そうな顔になった。

「しかし、これで糸は断たれた」

 私が言ったそのときだった、不意にノーアが口を開いた。

「わたしがやります。わたしが、遠見とおみをしてみます」

「きみも、導術が使えるのかい?」

 ワドワクスが尋ねると、ノーアは心許なげに、肩をすくめた。

「お母様からも、おばあさまからもわたしが術を使うことは禁じられています。導術師は、十六を過ぎないと、術を使ってはいけないのです」

「ノーア、もしも、きみが使ったら……」

 ワドワクスが言いかけると、ノーアはぱっと顔を上げた。その表情には、今までは決して見せなかった、決意と力強さがあった。

「わたしがやらなければ、誰がやるんですか?」

「きみ自身がそう言うのなら、いいだろう」

 私は言った。ノーアはうなずくと、先ほど老婆が消えた灌木へ駆け寄り、そこから青い花弁をいくつかちぎり取り始めた。ワドワクスが興味を惹かれたように言った。

「これは血止めの薬として効き目がある花……だね?」

「そうです。学舎の先生は、いろいろなことにお詳しいのですね」

 そう言うと、ノーアは微笑んだ。はじめて見せる笑みだった。


 ノーアが用意したのは十数枚の青い花びらと一枚の古びた鏡だった。屋敷から秘かに持ち出したらしい。私たちは屋敷の敷地のはずれにある離れにいた。そこは物置として使われており、大きな瓶や農機具、木箱などが雑然と置かれた埃っぽい小屋だった。

 ノーアは鏡を砂埃で覆われた床の上に置くと、花弁をその上にまんべんなく散らした。

 ノーアの表情は瞬時に固くなった。そして、何か私には聞き取れぬような小声で、呪文のようなものを唱え始めた。私とワドワクスは、じっと押し黙ったまま、見守った。

 短い呪文を唱え終えると、ノーアは黙り込み、青い花びらを散らした鏡を凝視した。私も鏡を見つめた。が、そこには覗き込む我々三人の姿しか見えなかった。

 沈黙が降りた。やがて、ワドワクスはそれに耐えられなくなったのか、鏡を覗き込む顔を上げ、私を見た。

「導術なんて――」

 彼が言いかけたときだった。不意にノーアの体が、ぶるぶると震え出した。

「ノーア!」

 ワドワクスが声を上げた。が、彼女の震えは止まらなかった。それどころか、ますますその震えは激しくなった。不意に、〈クトラシア〉でのフピースの姿を思い出した。

「ジェ……ク……」

 ノーアがかすれた声を漏らした。彼女の顔面は蒼白で、額から幾筋もの冷や汗がしたたり落ちていた。その眼は瞬き一つせず、青い花びらを散らされた鏡を凝視している。その鏡は、私の眼には何の変化もしていないように見えた。

 唐突に、ぎしぎしぎし……という音が聞こえた。ノーアが、激しく歯ぎしりをしているのだった。

「ノーア、しっかりしなさい!」

 ワドワクスが叫び、苦悶の表情で汗を流すノーアの肩を摑んで揺すぶった。

 次の瞬間だった。

 破裂するような音が聞こえた。

 鏡には、誰も触れてはいないのに、無数のひびが入っていた。そして、鮮やかな青色だった花びらは茶色く枯れてしなびていた。

 ノーアは苦しそうに肩で息をしながら、うっすらと眼を開いた。

「大丈夫かい?」

 ワドワクスは静かな声で言った。ノーアは、ワドワクスに抱き留められていることに気づき、はっとして身を引いた。が、眩暈めまいがするのか、苦しそうな息をしながらよろめいた。

