蛇神覚醒 〈灰色の右手〉剣風抄

美尾籠ロウ

第1話

 何者かが私の小屋に近づいていた。

 一角犬グンが耳をぴんと立てた。

 私には何も聞こえなかった。が、一角犬の聴力は我々、大人族コディークよりもずっと敏感だ。

 私はシュカの木を削る手を止めた。小刀とシュカの木を机に置いた。手を伸ばし、暖炉の脇に立てかけた剣を取った。ひんやりとした柄――握りしめる。

 グンは、私が今彫りかけている木像と同じように身動き一つしなかった。扉の向こうを見つめていた。額から生えた一本の角も微動だにしない。

 私は、ゆっくりと剣のさやを払った。暖炉の炎を浴び、刃が鈍く光った。

 日没をかなり過ぎている。こんな刻限に私の小屋の近辺をうろつくのは、盗賊か死者か人喰い鬼くらいのものだ。剣の柄を握りしめた。扉の脇に寄り、心張り棒を外す。

 私の耳にも足音が届いた。グンが低くうなる。足音は、入り口の扉の前で止まった。

 一気に扉を押し開けた。剣を突き出す。短い悲鳴。手を伸ばす。相手の肩を摑んだ。引き寄せる。刃を喉元に押しあてた。

「ま、ま、待って下さい」

 若い男だった。年は私より七つか八つ下か。痩せて長身、骨張った体つき。やや赤みがかった髪。紺色の外套は砂埃にまみれていた――北の国の装束。両眼は恐怖と驚きで見開かれている。が、すぐに冷静さを取り戻した。知性が秘められている瞳だ。

「あなたが、ゴルカンさんですね」

 男は言った。

 武器は帯びていないようだった。私は剣を引いたが、鞘には収めなかった。グンも男をにらみつけたまま、鼻をくんくん鳴らし、男の周囲をゆっくりと回っていた。

「誰だ、あんたは?」

 私は訊いた。男は安堵したように息を吐き、じっと私を見返した。もう恐怖や驚きは、微塵も感じられなかった。落ち着き払っている。

「ワドワクスという者です。テジンの都から来ました」

 私は剣を鞘に収め、暖炉の脇に剣を立てかけた。目顔で合図すると、男はすぐに察した。室内に入り、扉を閉めた。

 私は男に椅子を勧めた。男は軽く会釈をして腰掛けた。

「長旅だったようだね」

「疲れました。車屋に飛ばしてくれと言ったら、ほんとうにとんでもない速度で走るもので。お陰で、いまだに体が揺れているような感じがします」

 グンはまだ男をにらみつけていた。私は言った。

「グン、もういい。この人は客だ」

 グンは素直に頭を垂れ、暖炉の前へ移動すると座り込んだ。しかし、視線はワドワクスと名乗る男から離そうとしなかった。

「一角犬ですね。西の国では、はじめて見ました。野生の一角犬は、南方と、海向こうの諸島にわずかしか生き残っていないはずです」

「この村にいる一角犬はこいつだけだよ。人間があまり好きじゃないようだがね」

 私は男から外套を受け取り、壁の釘に掛けた。男は、私の小屋のなかを見回していた。私は土瓶のペン茶を椀に注ぎ、男に差し出した。

 男は、机の上のシュカの木と木屑を見つめていた。さらに、暖炉の脇の棚に眼を移す。そこには私の「作品」が並んでいた。遠吠えをする一角犬。眠る一角犬。走る一角犬。耳を立てた一角犬。うなる一角犬。シュカの木を彫った小さな人形たち――小手先の芸だ。

