第17話 露天風呂
夕方、旅館の露天風呂での撮影がスタートした。カメラが回るので明るいうちがいいのだろう、「こういうのって如何にも日本文化って感じだよね」などと言いながら早速二人で湯船に浸かる。
「あかん、こういうところでのんびり風呂に入っとると、なんやいろいろメロディが浮かんできよる」
「今、作曲モードなの?」
「そやねん、大概新しい構想は風呂やねん。せやし、ついつい長風呂してまうねん」
ごつごつした黒い岩にもたれて胸元まで湯に浸かった響が、目を閉じてフンフンと鼻歌を歌い始める。そんな彼を見ながら、詩音は響の胸板が思いの外厚い事に気付く。
そーっとその胸に手を伸ばすと、響が「なななななんや?」と慌てふためいて体を起こした。
「ごめん、がっちりしてるなって思って」
「そっちの世界の人かと思てまうやん」
カメラさんまで笑っている。が、それはそれで面白そうではある。世界を股にかけるピアニスト・大路詩音がゲイだったら、女性ファンは黙っていないだろう。
「トランペット吹いてるからかな、筋肉質だね」
「詩音は思ったより腕ががっちりしとるわ」
「そうかな、響の方が筋肉ついてる」
「つーか触るなっつの。こそばいし」
「ボーイズラブって流行ってるみたいだね。サービスカット撮っとこうか」
「せんてええし」
と言いながら笑っている。詩音から見た響の印象は、七時間ほどで別人のように変わってしまった。あのミステリアスでワイルドで近寄り難い一匹狼のイメージは何処へ行ってしまったのやら。きっとこの放送を見た視聴者もこのギャップに驚くに違いない。
この男はこうしてまたファンを増やしていくんだろうな、と詩音は思うのだが、それは今までのような焦りに近いものではなく、寧ろ仲間として喜びさえ感じるようになってしまった事に彼自身驚いていた。
だがそれは響も同じだった。いつでもニコニコとプリンススマイルを崩すことなく、どんな状況にもすぐに対応してしてしまう頼れる男だと思っていた。しかし決してパーフェクトなスーパーマンではなかった。
バスに酔って響の肩で眠る彼は、普段からは想像できないほど儚げに見えた。木の実に恐る恐る手を出し、目を輝かせてトカゲに見入る彼は、まるで子供のように純粋だった。
ふと、詩音が響から視線を外した。
「僕ね、小さい頃からピアノの英才教育受けてて、指を怪我しそうなことってしたこと無いんだ。包丁持ったこと無いし、彫刻刀とか使ったこと無い。勿論のこぎりや金づちも。泳ぐのはプールだけ、海や川で泳いだことも無い。バスケやバレーもやったこと無いしね。だから山の遊び方なんて知らなくてさ。今日は本当に楽しかった。今までの人生で一番楽しかった」
「大袈裟やなぁ」
とは言ったものの、本気で言っているのは響にもわかっていた。ピアニストとしては恵まれた環境だが、子供としては恵まれた環境とは言い難いだろう。
「響はいつもあんな風にして遊んでたの?」
「んー、そやな。まず風呂に入ったらお湯の掛け合いからスタートやな」
「え?」
いきなり響がその大きな手で詩音にお湯をかけてきた! いや、かけたなんてもんじゃない、ぶっかけてきたと言うべきか。
「うわっ、ちょっと!」
「これが俺らの遊びやし」
巻き込まれては敵わないとばかりに、カメラさんが大急ぎで避難する。
「ちょっと待った、響の手、反則! 大きすぎだって!」
「待った無しや」
二分後、頭からずぶ濡れの二人が腹を抱えて笑っていた。
「信じられない、この歳でこんな遊びするなんて」
「俺もや!」
「俺もじゃなくて、俺が、でしょ!」
「ええやん、今まで遊ばへんかった分、今取り戻したらええねん」
大笑いしてはいるものの、詩音は内心穏やかではなかった。
響の緩いウェーヴのかかった黒髪から水の滴る様は、同じ男の目から見てもゾクゾクするほど美しかった。この濡れた黒髪の隙間から、あの切れ長の目で見つめられたら、殆どの女性は一撃で虜になってしまうだろうと想像できた。
「詩音の髪、綺麗な色やな」
「僕はハーフだから。響の黒髪の方が綺麗だよ。オブシディアンみたい」
「なんやそれ」
「石。真っ黒くて艶々なんだ」
「うち、貧乏やし、そういうの知らんねん」
これが詩音と響の決定的な違いだった。片や上流階級、片やその日暮らしの底辺層だ。それもあって、響は詩音とは同じ世界に住めないことを感じていた。
「俺んち貧乏やったから、何でも自分でリメイクしてな」
唐突に話し出した響に、詩音は静かに耳を傾けた。彼の子供時代に興味があった。
「せやし、俺は料理も裁縫も日曜大工も得意やねん。プランター菜園かてすんねんで。けど、ゲームとかそんなん持ってへんから友達と遊ばれへんくって、家で電子ピアノばっか弾いとった」
「え? あの『ゴリウォーグのケークウォーク』は電子ピアノで練習してたの?」
「そやで。でも曲弾いとるより、自分でテキトーに弾いとる時の方がおもろかってん。今考えたら、あの頃から作曲しとったんかしれんわ」
いったいどんな子供時代を過ごしたというのだろうか、詩音は響という男がますます気になった。もっと彼の事が知りたい、だがどこまで話してくれるだろうか。
そう思った時、突然響が立ち上がった。
「あかん。俺、もうのぼせて来たわ。あがろか」
風呂から上がって二人が部屋に向かう途中、玄関先で何やら騒ぐ声が聞こえた。何事かと耳をそばだてていると、どうやら工事の為に近くに来ていた人が、突発事故で今日中に仕事が終わらず、泊まらなければならなくなったらしい。
だが、残念な事に部屋がなく、近くに泊まれるところは無いかと訊いているようだ。
こんな山奥で他の建物なんか見なかった。案の定そんな話をしているのを聞いて、詩音が「自分たちは一部屋ずつ貰っているが、一緒の部屋でかまわない」と申し出た。響も異存はなく、詩音が言わなければ彼が言っていた。
それから響は自分の荷物を詩音の部屋に移動して、今夜は同じ部屋で寝ることになった。
二人は内心期待していた。お互いがまだまだ話し足りなかったのだ。これで夜中も存分に話せると思うと、頬が緩むのを抑えられなかった。
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