 私は言った。

「何を見たんだね?」

 が、ワドワクスはとがめるような視線を私に向けた。

「この子は休ませなければなりません。母屋に戻りましょう」

「彼女は鏡のなかに何かを見た。そうだろう、ノーア?」

 私の問いにノーアが答える前に、ワドワクスが声を荒げた。

「そんなことを訊いている場合じゃありませんよ。母屋に連れていきましょう。いや、母親を呼んで来ましょう」

 ワドワクスが言うのを遮り、私はもう一度尋ねた。

「きみは確かに導術によって、何かを遠見した。ジェク君はどこにいるんだ?」

ほこら……」

「何だって?」

「祠……あおほこら……」

 ノーアは消え入りそうな声で言った。

「祠? 何の祠なんだい?」

 ワドワクスが意気込むように尋ねた。ノーアは肩で息をするばかりで、答えなかった。さらに続けて私は訊いた。

「そこに、ジェクがいるのだね?」

 が、ノーアはかぶりを振るだけだった。

「祠というのは、この屋敷から近いのかね?」

 私が尋ねたそのときだった。小屋の扉が荒々しく開かれた。

 外光を背に受けて立っているのは、ノーアの母、オーアだった。

「何をしているんです、こんなところで!」

 震える声でオーアは怒鳴り、小屋の中に駆け込んできた。彼女は娘の肩を抱くと、私とワドワクスをにらみつけた。同時に、きりきりきり……という音が小屋の外から聞こえた。

「帰るのだ、れ者どもめ!」

 しわがれた声――入り口に車椅子に座った老婆の影が浮かび上がっていた。

「この者どもに我が家の門をくぐらせたのは大きな間違いだった。わかってるのかえ?」

 老婆の矛先は、自分の娘、ノーアの母親に向いた。

「もうしわけありませんわ。お母様」

 消え入りそうな声でオーアは言うと、彼女は鋭い眼を私たちに向けた。

「ノーアに何をしたんですか。いったいあなた方は、何の権利があってこの子を苦しめるんです? 大事な導家の娘なんですよ!」

 ワドワクスが身を乗り出した。

「では、ジェク君はノーアさんほど大事ではない、とおっしゃるんですか?」

「なんてことを……!」

 口ごもったオーアのあとを引き継ぐように、老婆が声を発した。

「黙らっしゃい! 今日のところは、衛士隊に通報するのはやめておく。もう二度とわたしたちの前に現れるなどという了見を起こすでないぞ!」

 ワドワクスが何か言いたげに口を開きかけた。私は彼を制し、立ち上がった。

「今日は帰ります。が、またお邪魔しますよ。我々は、ジェク君を見捨てたりしません」

 私は言った。そして、ワドワクスを促すようにして小屋から出た。小屋の入り口で振り返り、ノーアを見た。彼女はすがるような眼で私とワドワクスのほうを見ていた。私は、そっと彼女にうなずいた。少しだけ、彼女の表情が和らいだ。ノーアも、うなずき返した。

「さあ、行こうか」

 ワドワクスに言った。彼も、テムル蟲をかみつぶしたような表情でうなずいた。


 歩いてテジンの都の中心部に戻ったときには、辺りを宵闇がうっすらと包み始めていた。

 もう八年もテジンの都から離れていたが、土地勘は鈍っていなかった。赤月が登り始める頃には、投げ縄通りに着いた。安飲み屋、安淫売宿に混じって安下宿屋が何軒かあった。三軒目で、ジェクの叔父、セネクの下宿を見つけることができた。