「すばらしい。全部あなたが彫ったんです?」

「そう。こんなことしかできない人間でね」

「いやいや、ご謙遜なさることはない。これは立派な芸術だ。触れてもいいですか?」

 私はうなずいた。男は棚を眺め、そして、一つの人形を取った。その人形だけが唯一、一角犬ではなかった――剣を持った女剣士の像。

「この表情――」

 男はため息混じりに言った。

「激しく怒り、哀しんでいる。まだ若い少女だ。剣の重さに体が振り回されている」

 私は自分の木椀にペン茶を注いだ。飲み干した。私は言った。

「冷めかけてる。熱い茶を淹れよう」

 男は女剣士の像を棚に戻した。が、依然、その像を見つめたまま、彼は言った。

「テジンの都の隣りに、ブレジクという街があります。小さな街ですが」

「知っているよ。私は昔、テジンにいた」

 もう八年もたつ。短いようで、それなりに長い時間だ。

「僕は、そこで博物学の研究をしています。しかしそれでは食っていけないので、学舎まなびやの手伝いも時々やっています。子供たちに読み書き、算術を教えているんです」

「立派な仕事だ」

 世を捨て、村外れでつまらぬ彫刻を作っている男よりは、はるかに誇れる生き方だ。

 私は茶葉を捨て、土瓶に新しいペン茶の葉を入れた。小鍋で湯を沸かし始めた。

「あの彫刻――」

 男は突然言った。

「何だね?」

「あれは、ドゥイータですね」

 振り返った。じっと男を見つめた。狼狽を表に出さぬようにした。

 ブレジクの名を聞いた時点で、彼女の名前が出るのを予想すべきだった。

「ドゥイータも、学舎で教えているのです。正確に言うと、ブレジクの学舎はドゥイータが開いたものなのです」

「そうか……それは知らなかった」

 八年――無鉄砲なお転婆娘が、子供たちの教師になるには充分な時間かも知れない。

 あるいは、衛士えいし隊長がつまらぬ世捨て人になるには。

「僕は、彼女と結婚することになっていました」

 私は黙っていた――こんな場面で言うべき言葉など、私は持ち合わせていない。

 湯が沸いた。土瓶に注ぎ、土瓶の中で茶葉を充分に踊らせた。苦く、濃く出るだろう。

 私が新たにペン茶の男は椀を受け取った。が、茶を口にせず、彼は言った。

「ドゥイータが、消えたのです」

「消えた?」

「十日前から行方が分からないんです。しかし――」

 男は言い淀んだ。私は彼が続けるのを待った。思い切ったように、彼は言った。

「しかし、ここにはいない」


「僕は北方に住む蝶の標本の採集のために、しばらく亜麻淵あまふち湖まで旅をしていたのです。ブレジクに戻ってみると、ドゥイータがいなくなっていた」

「彼女は自分の意志で姿を消したのか、それとも、何者かに連れ去られた?」

「ブレジクの彼女の下宿を調べました。旅支度をしていた様子がありました。下宿の女主人は、十一の日の早朝、つまり、ちょうど今日から十日前、まだ夜が明けぬ頃に、二階のドゥイータの部屋から人が出ていく気配があった、と言っていました」

「一人の気配が?」

 ワドワクスはその意味をすぐにはとらえられなかったようだ。少しの間を置いて気持ちを落ち着けるように深呼吸してから、彼は言った。

「足音は一人だった、と女主人が言っていました。夜中に、誰かを自分の部屋へ入れるような人じゃない、ドゥイータは」

「ならば、彼女が自ら旅に出たということだろう。今の彼女は子供じゃない」

「そう僕も思いましたよ。けれど、僕との婚礼の式まで、あと二十日もない。そんなとき、旅に出ますか? 僕に何も言わずに」

 ワドワクスの口調は決して激することはなく、穏やかで冷静だった。その表情は、自分がドゥイータに愛されていること、そしてドゥイータを愛していることに対して、揺るぎのない自信を持っていることを示していた。そんな彼を前にして、私が何ら胸の疼きを感じなかったと言えば、嘘になる。

