第14話 食事

「大路さんっていつもこんなところでご飯食べてはるんですか」

「いえ、カジュアルフレンチが多いんですけど、今日は気を張ってお疲れでしょうから畳が落ち着くかなって」


 詩音に連れて来られたところは料亭の個室だった。たったの二人で食事をするのに八畳間とは、響の常識では考えられない。自宅の居間ですら六畳間だ。

 だが、そのカジュアルフレンチとやらに連行されるよりは良かったかもしれない。和食なら手に持つのは確実に箸だ。食事の仕方に悩んで詩音の話が全く頭に入ってこないなどという事態は避けられそうだ。

 しかし、そもそもフレンチとカジュアルフレンチの違いすらも響には判らない。恐らくドレスコードなどという言葉も知らないだろう。


「早速なんですけど、これ、大神さんに来ていただきたくて、一番いい席を押さえておいたんです」


 詩音が出してきたのはコンサートのチケットだった。メインプログラムはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番、日付は来週になっている。ピアノ協奏曲の一週間前に今日のコンサートを入れていたというのか。響には呆れるようなスケジュール設定である。


「チャイコのコンチェルトやないですか。よく今日のコンサート組みましたね。俺の編曲かって大路さんがプレイヤーって聞いとったから、遠慮なしにピアノ酷使しまくったアレンジやったのに。信じられへんバイタリティや」

「僕はずっとステージに上がっている方が調子がいいんですよ。逆にステージ間隔が開いてしまうとモチベーションが維持できなくなるんです」


 確かにそういう演奏家はいる。立て続けにやった方がいいというプレイヤーもいれば、全力使い果たして暫くステージに上がれない人もいる。

 しかし、コンチェルトとなるとそれだけの集中力を要する。体力の消耗も激しい。この線の細い優男のどこにそれだけの体力があるのだろうかと、響は疑問に思う。


「それに、チャイコフスキーは僕の大好きな作曲家で、チャイコって聞くともう条件反射でやりますって言っちゃうんですよね。後先考えずに」


 たとえ後先考えずに返事をしてしまったとしてもそれを弾ききってしまうのが、大路詩音という男なのだろう。それだけでも恐れるに足るプレイヤーであることを物語っている。


「このチャイコが終わると暫く空いてしまうんです。それは僕にとってあまり良いとは言えない」


 詩音がふと窓の方に目を向けた。響もつられて窓に目を向ける。

 天井から床まで目一杯に張ったガラスの向こうに、品良くライトアップされた庭が見える。大きな池と丸く刈った躑躅つつじ、石灯篭の向こうにはビルに切り取られた月が見える。


「十月に旅番組の収録があるらしいんです」

「は?」


 唐突な話の展開に、響は狼狽えた。そんな彼を見て詩音は何故か納得したような顔をしている。


「まだ本決まりじゃなくて、チラッと企画を聞いただけなんですけどね。僕は見たことが無いんですが、二人のゲストが一緒に旅行をするだけの番組らしいんですよ。そこで何をしようがゲストの自由。行先と宿泊先だけが決まっているんだそうです。それに出ないかと言われて」

「ええやないですか。どちらに行かはるんですか?」

「まだ企画段階なので、軽い打診だけなんです」


 詩音が蒸し物に箸を入れながら楽しそうに話すのを、響は不思議な面持ちで眺めていた。行先も決まっていないのに、何故こんなに楽し気なんだろうか、と。


「お相手のゲストはどなたなんですか」

「それを大神さんにお願いしようかと思って、ここにお誘いしたんです」

「え、俺? 俺ですか?」


 驚く響とは対照的に、詩音はそれはそれは嬉しそうに満面の笑みでその問いに応える。


「僕と泊りがけで旅行をして、会話がもつような相手が身近にいるとは思えないんですよ。僕は子供の頃パリで過ごしていたので、子供の頃の日本の事はよくわからない。大人になってからはこの世界にどっぷりですから、音楽の世界の人でないと全く話が合わない。共通の話題が無いんです。かと言って年齢が離れすぎてもお互いに気を使うじゃないですか。同年代で、共通の話題があって、尊敬できる相手、となったらもう大神さんをおいて他に誰もいらっしゃらないんですよ。大神さんなら音楽の知識はずば抜けていらっしゃる。ピアノに関する造詣も深い。昼間、パーカッショニストの方も仰ってたんです、大神さんマニアックなことをご存知だって。だからお話していて楽しい。二日と言わず一週間でも話していられるような気がするんです」


 詩音の熱の入った話に、響は自分の事を言われているという状況を忘れてポカンとしてしまう。


「実はこの話をいただいて、どうしようかと迷っていたんです。それが、今日のリハーサルで少しお話させていただいた時、大神さんがいるじゃないかって気が付いて。大神さんさえよければ僕の方からプロデューサーにお話させていただいて、大神さんをパートナーに推薦するという形でこの仕事をお引き受けしようかと考えたんです。如何ですか」

「え、急な話やし……」

「先程のチャイコの日にでもお返事を聞かせていただければ結構ですから。もちろん大神さんのご都合もあるでしょうから、無理なさらないでいただきたいのですが」


 自分に大路詩音の相手が務まるのかという疑問が響には拭えない。とは言え、詩音自身が響を選んだのだ。

 それに母が言っていたではないか。あの大路詩音君と一緒の仕事なんて運がいい、と。そしてこうも言っていた、「これからテレビの仕事も増えるから、喋りが苦手だなどと言っていられない、訓練しないといけない」と。

 目の前の刺身に視線を落としていた響が、唐突に顔を上げた。


「いや、今決めます。その仕事、やります。十月なんにも入ってへんかったし。俺、喋り苦手やけど、大路さんがいてくれはったら自信持てるか知れんし」


 響が母を安心させるには、自分がどんな仕事も受けられるようになるほかないのだ。


「迷惑かけるか知れんけど、よろしくお願いします」

「ご快諾くださってありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」


 その日、二人はお互いの連絡先を交換した。二人ともその晩はなかなか眠りに就けなかった。

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