「あの人は留守ですよ。あんたたち、呪技遣じゅぎつかいにゃ見えないね」

 下宿屋の女将おかみは、人喰い鬼でも見るかのような目つきで私たちを見回し、開口一番そう言った。ワドワクスが素性を名乗ると、やや安心したような素振りを見せ、続けた。

「この下宿はね、呪技遣いも導術師も蛇神崇拝者ヘクロノミもお断りなんだよ」

「蛇神崇拝者?」

 私は訊き返した。

「ここ七、八年ほど聞かなかったけど、また最近多いそうじゃないか」

「蛇神崇拝者は、この辺りにもいるのかね?」

「いるどころか!」

 女将は吐き捨てるように言った。

「あの人だよ。セネク。噂があるんだよ。あの人、蛇神に魅入られて――」

 そのときだった。いずこからか怒声が響きわたった。

「叩っ斬ってやる!」

 私は反射的に剣の柄を握った。振り返った。

「ああ! マーケン神よ!」

 女将が悲鳴にも似た声を上げた。同時に、路地から転がり出てくる黒い物体があった。

 黒い塊は痩せた男だった。顔面の左半分は腫れ上がり、血にまみれている。着衣は、もともとは灰色だったのだろう。が、それはおびただしい血によってどす黒く染まっていた。

 血みどろの男の後ろから、もう一人、別の男が飛び出してきた。長剣を振りかざしている。大男だった。顔の下半分は髭で覆われている。その双眸は殺気でぎらついていた。

「ティマーを……ティマーを返せ!」

 男が剣を振り下ろした。血みどろの男が「ひっ!」と悲鳴を上げた。刃が空を切った。大男は再び剣を振り上げた。

 私は剣を抜いた。同時に、割って入った。剣を下段から振り上げる。刃と刃が打ち合う。火花。大男が一瞬、臆した。踏み込んだ。喉元へ切先。大男は眼を剥いた。

 私は冷ややかに言った。

「何ごとだ?」

「邪魔立てするな! 貴様も蛇神崇拝者か!」

 私は、這いつくばった血みどろの男に向かって訊いた。

「あんたは蛇神崇拝者なのか?」

 血みどろの男は激しく首を左右に振った。大男は怒声を上げた。

「嘘をつけ! ティマーをどこへやったんだ!」

 大男は唾をまき散らした。が、そのときだった。

「落ち着いてください、グラッポさん」

 ワドワクスが大男に歩み寄った。

「あんた……先生じゃないですか! ワドワクス先生、聞いてくださいよ! この男、このセネクがうちの娘をかどわかしたんです!」

 大男が叫んだ。

「かどわかし?」

 ワドワクスが頓狂な声を上げた。セネクと呼ばれた男は震える声で答えた。

「そんなことしちゃいない! ティマーとは会ったことがないって言ってるだろう!」

「ティマーは、もう六日も帰ってこない! 呪われた子どもに連れ去られたんです!」

「呪われた子ども?」

「うちのティマーが学舎で知り合った子どもです。導家のくせに呪技を遣う、恐ろしい子どもです。俺は絶対にその子とつきあうな、ときつくティマーに言ったんですが、どういうわけか二人はよく遊んでいたようでした。なんということだ! ああ、アルファラーよ! 光の女神よ! 我が娘をお守り下さい! その呪われた子どもを育てたのが、ここにいる男だ!」