「それで、僕は考えました。たいへん言いにくいのだけれど……」

「私のことか」

「そう。学舎で働いている爺やから、あなたの存在を聞きました。セイロウさんです」

「ほう、セイロウ爺はまだご存命だったか。私をどう言っていたか、おおよその見当が付くよ」

「いえ、詳しいことは何も。セイロウさんは、多くは語ろうとしなかった。ただ、ゴルカンという男が今、西方のサンナ村にいる。彼女はその男の許に行ったのではないか、と」

「なぜだね?」

 私は尋ねた。

「ドゥイータと最後に会ってから、もう八年たつ。なぜ今になって会う必要がある?」

「彼女は、僕との結婚が嫌になったのかも知れない。そう思ったんです。そして、かつて愛した男の許へ向かった……」

 熱いペン茶を噴き出しそうになったのを、かろうじて耐えた。

「ちょっと待ってくれ、何と言った? その『かつて愛した男』というのは……?」

「無論、あなたですよ。ほかに誰が?」

 私は笑い出していた。

「馬鹿げている。私は一度たりとも、彼女に愛されたことなどない。彼女が私を殺そうと思ったことはあろうが、愛したことなど、一瞬たりともあり得ない」

「どうしてそんなことを? あなたとドゥイータの間に何があったんです?」

「彼女やセイロウ爺があんたに言っていないのなら、私の口からも言うべきじゃない」

 ワドワクスは、ぼんやりと視線を暖炉の脇の棚に向けた。私はその視線を追った――一つのシュカの像があった。女剣士。怒りと哀しみのかお貌――私を殺そうとしている少女。

「あんたには無駄足を踏ませたようだ」

 ワドワクスは無言だった。一度、女剣士の像を見やった。そして、立ち上がった。

「夜遅くに、とんだお邪魔をしてしまいました」

「宿は取ってあるのかね?」

 私は彼の外套を取ってやった。

「いえ。これから探すつもりです」

「もう夜も更けた。サンナの中心街へ向かう森の道は、危険だ。最近、追い剥ぎが多いんだ。人喰い鬼や人狼が出るという噂もある。私も一緒に行こう」

「一人で大丈夫ですよ」

 とは言ったものの、ワドワクスはどこか不安そうだった。

「ここはテジンやブレジクとは違う。田舎だ。夜は人間のものじゃない。太陽が地平に落ちた後に、武器も持たずに出歩くのは狂気の沙汰だ」

 私は剣を腰に帯び、黒い外套をまとった。そして、グンに言った。

「留守番を頼むぞ。誰かが来たら、構わないから喉笛に食いついてやれ」

 グンは短く吠えて答えた。

 小屋を出た。私たちは暗い夜道を歩き始めた。ほぼ満月に近い緑月が南の空高くにあり、下弦の赤月が東の空から上ろうとしている。

 私は言った。

「あんたは言ったね。結婚間近で一人旅などするか、と。彼女なら、するかも知れない」

「何ですって?」

「ドゥイータは、するかも知れない。彼女なら、誰にも何も言わず、自ら心に決めたことを、たった一人でやってのけるかも知れない。彼女は、そういう人だ」

 ワドワクスは黙り込んだ。

 小道は森の中へと続いた。これから四半時ばかり森のなかを歩くことになる。

 ワドワクスがぽつりと言った。

「ゴルカンさん……僕は、悔しいんです。そして、あなたがうらやましい」

「どういうことだね?」

「あなたは――」

 言いかけたワドワクスは、一つ大きく息を吸った。そして、言った。

「僕よりもドゥイータという人を知っている。それが、悔しい」


 ワドワクスを〈豹の爪〉亭に送り届けた後、私は酒場へ向かった。心が波立っている。酒精の助けが必要だった。サンナ村に五軒ある酒場の中で、私が足を踏み入れるのは一軒だけだ。小人族オゼットの偏屈な老人、ヘスクスが経営する〈クトラシア〉だ。

 もっとも奥の止まり木に腰を下ろすと、ヘスクスは何も言わずにコルメ酒の杯を出した。

「今日はいつもより混んでいるようだね」

 私が言うと、ヘスクスはにやっと笑みを見せた。

「ありがたいこってね」

「見かけない顔ばかりだ。旅人か」

 店のいちばん奥では、肩から黒い布を掛けた三人の男たちが顔を寄せ合っている。

「うちの店にゃ、まっとうなサンナの村人なんか来やしないさ。現れるのは、あんたみたいなはぐれものか、何も知らない旅人だ。そうそう、あの旅人たち、何者だと思うね?」

 ヘスクスは顔を私のほうへ寄せ、声をひそめた。

「さあ。装束からすると、西から来たようだが」

 ヘスクスはいっそう私に顔を近づけた。私は眉をひそめ、顔を引き、コルメ酒をなめた。

「ボレリアから来た『ヘクロノミ』だ」

 私は杯を飯台に置いた。私はそっと男たちを振り返った。

 ヘクロノミ――蛇神ヘクロンを崇拝する教団ヘクロノムの信者たち。蛇神に生贄を捧げ、不老不死を得るためにおぞましい儀式を行なっている、という噂だけが、まことしやかに世間に拡がっていた。そして私自身も、彼らと関わったことがあった――八年前。

「どうして連中がサンナに?」

「噂だがね、水晶山へ向かっている途中なんだそうだ。そこで蛇神崇拝者が大蛇を召還しているとか。蛇神ヘクロンの配下の伝説の大蛇が、たいそうな御利益ごりやくをもたらしてくれるってえ話さ。水晶山には、あちこちから御利益求めて人が集まってるんだとさ。あっちの酒場は大賑わいだろうな。なあゴルカン、大蛇など、ほんとうにこの地にいるのかい? あんたは前、都会にいたんだろう。テジンの都で衛士をやってたそうじゃないか。俺よりも学があるはずだ。いろいろなことを知っているんじゃないのかね?」

「さあね、私は蛇神も半牛神も火龍も見たことはない」

 ヘスクスは「はっ」と声を上げて短く笑った。

「見たことがないから存在しない、と考えたくはないが、とりあえず私にはどうだっていい。大蛇が空を飛ぼうと、火龍が『闇の言葉』を吐こうと、私には関わりない」

「さすがゴルカンだ。達観しているな。もう一杯は、俺がおごろう」

 ヘスクスは、空になった私の杯にコルメ酒をなみなみと注いだ。

「ところでゴルカン。フピースがあんたを探していたよ。どうせ、彫刻の催促だろうがね。おっと、その名を呼べば、マーケン神現るってえやつだ」

 入り口を、貧相な小男がくぐるのが見えた。フピースだった。相変わらず、乞食と見まごうばかりのいでたち。西から来た旅人たちの一人が銀貨を投げ与えるのが見えた。フピースは、喜びもせず、怒りもせず、平然と銀貨を床から拾い上げ、ボロの袂に入れた。

