第16話 山道を行く
バスを降りてからは歩く、ひたすら歩く。田舎育ちの響にはなんてことはないが、都会育ちの詩音には田舎道を歩くことはかなり新鮮だ。
田舎と言っても道路は舗装されているので物理的な違いはないのだが、何しろ田舎道というのは山しかない。コンビニが無いとか自販機が無いとかそういうレベルではなく、建物が無い、人影が無い、道幅も無い、とにかく何も無い。
「これってこのまま進んでも大丈夫なのかな? なんか出たりしない?」
「なんかってなんやねん」
「うらめしや~とか」
響はクスクス笑うが、詩音は割と本気で心配しているようだ。こんな昼間っから出るような陽気な幽霊がいるのなら、一緒に散歩するのも悪くない。
何より、響が慣れてきたせいか、口数が増えてきたのが詩音には嬉しい。いつもは緊張した面持ちで微妙にイントネーションのおかしな標準語をボソボソと話すのに、既に普通に関西弁で話している。彼が自分に心を開いてくれているのかと思うと、詩音はなんだかくすぐったく感じる。
そんな気持ちを誤魔化すかのように、彼は鼻歌を歌いだした。グローフェの組曲『グランド・キャニオン』第三曲『山道を行く』である。ラバの足音を表現したテンプルブロックの音が軽快な曲だ。
「バス酔い、良うなったん?」
「森林浴効果って言うのかな、嘘みたいに治った」
「ホンマ焦ったし」
道端の木には赤い実などがぶら下がっている。山道を散歩するにはいい季節だ。
だが、山道の散歩に相応しい恰好かといえば、いろいろ問題があるかもしれない。ディレクターから『動きやすい服装』と『歩き慣れた靴』は指示されていたので、詩音はTシャツに薄手のジャケット、足元はジーンズにスニーカーで来たからまだいいものの、響はいつものウエスタンブーツだ。これで山道なんか歩くのだろうか、と詩音は少々不安になる。
「あ」
突然、響が木に手を伸ばす。詩音がぼんやりとしている間に、蔓を引っ張って薄紫色の木の実に手を伸ばす。
「あ、ちょっと待って、手袋あるから」
「手袋? 何に使うんや?」
「え? だって何か採るんでしょ?」
「要らん」
「え?」
響は何の躊躇いもなくそれを採ると、詩音の方に差し出した。
「何これ」
「アケビ」
と言っている側から、響は熟して割れた果皮を両手で開き、中から覗くゼリー状の果実を食べ始めた。唖然とする詩音をよそに、響は口の中から上手に種だけをプププっと出す。
「食べへんの? 嫌いやった?」
「や、そうじゃなくて、食べた事ないから」
「そうなん? 甘すぎんと旨いで」
響は詩音の手からアケビを取り上げると、果皮の割れ目に親指を入れてぱっくりと開いて見せる。
「この白いのが旨いねん。種は出しや。来年また生えるよって」
こんな山の中を歩くのも初めてだが、自然の中で採ったものをその場で食べるなどという事は、生まれてこのかた一度たりとしたことがない。大丈夫なのか。
だが、たった今、目の前で響が食べていたではないか。詩音にとってそれは途轍もない冒険ではあったが、響を信じて恐る恐る口にしてみた。この姿を姉が見たら卒倒するだろう、と思いながら。
思いがけない味がした。ほんのりと優しい甘さ。自己主張せず、それでいて一度食べたら忘れられないような素朴な味だった。
まるで響そのものだ、と詩音は思った。野性的で、素朴で、出しゃばらず、きちんと美味しい。初めて食べるのに、懐かしささえ覚えた。
「どや?」
「うん、美味しい」
「せやろ?」
響が俄然生き生きしている。彼はピアニストではないからだろうが、その辺のものを無造作に触るのを詩音はビクビクしながら見守っている。
僕はちゃんと子供時代を遊んでいないかもしれない、ふとそんな思いが詩音の頭をよぎる。
子供の頃から手を怪我する危険性のある事は一切して来なかった。料理も刃物を使う工作も、バレーボールやバスケットボールもだ。白い真っ直ぐな指は、そうやって守り抜いて来たものだ。