「詳しいお話はあとでお伺いします。今日のところは、この人――セネクさんを私に預からせてもらえますか?」

 ワドワクスが穏やかな声で言った。

「しかし、この男は恐ろしい術を使うんです! 野放しにしちゃおけないでしょう!」

「導術は恐ろしい術なんかじゃない!」

 セネクがうめいた。

「二人とも落ち着いて……」

「落ち着いていられるか! 俺は見たんだ。ティマーが戻らなかった日、真夜中に巨大なコウモリの群れが南に向かって飛んでいくのを。災いだ。災いの兆しだ!」

「グラッポさん、万が一の時は、衛士隊を呼びます。あとは任せてもらえませんか?」

 努めて冷静な声でワドワクスが言った。

「せ、先生がそうおっしゃるなら……」

 大男は不承不承剣を鞘に収めた。そして血みどろの男――ジェクの叔父のセネク――をにらみつけ、吐き捨てた。

「ティマーにかすり傷一つつけてみろ! この俺が貴様の顔の皮を剥いで、テムル蟲に喰わせてやる!」

 グラッポと名乗る男は、肩をいからせて去っていった。

「知っているのかね、あの男を?」

 私が尋ねると、ワドワクスはうなずいた。

「以前、娘さんが学舎にいたんです。家が貧しく、家業の宿屋の仕事を手伝わなければならない、というんで、ティマーは半年ほど前に学舎をやめました」

 私は、地面にへたり込んでいる血まみれのセネクを見下ろした。

「セネク君だね。話を聞かせてもらいたい。ジェク君のことを」

「あんたたち、ジェクを知っているのか?」

 弱々しい声でセネクが言った。

「ああ。私はゴルカン、こちらはワドワクス。ジェク君の通っていた学舎から来た」

 不意にセネクは声を上げた。

「ああ、ジェク! あんた、彼の居所を知っているのか? あいつは無事なんだろうな? まさか、ジェクがティマーとかいう女の子に何かしたんじゃないだろうな!」

 矢継ぎ早の質問を遮り、私は言った。

「あんたはティマーという子の失踪に関わりはないんだね」

「当然だ。名前はジェクから聞いたことがあるが……でも会ったことなんて一度もない。なあ、あんたたち、ジェクはどこなんだ? あいつにすぐに会わなきゃいけないんだ!」

「私たちも、あんたが彼の居所に心当たりはないかと思って訪ねてきたのだが……こんな場面に出くわした」

「知ってたら、当然あいつをこの手で救い出してるさ」

「救い出す? 誰から?」

 ワドワクスが口を挟んだ。

「あいつ自身から。そして、蛇神ヘクロンからな」

「蛇神?」

 私は思わず声を上げた。


 私たちは投げ槍通りにある居酒屋〈ヨツクビヘビの舌〉亭にいた。汚いが、安いだけが取り柄の店だった。セネクはここの常連客らしい。

「ご存じの通り、俺もジェクも〈汚穢の者〉だよ。導家では、不要な存在なんだ。決して導術を学ぶことはできない。学んだとしても、使うことはできない」

 血の汚れを洗い流したセネクは、やせて骨張り、血色の悪い男だった。彼は右眼だけぎょろりと私に向けた。まだ若いのに左眼は白内障そこひに罹っているのか、瞳が白く濁っている。右眼の眼光は鋭いだけでなく、そこには知性の輝きがあった。が、どこかやさぐれている。あらゆるものをまっすぐに見ることができず、はすにならなければ眺められない男。

「だから、あなたは……呪技に興味を持ったと?」

 ワドワクスがサッキ茶の椀を手でもてあそびながら尋ねると、セネクは自嘲した。

「気を使ってもらわなくて結構。『転んだ』と言ってくれ。そうとも、俺は転んださ。いや、転ぼうとした。しかしね、無理だったのさ。笑ってくれ。導術師が呪技遣いを嫌っているのと同じくらい、いや、それ以上に呪技遣いってやつらも、導術師を毛嫌いしているんだ。俺が導家の人間だと知ると、誰も弟子入りなんかさせてくれない」

「ジェク君も、きみと同じように、呪技遣いになろうとしていたと?」

 私は尋ねた。

「さあ、どうだかね。確かにジェクのやつは、俺に――同じ〈汚穢おわいの者〉として、仲間っていう気持ちは持っていただろうよ。その俺が転ぼうとしていたんだから、あいつも俺の悪い影響を受けたのかも知れないな」

「蛇神ヘクロンはどこにからんでくるんだね?」

 私が聞くと、セネクはコルメ酒の杯を一気に空けた。そして右眼で中空をにらむようにして、ぽつりと言った。

「あいつは、蛇になりたがっていた」

「蛇になる、だって?」

 ワドワクスが甲高い声を上げた。

 セネクは真顔になり、コルメ酒の杯をいまいましげに見つめた。

「あんたたち、蛇神崇拝者ヘクロノミの教えを知ってるかい?」

 ワドワクスが、教科書を読み上げるように答えた。

「誰もが知っている神話だけですよ。この地上にはかつて、蛇神ヘクロンのしもべである、人語を解する大蛇たちが棲んでいた。しかし、二千年以上前の〈黎明れいめいの戦い〉で、大蛇たちは十二賢者たちによってこの地の北の果て、鏃峰やじりみね山脈を超えたさらに北方の、〈悪魔の地〉と呼ばれるレグドランに追放された――そんなところです」