「おお、ゴルカン、ゴルカン。今宵の緑月は、いつにも増して大きいではないか?」

 フピースは私の隣の止まり木にちょこんと腰掛けると、見えるほうの左眼でぎろりと私を見た。そして、勝手に私の杯を取り、一気にコルメ酒を飲み干した。

 フピースは、予言師を自称する小男だった。サンナのあちこちを徘徊し、怪しげな「予言」や「占い」を行なっていた。年はわからない。四十代から八十代のいずれにも見える。皺だらけの浅黒い顔、背中の中程まであるくすんだ橙色の髪、節くれ立った手。いつ見ても同じ、垢じみたボロをまとっている。その汚い布は、よく見ると北方の国特有の茶色い格子柄である。しかし、フピースが北方出身であるかどうかは、さだかでない。

 フピースは私からシュカ像をはした金で買い、それらに「術」とやらを施して、お守りとして売って暮らしていた。つまり私は、乞食まがいの似非えせ予言師から、さらに施しを受けている人間だ。

「頼まれていた像だがね、もう少し待ってくれないか? 二エーム(約六十センチ)もある一角犬の像なんか、そうたやすく彫れるものじゃない」

 実は掘り始めてもいなかった。

「そんなことはどうでもいい……とは言わぬが、もっと差し迫った重大事なのだ」

 私は苦笑し、ヘスクスにもう一杯のコルメ酒を頼んだ。ヘスクスが差し出した杯をあおった。フピースの言う「差し迫った重大事」とやらは、半月に一度ほど起こる。

「このあいだは確か、雷神カルピーアが紫色の稲妻を落とす、って言ってたな」

 ヘスクスが口を挟んだ。フピースはかぶりを振り、苛立たしげに言った。

「予言師の言葉を有り難く拝聴せぬか。ゴルカン、おまえの背後に見えるのだ」

「何が?」

 死びとの姿でも見えるというのか――例えばドゥイータの兄、フラッカルの細い肩が。

「蛇だ」

 そう言いながら、フピースは意味ありげににやりと笑みを見せた。ひび割れた唇の間から、茶色い歯が見えた。

「蛇? どんな蛇だね?」

「大蛇だ。おまえさんの体に巻き付く大蛇の姿が見えたのだ」

 まず声を上げたのはヘスクスだった。

「はっ、この爺さん、店んなかを見て、思いつきを喋ってやがるな」

「何を言うか。この小人風情が」

「けっ、文句があるならさっさと出ていきな。このインチキ予言師め」

「まあ、二人とも、やめるんだ。私がコルメ酒を一杯ずつおごる」

 いつもの口論。仲裁するのは、結局私の役目となる。ヘスクスは、しぶしぶといった様子で二つの杯にコルメ酒を注ぎ、一つをぞんざいにフピースのほうへ押しやった。

「私と蛇とどういう関係があるというんだ?」

「ガラミの術さ。おまえさんは見たことがなかったかな」

 そう言うなりフピースは、どこにそんなものをしまっていたのかボロの下から深皿のようなものを取り出した。人の顔ほどもあるだろうか。銅でできているようだった。

「水をくれぬかね。きれいな水を」

「なんだい、今ここで実演しようってえのかい?」

 不満そうな声を上げたヘスクスだったが、その実、好奇心を抑えられないようだった。水差しをフピースの眼の前に置いた。彼は水差しから深皿に水をなみなみと注ぎ入れた。

「塩だ」

 フピースは深皿の底の、さらに奥のほうを見つめているような顔つきで言った。見えないはずの右眼までもが、ぎらぎらと濡れた光を発している。ヘスクスは、いささか気圧けおされたような表情を浮かべ、塩の壺を差し出した。フピースは塩壺を傾け、塩の粒をより分けるようにして、少しずつ塩を深皿のなかに落とした。

 フピースの唇が、べつの生き物であるかのように蠢き始めた。かすかに、呪文のようなものが漏れ聞こえてくる。しかし、何と言っているのかは聞き取れなかった。

 フピースのつぶやきはしばらく続いた。私は深皿の中を覗き込んでみた。が、そこには溶け残った塩粒がたまっているだけで、何の変化もない。ヘスクスは早々に興味を失い、「はっ」と短く声を出した。そして飯台の端に座った新たな客のほうへ行ってしまった。

 コルメ酒がなかなか体に回らない。いつまでも寒かった。勘定を払って店を出ようと、懐に手を突っ込んだときだった。

 押し殺した声でフピースが何ごとかを言った。その顔は、小刻みに震えている。

 かちかちかち――という音が聞こえた。深皿が飯台の上で揺れていた。水面に同心円状の波が立っている。

「フピース?」

 答えはなかった。フピースは、白眼をいていた。

「り、りりろぉ……」

 フピースの声はしわがれ、地の底から聞こえてくるかのような怪しい響きを持っていた。

「何だ? 何と言ったんだ?」

「りりろぉ……ちをすい……やみのいろ……そまる……」

「どういう意味だ?」

 不意にフピースの体が大きく揺れ始めた。眼に見えぬ手に肩を摑まれ、振り回されているように見えた。深皿の水が小刻みに震動している。水滴が飯台に散らばり始めた。

「大丈夫か、フピース!」

 フピースが口を開いた。その隙間から、しわがれた呻きが漏れた。

「ナヴァーサ……」

 そう聞こえた。

 フピースの上体の揺れが大きくなった。深皿がさらに音を立てて跳ね上がっている。

「名は、ナヴァーサ!」

 今度ははっきりと聞き取れる声だった。フピースは、まるで深皿から顔を離そうと、眼に見えぬ力に抗っているかのようだった。私は彼の両肩を摑み、ぐいと引き寄せようとした。石のように、固い。深皿の中を覗いた。激しく波立っている。しかし、その水面には何ものも映し出されてはいなかった。