だが、響の手は節くれ立ってごつごつした男性的な手だ。それでもあれだけのものが弾けている。自分は子供時代に体験すべきことを何もせずに、大人になってしまったのではないか、と今更ながら詩音は自分のこれまでの生き方に疑問を持った。
「あ、サルナシや。これも旨いねん」
響は詩音の手を取ると、道端で採った百円玉サイズの黄緑の実をいくつか乗せた。
「どうやって食べるの?」
「口に入れて」
と言ってそのままポイっと口に放り込み、モグモグと食べ始める。それを見た詩音も一つ口に入れてみる。
「キウイフルーツの味がする」
「あれの原種や。山葡萄もそこに見えてんねんけど、あれは手ぇが汚れよるから……」
「採ってみたい」
響はニヤリと笑うと、詩音が採りやすいように蔓を引っ張って手招きする。目の前にぶら下がる黒く艶々した実が山葡萄なのだろう。一粒口に含んだ瞬間、横から響が「酸っぱいやろ?」と言う。知っているなら先に言ってくれたらいいのに、わざと黙っていたんだと思うと笑いが出てくる。響は案外悪戯坊主なのだろうか。
「稲刈って 田んぼの道が 遠く見え」
「え?」
「俺が小学校の時に、国語の先生に褒められた俳句。自信作」
詩音は完全に響のペースに巻き込まれている。いつものようにボソボソと喋り、決してテンポも速くないのに、何故かペースを乱されまくっている。視聴者やカメラの存在を全く無視して、まるっきり自分のペースで動いている。
「山で遊んだこと無いのんか?」
「うん」
「ほな本気で遊ぶか」
「遊ん……どるやん?」
照れるように関西弁を真似する詩音を見て、響は抱きしめたい衝動に駆られた。
――なんなんや、こいつ、めっさ可愛ええやん!
「よっしゃ、なんか捕まえんで」
「なんかって?」
「なんかや。あ、そこにヘビがおる」
ヘビに近付こうとする響の腕を素早く詩音が掴む。
「ちょっ……ヘビはいい。それは無理」
「そんな全力で引っ張らんても。ほなこれは?」
響が草むらの中からトカゲを捕まえて見せると、詩音はおっかなびっくり覗き込んでくる。興味津々なくせに腰が引けているのが可笑しい。
「わぁ……綺麗」
「せやろ。この尻尾の青はどうなってんねやろな」
ニホントカゲは幼体のうちは体に五本の縦縞が入り、尾は美しいメタリックブルーに光るが、成体に近付くにつれその美しい青は無くなっていってしまう。
「こうしてみると可愛ええ顔しとるやろ?」
「うん、そうだね。こんなふうに見たことなかったよ」
「手ぇ出してみ」
「えっ?」
ギョッとして後ずさる詩音に、響は子供に見せるような優しい目を向けた。
「大丈夫。噛んだりせぇへんよって。持とうとすると警戒しよるし、掌に乗せるようにしたらええねん」
訝しげにしつつも恐る恐る言うとおりにする彼の手に、響はそっとトカゲを乗せてやる。初めての体験に緊張しつつも目を輝かせている詩音を見て、響は切なくなってくる。この男は本当に山で遊んだことがないんや……。
詩音は一体どんな子供時代を過ごしてきたのか。アケビ一つ採るのに手袋をする、サルナシを見たことが無い、ヘビを怖がる、トカゲで一喜一憂する。
「あは、くすぐったい。わわわ、動かないでよ、登って来ちゃダメだって、ストップストップ!」
肩の方まで登られて慌てる詩音からトカゲをひょいと拾い上げると、響は「そろそろ帰したらんとな」と草むらに戻してやった。
「可愛かった。もしかしたらヘビも可愛いのかもしれないね」
子供のような詩音の素直な反応に、響は目を細めて頷いた。
「ほな別のもん探すで」
「うん」
もっと早く出会いたかった……二人は時間の許す限り遊びまわった。
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