 セネクが続けた。

「さすが先生だ。伝説では、蛇神の配下の大蛇は自ら言葉を発することができないんだ。〈拠代よりしろ〉と呼ばれる、特別な力を持った子どもの口を借りて、人と言葉を交わすらしい。全部俺の推測なんだが……ジェクは、もしかしたら〈拠代〉になりたがっていたんじゃないか……?」

「しかし、どこに蛇神のしもべがいるっていうんですか」

 ワドワクスの後をひきとり、私は言った。

「レグドランに追放されなかった大蛇もいる。その大蛇は、蒼い御影石みかげいしでできたほこらに封印された――らしい。蛇神崇拝者たちは、この地に唯一残っているその大蛇を甦らせようと考えている。大蛇が甦れば、自分たちも不死を手に入れられるからだ」

「大蛇がこの世に? しかも、不死、ですか?」

「今の蛇神崇拝者は、蛇神ヘクロン配下の大蛇の力を借りて不老長寿を求めるだけの集団に成り下がっている。大蛇の唾液――連中が呼ぶ〈蛟漿こうしょう〉が、不老長寿の妙薬だと言われている」

「ジェク君は、呪技遣じゅぎつかいになれないとわかると、今度は蛇神の〈拠代よりしろ〉になろうとした……と、そういうことですか? そんな馬鹿な!」

「そうさ、馬鹿な話さ。誰にだって無理だ。しかし、ジェクのやつは、本気だった。毎晩毎晩、祠へ行っていた」

 と、セネクは苦しげに言った。

「蒼い御影石の祠――大蛇が封印されているという祠が、実在するのか?」

 私が訊ねると、セネクはゆっくりとうなずいた。

「誰もそれが大蛇の祠だとは思っちゃいない。見たところ、単に大きな丘に過ぎない。誰もがただの古い墳墓だと思っていたのさ。けれど、どういうわけかジェクにはわかったんだ。大蛇を封印した祠だってことを。やつの導家の血が、見破らせたのかもしれない。俺にはわからなかったが」

「しかし、いったいそんなところでジェクは何を?」

 ワドワクスが尋ねた。

「わからねえよ。ティマーという、ジェクといちばん仲のいい女の子と一緒に、毎晩のようにその祠へ行って祈りを捧げていたらしい。ティマーは、何でもない普通の女の子だ」

 セネクは肩をすくめた。

 私は言った。

「ヘクロンの僕たる大蛇の覚醒には、生娘きむすめの七つの心の臓が必要だ」

「何ですって?」

 ワドワクスが大声を上げ、湯飲みをこぼしそうになった。私は先を続けた。

「そして、大蛇はすでに六つを手に入れている――あと一つで目覚めることができる」

「ゴルカンさん、あなたは……いったいなぜそんなことを知ってるんです?」

 ワドワクスがあえぐように言った。私はコルメ酒を飲み干し、次の杯を店主に頼んだ。

「……八年前だ。テジンの都に、蛇神崇拝者ヘクロノミの集団が現れた。彼らを率いているのは、マトスという男だった。それまで蛇神崇拝など忘れられた教義だった。確かに崇拝者は以前からテジンにいたのだろう。が、表立って活動することはなかった――マトスが現れるまでは」

「マトスとは何者なんですか?」

 ワドワクスが訊ねた。

「マトスという男は、南の国の生まれだというが、詳しいことは誰も知らない。十数年前に、テジンの都に姿を現した。都の郊外で、かなり大きな学舎まなびやを開いていた。教え子も数多くいた。マトスの賢い――いや、ずる賢いところは、純粋な蛇神崇拝を、不老長寿の教義に変えてしまったところだ。それまでの蛇神崇拝は、さして害あるものではなかった。サイクウムル崇拝や、モルニン崇拝と同じようなものだ」