「フピース! 眼を覚ませ!」

「おおくちなわ、みなみへ……とぶ!」

 フピースが叫んだ。その声は〈クトラシア〉中に響いた。

 次の瞬間だった。背後で、ひどく聞き慣れた音が聞こえた。金属同士が擦れあう軋み――剣の鞘を払う音。

 体が先に反応した。剣の柄を摑んだ。抜いた。振り向いた。三人立っていた。抜き身を手にしている。西方からの旅人――蛇神崇拝者ヘクロノミたち。

 左の男が飛びかかってきた。剣で払った。右の男の突き。狙いはフピースだ。返す刃を叩きつけた。金属の響き。男が剣を取り落とした。中央の男は剣を上段に振り上げた。肩から飛び込み、男に体当たりした。男がのめった。剣を拾った右の男が剣を振り下ろす。刃で受けた。一気に振り下ろした。手応え。男の剣が床に落ちた――右腕とともに。

 再び、沈黙が満ちた。誰もが動きを止めていた。男がゆっくりと床にうずくまった。

「『おおくちなわ』とは何だ? おまえたちの神か?」

 私は〈クトラシア〉内を見回し、言った。

「口に、出すな……。貴様どもけがれ人が口にしていい名ではない」

 片腕を失った男が、喉の奥から絞り出すようにして答えた。

「口にしただけで斬られねばならないのか? おまえたちの神は、偏狭だな」

「貴様の背骨が毒で朽ち果てんことを!」

 男は言い捨てた。三人の蛇神崇拝者たちは、物音も立てずに素早く店から出ていった。連中は律儀にも、斬られた腕を持ち去ったようだ。床にはどす黒い血の染みだけが残った。

「くそっくそっくそっ! ゴルカン、なんてことをしてくれたんだ!」

 今までどこに隠れていたのか、ヘスクスが酒棚の陰から私をにらみつけていた。

「よりによって流血沙汰とは! なんてことだ、ゴルカン。大損害じゃないか!」

 私は彼には構わず、フピースの肩を揺すった。フピースは立ち上がりかけたが、すぐにふらつき、床の上にぺたりとしゃがみ込んだ。

「血……!」

 フピースはすぐそばの血だまりを見つけ、うわずった声を上げた。

「ひっ、ゴ、ゴルカン。この血は? わ、わしは、斬られたのか?」

 フピースは激しく体をまさぐり始めた。ヘスクスは、蔑みきったような眼でフピースと私を交互にねめつけ、苛立たしげな声を上げた。

「けっ、てめえのことがわからないくせに人の運命を占おうたあ、とんだお笑いぐさだ!」

 私はフピースを抱き起こした。ぷん、と垢と汗と埃の匂いがした。

「あんたは怪我なんかしていない。さあ、出よう」

 フピースは口の奥の方でもぞもぞと何ごとか呻き、よろめきながら立ち上がった。

「ちょいと待ちな、ゴルカン。お代がまだだ。それに、迷惑料もな!」

 私は、懐にあった金貨七枚を飯台の上に放った。少なくともコルメ酒十五杯分にはなる。

 ヘスクスは、黄金色の輝きに口元が緩みそうになるのを、必死に隠そうとしていた。が、それはうまくいっていなかった。

「し、しかたねえ。あんたはとは長い付き合いだ、これで勘弁してやるさ。だがな、今度また店んなかでその長いもん振り回したら――」

「出入り禁止か?」

 私が言うと、ヘスクスは一瞬口ごもり、

「ま、金貨七枚ってえわけには、いかないぜ」

 私は何も言わず、フピースとともに〈クトラシア〉をあとにした。

 夜は赤味を増していた。緑月がかなり傾き、代わりに下弦の赤月が高く昇って来たのだ。

「しかし驚いた。あんたがほんとうに術を使えるとはね」

 酒場の並ぶ通りを歩きつつ、私は言った。

 そこでフピースは大きく嘆息した。

「ゴルカン、わしは……わしには、わからんのだよ。ほんとうに何かが見えたのか」

「つまり、あんた自身は覚えていないというのか、さっきのことを」

 フピースはかぶりを降った。

「これは驚きだ。あんたは、確かに何かを見たんだよ、あの皿の水のなかに」

「何と言っておった? わしは、いったいぜんたいおまえさんに何を言ったんだ?」

 私は肩をすくめた。

「私にしたら、意味不明の言葉だがね。なんとかが闇の色に染まる、とか」

「闇の色? 何だ?」

「さあね。あんたが知らないなら、どうして私にわかる? その後に、何か名前のようなものを言ったよ。ナヴァ……そう、ナヴァーサと」

「何語だね、それは?」

「あんたが言った言葉だよ。そして次には『おおくちなわ』が南へ飛ぶ、とね。すると、あの連中があんたに斬りかかった。『おおくちなわ』が、蛇神の僕の大蛇を意味していると考えるのが当然だ。それが『南へ飛ぶ』とは、奇妙な話だが」

