第15話 二人旅

 空の高いところにすじ雲の浮かぶ秋晴れの日にロケは行われた。

 響は勿論の事、詩音も旅番組は初めてだった。勝手がわからないという二人に、プロデューサーは「ずっとカメラを回しっぱなしで撮って後で編集しますので、お二人でのんびりお喋りしながら好きなように楽しんでいただければ結構です」などと丸投げな回答をした。

 顔中で不安を表明している響と違って、条件を理解した詩音は「じゃあ僕たちのルールを決めましょうか」と早くも撮影に向けて気持ちを乗せて行っている。この辺りはさすがプロと言えよう。

 そこで詩音から思いがけない提案が出された。お互いをファーストネームで呼ぼうというものだ。

 「俺が大路さんを詩音さんって呼ぶんですか?」と腰が引けている響に、詩音は「ううん、そうじゃなくて詩音って呼び捨てで」と笑っている。スタッフにもそれがいいと言われて、結局そう呼び合う事になってしまった。あのプリンス大路詩音を呼び捨て……普通に考えたらとんでもない事である。


 撮影が開始され、電車の窓から外を眺めながら秋を満喫する二人だが、どうしてもお喋りは音楽の話題に偏ってしまう。わざわざこの二人をセットにしたのだから、それもアリだろう。なんでもいいと言われていたのだからと、二人も開き直って音楽の話で盛り上がる。

 お互いをファーストネームで呼び合うのが功を奏したのか、敬語を使う事も無くなり、普通の友達同士のようなノリになって来る。


「鳥村楽器の時だっけ、僕のイメージって言って、ラヴェルの『水の戯れ』を弾いてくれたでしょ? 響から見て僕ってどういうイメージなんだろうってずっと考えてたんだ」

「あー。ラヴェルってなんやオシャレやん。キチンとしとる紳士いうか。『水の戯れ』はキラッキラやし、詩音は俺ん中では永遠の王子様やし」

「ラヴェルってA型だと思わない?」

「思う思う」


 学生みたいなノリだな、と響は心の中で笑う。詩音とこんな話をする日が来ようとは。


「ラヴェルっていつもスーツ着てたみたいだよね。家でもスーツにネクタイ」

「ホンマに?」

「家に自分しかいない時もスーツだって」

「疲れへんのかな」

「化粧品も使ってて、香水とかいっぱい持ってたらしいよ」

「流石フランス人やな」

「鏡の前に香水とか化粧品を綺麗に並べてたんだって、しかも完璧なシンメトリー!」

「絶対A型や」


 普通に話しているだけなのに、殆ど漫才になっている。楽しそうに笑う響を見て、詩音は「なんだ、笑うんじゃないか」と内心ホッとする。実は響が笑う事なんか無いのではないかと心配していたのだ。


「今だから言うけど、実はあの全日本ジュニアピアノコンペティションで初めて響の演奏を聴いた時から、ずっとライバル視してたんだよね」

「俺?」

「うん、そう」


 詩音の視線がふと車窓の外に移る。その目が捉えているのは外の景色ではなく、もっと遠い過去の景色だ。


「ソナチネやソナタばかり弾いてた当時の僕には、あの曲は衝撃的だったんだ。『負けた』って思ってさ」

「あん時、最優秀賞やったやん」

「あんなもの嬉しくなかったんだ。自分ではあの真っ黒な子に負けたって思ってたんだから」

「そんなん言うてええの? これ、全国放送やで」


 それを聴いて詩音がクスクス笑う。響の方に向き直ると「全国放送だから言うんだよ」と言った。


「何が何でも翌年はリベンジしたかったんだ。絶対に勝ってやるって思ってた。なのに、翌年からその真っ黒な子はコンペティションに顔を出さなかった。あれだけの実力があったんだ、関西代表に選ばれないわけがない。としたら最初から出場していなかったのか、そればっかり気になってさ。今年出ていなくても来年出るかもしれない、その時は絶対リベンジしてやるって、真っ黒な子に勝つために必死でピアノの練習したんだ。そのお陰で中学生でプロデビューするまでになった。ここまで来たのは、実は全部響のお陰」


 嘘やろ……響の言葉は音声として口から出ることは無かったが、その表情が雄弁にそれを語っていた。


「待てど暮らせど来ないわけだよね、作曲家に転向しちゃってるとは思いもよらなかったよ」


 ファンが卒倒するようなネタを詩音が惜しげもなく披露したところで、電車を降りてバスに乗り換える。一体どこへ行かされるのかわからないが、山であることは確かなようだ。


 ここでまさかのハプニングがあった。詩音はバスに乗り慣れていない。普段は電車、飛行機、タクシーくらいしか使わないからだ。山道をバスに揺られる間に、見る見る顔が蒼白になって行く。


「お喋りしとった方がええ? 黙っといた方がええ?」

「ごめん、声かけないで」


 オロオロするばかりの響と具合が悪そうな詩音を、たまたま乗り合わせた乗客が心配そうに見守る。


「あたしらは少しくらい遅れてもいいのよ。バスちょっと停めてあげてよ」


 運転手に声をかけてくれた年配のご婦人に礼を言い、響は詩音を外に連れ出す。

 路肩にしゃがみ込んで息を整えようとする詩音に、響は声を掛けていいのか悪いのか判断がつかないまま、とにかくそばについていた。何もできずただオロオロするばかりの自分に、苛立ちと焦燥が募る。

 詩音が僅かに顔を上げるのを見て、響は思わず声を掛けてしまった。


「吐きそうか?」

「大丈夫。外の空気吸ったら良くなってきた」

「水、飲むか?」

「ああ、うん、ありがと」


 色白の顔が青ざめ、額には脂汗が光っている。相当苦しかったのだろう。少し休むと「もう大丈夫。あんまり待たせると悪いから戻ろう」と言うが、響は気が気ではない。


 バスに戻ると、先程のご婦人が心配そうに詩音を見ている。響は彼女に黙って頭を下げ、詩音を前の方の席に乗せた。


「響、悪い、肩貸して」

「ええけど、大丈夫?」

「着くまで寝てる。眠ってしまえば平気だから」


 バスが動き出すと詩音が響の肩にもたれてくる。

 ――なんちゅー綺麗な顔なんや。まるで女やないか――詩音の長い睫毛に、響の鼓動が速くなる。

 とりあえずこうして眠っていてくれれば、辛そうな彼を見なくて済む。それだけでも響には救いになる。だが、まさか違う意味で落ち着かなくなるとは。

 バスが目的地に着くまで、響はそわそわと心中穏やかでない時間を過ごすことになってしまった。

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