「それが、いつの間に恐ろしい教義になったんです?」

 私はコルメ酒の杯を一気にあおった。言葉を選びながらワドワクスの問いに答えた。

「人は誰しも『苦しみ』から逃れたい。そのために、神という存在にすがる。が……ただ神を拝んでも、寄進をしても、すぐに目先の幸福は得られない。それは当たり前のことだが、多くの人びとはそれに飽きたのだろう。もっと容易に、手早く、神からの見返りを得たい……そう考える人びとが増えたのだ。マトスの言葉は、彼らには魅力的に聞こえたはずだ。大蛇の唾液さえなめれば、老いとも病いとも衰えとも無縁だというのだから。崇拝の対象は大蛇でなくても何でもいい。蜘蛛神ダイランガの糸だろうが、蛙神リビトスの小便だろうが……とにかく、容易に不老長寿にさえなれれば。人びとのほうが、求めたのさ。今でも求めている――マトスのような耳に優しい、甘い言葉を吐く存在を」

 この店のコルメ酒は、あまり質が良くないようだ。たった二杯で、もう酔いが回り始めていた。そしてその酔いが、私をいつになく饒舌にしていた。

 セネクも頬を赤くして、私のほうを見返した。

「あんた、ずいぶんと蛇神崇拝に詳しいようだな。しかも、やつらと因縁がありそうだ。あんた、何者だい? ただの学舎まなびやの先生とは思えない」

「私は学舎の教師じゃない」

「じゃ、何なんだい? 八年前の事件のことを言い出す人間なんて、近頃、とんとお目にかからない。みんな、すっかりあの事件なんて忘れちまったって顔をしてやがる」

 ワドワクスは、口に持っていきかけたサッキ茶の木椀を机に置くと、じっと私を見た。そして、静かな声で言った。

「八年前に、何があったんですか。その当時、僕は東の国の叔父の家に預けられていて、テジンの出来事は知らないんです。ドゥイータとも関係があるんですか?」

「昔の話だ」

「いいえ、単なる昔話じゃありませんよ。現在と密接につながった『今の話』です」

 私は、コルメ酒よりもずっと強いウコース酒を注文した。

 忘れたつもりだった。記憶の片隅に追いやったつもりだった。

 しかし、フラッカルの亡霊は、八年も経ったのになお、私を責め立てるように、赤褐色のこけの上で横たわったまま、うつろなまなざしを私に向け続けている。

「フラッカルを知っているか?」

 バーテンがウコース酒の杯を差し出した。一口飲んだ。喉が焼ける。胃のが焼ける。

「フラッカル……? ドゥイータのお兄さんですね、八年前に亡くなったという」

「そうだ。彼は、私が殺した」

 杯を空けた。店主に突き出した。店主は黙ったまま、次のウコース酒を注いだ。

「こ……殺した?」

 セネクが裏返った声を上げた。

「そう。私が殺した。八年前だ。私は若かった。フラッカルも若かった。ドゥイータは……幼かった。私とフラッカルは、テジンの都の衛士だった……」

 私はウコース酒を一気にあおった。熱すぎる液体……体の芯へ落ちていく。

 

 八年前――テジンの都で、若い娘が心の臓を抜かれて殺される事件が連続して起こった。私の指揮する隊が担当する都の西部だけで、十三日のうちに五人もの犠牲者が出た。犠牲となったのは、いずれも年齢は十三歳から十六歳までの少女だった。

 私とフラッカルは、被害者がみな同じ学舎まなびやにかつて在籍していたことをつきとめた。それが、マトスが開いた学舎だった。

 私とフラッカルは、マトスという男を追った。そして、マトスが蛇神崇拝者の指導的存在となっていることを知った。

 蛇神崇拝者の間で言い伝えられていることがある。

 この地に唯一取り残され、あお御影石みかげいしほこらのなかに封印された大蛇を甦らせる唯一の方法が、たった一つだけある――七人の処女の心の臓から絞った血を捧げるのだ。

 マトスは、少女の心の臓を大蛇覚醒のために必要としているのではないか。

 証拠はなかった。

 私は衛士隊員たちに、マトスがかつて教えていた学舎の教え子を護衛するよう命じた。生徒一人につき、一人の衛士が護衛にあたることになった。

 学舎の生徒のなかには、当時十六歳だったドゥイータもいた。ドゥイータの担当は、現在では衛士隊長となっているベリーグだった。その当時のベリーグは、隊のなかでも随一の跳ねっ返り者だった。私が、彼をさしおいて隊長になっていることに、絶えず不満と怒りと妬みを抱き、それを隠そうともしない男だった。が、優秀な衛士だったことは確かだ。だからこそ、私はドゥイータの護衛担当に彼を選んだのだ。