 フピースは五百洲いおす川の玉砂利でも飲み込んだかのように、不機嫌に黙り込んだ。どこか遠くで、シマオオカミの吠え声が聞こえた。

 フピースが重々しく口を開いた。

「ゴルカン、ゴルカン。わしはな、夕べ、夢を見たのだ」

「私だって、たまには夢くらい見る。ろくでもない夢ばかりだがね」

 フピースは首を左右に振った。

「おまえさんを見た。夢のなか、おまえさんに巨大な蒼い蛇が巻き付いていた」

「蒼い蛇? 『おおくちなわ』というやつか」

「そりゃ、わからん。とにかく、蛇が見えたのだ。灰色の息を吐き、空を駆ける蛇だ。だからな、ゴルカン。今宵はおまえさんを探していたのだよ」

「すまないが、フピース。私はあんたの予知夢とやらを信じる気にはなれないね」

 フピースは、明らかに気分を害した様子だった。

「ふん、それならそれでも構わんさ。しかしな、しかし……はじめてなのだよ」

 そう言ってフピースは深く深く吐息を夜気の中へまき散らした。

「わしはな、もう六十六年も生きた。いったいいくつの夜を過ごしてきたと思う? 二百の夢を百以上も見たことになるのだぞ、わかるか? わかるか? ゴルカン」

 私は肩をすくめた。

「二百の百倍もの夢を見てきたわしが、だ。夕べははじめて匂う夢を見たのだ」

「夢で、匂いがした?」

 フピースは赤月を見上げた。

「蒼蛇の匂いがな。蒼蛇の生臭い吐息の匂いがしたのだ。ぬらぬらと青黒く光る舌の匂いがな。毒牙の匂いがな。ああ、おぞましい匂いだった!」

「その蒼蛇は何か言ったのか?」

「うむ、記憶の襞のなかにこびりついておるぞ。蒼蛇は確かに言った。『我に新たな若き血を与えよ。されば……』ええと、そのあとは何と言ったかな……」

「若き血、だって……?」

 私は眉をしかめた。

 思い出したのだ。キロエ――赤い髪にみどりの眼をした少女のことを。八年前、胸を切り裂かれ、心の臓を抜かれて殺された少女。そして、その少女を愛したフラッカルのことを。

 フラッカル――私が殺した男。ドゥイータの兄。

「ゴルカン、ゴルカン、避けては通れんぞ。逃れられるなどとは思うでない」

 不意にフピースは言った。

「逃れる? 私が、逃げようとしていると言うのか?」

「ほう、違うのかい? おまえのその真っ黒な瞳を見ればわかる。夜の神クオナースの掌に、この心持ちをぬぐい去ってもらい、独り安らかに眠ろうと思っておろう?」

「なんとね」

 フピースは、手のかかる幼子でも見るかのような眼を私に向けた。

「わしは、わし自身が何と言われているか知っておるさ。しかし、気の違った似非予言師でも、これだけはわかるぞ。おまえさんは、対峙せねばならんのだ」

「何と、対峙する?」

 私が問うと、フピースは見える用の左眼をぐいと見開いた。

「己が自身よ。傷だらけで、ひび入り、欠けたところばかりの土器かわらけのごとき己が自身」

 しわがれた声でそう言うと、出し抜けにフピースは黄色い歯をむき出し「ひゃっ、ひゃっ」と品のない声を上げて笑い出した。

「うむ、わしの言葉は金の言葉、ありがたく受け取れ」

 再びフピースは甲高く笑い、歩き出した。

「なんとね」

 私は赤月に向かってつぶやいた。


 翌朝、青米の粥と三つ角牛の乳を入れたペン茶で朝食を摂っていると、扉を叩く者があった。一角犬グンは耳をぴんと立てたが、ムラサキツチネズミの肉を喰う行為をやめようとはしなかった。それで、私は扉の外に立っているのが誰なのかわかった。

「おはようございます」

 ワドワクスは私を見、そしてグンを見て微笑んだ。彼は旅支度を終えていた。

「やあ、おはよう。グン、おまえも挨拶するんだ」

 グンはちらっとワドワクスを一瞥し「くん」と鼻を鳴らすと再び肉に食らいついた。

「あの宿屋の朝食は、たぶんあんたの口にはあわなかったと思うが……」

 ワドワクスは、改まったような表情で私を見た。

「昨夜はすみませんでした。遅い時間に突然おしかけ、失礼なことまで言ってしまった」

 私はかぶりを振った。

「気にしてはいないよ。もう、発つのかね?」

「ええ。長居はしていられません。こうしているあいだにも、ドゥイータは危険に巻き込まれているかも知れない」

 私はワドワクスを部屋に招じ入れた。木椀にペン茶を注ぐと、差し出した。

「これから、テジンの都に戻ります。もう一度情報を集めてから、出直したいと思うんです。それに、案に反して僕がこっちに来ている間に、彼女は帰っているかも知れない」

 ワドワクスは少しだけ哀しげに笑い、ペン茶を飲み干した。

「ドゥイータは、おそらく戻ってはいないよ」

 私は言った。ワドワクスは、持ち上げかけた木椀を下ろし、じっと私の顔を見据えた。

「あなたには、わかりますか?」

「あんたにも、わかっているんだろう?」

 ワドワクスは、一瞬苦笑いのような表情を浮かべた。が、すぐにその気配は消え去った。

「あなた以上にわかっている、と言いたいところですが……」

 私は乳入りのペン茶を飲み干すと、立ち上がって洗い場へ食器を運んだ。水瓶に汲み置いた水で木椀と皿を洗いながら、私は言った。

「私が行くと言ったら、迷惑かな?」

「何と言いました?」

 私はワドワクスを見返した。

「私も、あんたと一緒にテジンへ行こうと考えている」

 ワドワクスは動きを止め、口をつぐんだ。

「あんたが迷惑だ、来ないでくれ、と言っても、私の気持ちに変わりはないよ」

「やっぱりあなたは……」

 言いかけてワドワクスは口ごもった。

「何だね?」

「いえ……あなたがもう決心しているというのなら……僕は黙って従うしかない」

 ワドワクスは静かに言った。

「少し待ってくれるかな。支度をしたい」

 ワドワクスは無言のままうなずいた。


 グンを連れ、ワドワクスとともに村落へ出た。さんざん探し回った末、なんのことはない、昨夜別れた〈クトラシア〉の前で眠りこけているフピースを見つけ出した。

 寝ぼけまなこのフピースに、グンの世話を頼むと、フピースは眼を丸くした。

「驚きじゃないか、えっ? おまえさんが村を出るとは! 何年ぶりだ?」

「あんたが夕べ言っただろう」

「夕べ? 夕べおまえさんとなど会ったかな?」 

「会ったさ。覚えていないのか?」

「ええい、やかましいわい。覚えておるさ。ええと……何を話したかな」

 私は苦笑した。

「あんたの言うとおりだ。私は、逃げるわけにいかないらしいんだよ」

 左眼をきょろきょろと動かしているフピースを置いて、私とワドワクスは二頭立ての四輪蟲車を拾った。御者は十五歳を越えてはいない少年だった。手綱につながれた二頭のハイイロカケトカゲが、舌をちろちろと出しながら荒い息を吐いている。

「テジンの都までだ。急いでくれ」

 金貨を五枚渡すと、少年御者は眼を輝かせた。


 少年御者は張り切り、蟲車を疾走させた。が、途中で雨に降られ、五百洲いおす川の手前の小さな旅籠はたごで一泊せざるを得なかった。テジンの検問に着いたのは、翌日の正午頃だった。

 五百洲川にかかる大熊ノ口橋を渡り、街道を進むと北の国へ入る検問に着いた。濃緑色に染めた皮の制服をまとった二人の男がいかめしい顔つきで、旅人たちを睥睨へいげいしていた。