 ドゥイータの兄、フラッカルもまた衛士だった。私の直属の部下だった。私が彼に護衛させたのは、十五歳のキロエという少女だった。赤い髪に碧の瞳を持った少女だった。十九歳だったフラッカルは、いつしかキロエに思いを寄せるようになっていた。キロエもまた、若く熱い情熱を持った衛士のフラッカルを、憎からず思っていたようだ。

 護衛を開始して、九日目のことだった。キロエの家へ、黒装束のぞくが侵入した。フラッカルは、たった一人で剣を抜き、賊に対峙した。フラッカルも、そして私自身も予想していなかったことだが、侵入者は手練れだった。それでもフラッカルは、二人の賊を斬り捨てた。

 だが、そこまでだった。

 翌朝、衛士局の部屋で仮眠を取っている私の許へ、二人の部下が跳び込んできた。

 その瞬間に、私は最悪の事態を想像した――それは、杞憂とはならなかった。

 キロエの姿はなかった。

 キロエの家で見つかったのは、二人の黒装束の屍体、無残に斬られた血みどろのキロエの両親と祖父母、兄の亡骸――そして、無残な姿で息絶えているフラッカル。


「フラッカルは、最後まで賊を追ったのだろう。キロエの家の裏、暗い林の中で、赤褐色のゾイラごけの上で眼を見開いたまま、私をにらみつけているように死んでいた」

 そう言って、私はまたウコース酒を注文した。

 耳の奥の方で、号泣するドゥイータの声が響き渡っていた。兄の遺体を見たときのドゥイータの悲鳴。

 ――ゴルカンの馬鹿! お兄ちゃんを返して!

 何度も何度も私の胸に叩き付けられた少女の拳。その痛みがまざまざと甦った。

 ――ゴルカンが……ゴルカンが、代わりに死ねばよかったんだ!

 叫ぶ少女の声。

 ウコース酒が来た。あおった。苦かった。痛みを消してはくれなかった。

「全身にひどい火傷を負った無惨な遺体だった。まるで、雷に撃たれたかのようだった」

「馬鹿な……そんな呪技みたいな事が……」

「おそらく呪技遣いも、彼らの仲間の一員だったんだ」

 我々は黙り込んだ。急に〈ヨツクビヘビの舌〉亭のなかのざわめきが、耳にさわり始めた。

 口を開いたのは、セネクだった。

「なあ、あんた、キロエという子はどうなったんだ?」

 私は杯を取った。とうに空になっていた。杯の底をながめた。何も見えなかった。

「遺体が見つかった。街はずれの暗渠あんきょの中に裸で――心の臓を抜かれていた。衛士隊は必死にマトスたちの居所を捜索した。が、連中は姿を消し去っていた。それ以来、連中の消息はようとして知れなかった。事件は、解決できなかった。が、それ以上の犠牲者が出ることもなかった。迷宮入りのまま、この忌まわしい事件は終わった……ことにされた。誰もがその事件を思い出そうとしなかった。私は衛士を辞めた。西の国へ行った。そこで、すべてを忘れようとした」

 沈黙が落ちた。

 不意に、店内の喧噪が鼓膜に突き刺さってきた。酒精で濁った脳髄が悲鳴を上げている。

「行こう!」

 いきなり立ち上がったのはセネクだった。

「どこへ?」

 いぶかしげなワドワクスに向かって、セネクは答えた。

「祠だ!」

「祠? 大蛇が眠っているという祠? 知っているんですか、その場所を?」

「大蛇はもう眠っちゃいないかも知れないぜ」

 セネクが言った。

 私も、同じことを考えていた。


「蛇神覚醒」第三話へつづく

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