 かつては、私も彼らと同じ制服をまとい、人びとを高みから見下ろしていた頃があった。

 蟲車が検問にたどりつき、御者の少年はふんぞり返った衛士たちに卑屈な笑みを浮かべて応対した。ハイイロカケトカゲは二頭とも「ぐるるる」と怒ったような声を上げた。

 衛士の一人が蟲車の脇へ近づき、扉を一気に引き開けた。

「二人だけか?」

 私より少し若い衛士は、年に似合わぬ胴間声どうまごえで言った。

「ブレジクに住んでいるワドワクスという者です。西の国から帰ってきたところです」

 ワドワクスが答え、通行証を見せると、衛士は鼻を鳴らした。そして車の奥の座席の私に眼を向けた。次の瞬間、衛士の顔が固まった。

 私は言った。

「どうした、蛙神リビトスみたいな顔をして」

「あ、あ、あなた……は……」

「私はこちらのワドワクスさんの友人だ。西の国から来た」

 衛士はあわてふためいた様子で素早く車から離れ、もう一人の衛士のほうへ駆け寄った。私はため息をつき、彼らの様子を眺めた。

 若い衛士は、もう一人の年かさのほうを連れて戻ってくると、私をぞんざいに指さした。

 鼻の下に似合わぬ髭を生やした年かさの衛士は、車のなかの私を認めると、にやにやと黄色い歯をむき出して笑った。

「これはこれは、なんとまあ珍しい。光の女神が雨の女神と手をつなぐことがあったとしても、貴様がテジンへ戻ってくることは決してあるまいと思っていたぞ」

「雑談はいい。通してくれるのか、くれないのか、どっちだね? ベリーグ」

 私が言うと、ベリーグは鼻の穴を広げ、わざとらしく息を吐いた。

「いったい何年ぶりかね。六年、いや、それ以上だ。あのゴルカンが、はっ、〈灰色の右手〉のゴルカンが、テジンに現れるとはな!」

「急いでいるんだ。早く通してくれないか」

「そうはいかんな。さ、降りてもらおう」

 ベリーグは、私の腕を摑み、引きずり出そうとした。私は逆らわず、車から降りた。

「詰所まで来てもらおうか」

「嫌だと言ったら?」

「牢獄にしばらく泊まることになるな」

「あんたにそんな権限があるのか?」

 ベリーグは、制服の肩章を指し示した。衛士隊長を表す三つの星が鈍く光っていた。

「ずいぶんと出世したな」

「当然だ。俺は、部下がぶった斬られるのを黙って見過ごすような男じゃないからな」

「それで、私の容疑は何なのか、教えてくれないか?」

「容疑? 笑わせてくれるじゃないか。貴様はこの街じゃ、今でも危険人物なんだよ」

「それは光栄なことだ」

 ベリーグが腕を伸ばした。私はその手を払った。ベリーグは殺気立った眼を剥いた。

「貴様……」

 一気に引き倒された。土の上に尻餅をついた。次の瞬間、脇腹にベリーグの怒りのこもった爪先がぶち込まれた。かばう間はなかった。再び、爪先。脇腹に激痛が走った。三発目――転がってかわした。が、それはベリーグの憤怒をいっそうかき立てただけだった。

 ベリーグは鞘のまま剣を剣帯からはずした。それを両手で摑み、その先端で私の肩を打った。もう一度。さらにもう一度。ベリーグは、いびつなどす黒い笑みを浮かべた。四度目に打ったあと、ベリーグはついに剣の鞘を払った。ぎらり、と刀身が光った。

「やめなさい!」

 思いもかけぬ、鋭い声が飛んだ。ワドワクスだった。

 ベリーグは私を責めるのを止め、にやにやと笑みを浮かべたまま、蟲車を覗いた。

「衛士隊長殿、もうそれで充分でしょう。あなたとゴルカンさんの間に何があったのかは知らないが、それ以上の暴行は、あなたの権限を越えていると思います」

「ほう、この腰抜けが心配か? 見ろ、ツノナメクジのように這いつくばっているじゃないか! おまえに訊きたくなったぜ。この男がおまえに突っ込んでるのか? それともおまえが突っ込まれてるのか? この男のあれはそんなにいいのか?」

「僕の父は――」

「何だ……?」

「僕の父は、スパレイです」

 ベリーグの動きが止まった。

「な、な、何だと?」

「聞こえませんでしたか? 僕の父は、テジンのスパレイ行政武官だと言ったのです」

「き、貴様、何をふざけたことを……」

 ベリーグの言葉は力無く尻すぼみになった。顔色から血の気を失っている。

「確かめてみますか? 衛士局長メラック氏と父がたいへんに懇意にしていることは、隊長のあなたもご存じでしょう? 二人はアルファラー学館の先輩後輩の間柄です」

 ベリーグは棒立ちになり、ぎりぎりと歯を鳴らしながら私を見下ろした。

「ベリーグ隊長、今の行状は父に報告しておきます。さ、御者さん。行きましょう」

 ワドワクスは、やや上気した顔で少年御者に向かって言った。

 少年御者は、ハイイロカケトカゲの陰に隠れて私たちの様子を窺っていたらしい。ワドワクスの声に、ぴょこん、と反応した。

「さあ、早く」

 ワドワクスは言いながら、私を助け起こした。痛みに思わずうめき声を上げた。

 少年御者は御者台に跳び乗り、ハイイロカケトカゲに鞭を当てた。蟲車は走り出した。背後を向くと、ベリーグが若い衛士を小突いているのが見えた。私は苦笑した。

「変わっていないな」

「え、何です?」

 私は肩をすくめた。

「八年前とだよ。あの男も、衛士隊そのものも変わっていない」

「八年前……僕はまだ一八歳でした。そして……」

 ワドワクスは口ごもった。私は黙っていた。ワドワクスは続けた。

「ドゥイータは十五歳でした。当時、僕はドゥイータの存在すら知らなかった」

 石でも踏んだのだろう。蟲車が一度、がたん、と揺れた。

「あなたは知っていた。あなたは、僕が彼女を知るずっと前から、彼女を知っていた」


「蛇神覚醒」つづく

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