第18話 布団の中で

 夜、布団に入ってからもずっと二人のお喋りは続いていた。男二人でよくこれだけ話すことがあるものだと自分たちで呆れるほど、話題が尽きることは無かった。

 それは作曲家の事であったり、ピアノのメーカーの事であったり、演奏旅行の事であったり、曲の事であったりした。


 そんな中、話の流れからマネージャーの話題になった。

 響にはマネージャーという発想が無かったが、世界中を駆け回っている詩音にはマネージャーの存在が不可欠だ。その役割を姉の花音が担っているのだが、彼女は自身がピアノを弾くこともあり、ピアニストの立場に立ったマネジメントができる優秀なマネージャーでもあった。

 詩音が中学でプロデビューしたとき姉もまだ中学生で、詩音の周りの事は全て母が取り仕切っていた。母はパリでモデルをやっていたこともあり、華やかな世界では顔が広かったため、詩音はあちこちのサロンに呼ばれてはピアノを弾き、その名前を不動のものとしていった。

 姉は高校を卒業すると、母と詩音についてまわるようになり、少しずつマネージャーの仕事を覚えていった。元々彼女にはその才能があったらしく、あっという間に母よりも優秀なマネージャーとして育ってしまったらしい。


 ピアニストとなるべくして生まれた才能が、ピアノを弾くための環境で育った、血統書付きのエリートそのもののような詩音ではあるが、それがどうやら彼には不満らしい。

 温室のようなところで何不自由なく過ごしてきてしまったばかりに、今頃になってツケが回ってきているというのだ。それが山で遊んだ時に、響との間で明確な差となって表に出た、と。


「僕、この歳でボタン付け一つできないんだよ。目玉焼きすら作れない。自分の服を洗濯したことも無い。公園で砂場遊びもしたことが無いんだ。何が埋まっているかわからないからっていう理由で、絶対に安心できる幼稚園の砂場なら許可されてたけど、訝しむような目で砂場を見る母を見ていたら、流石にそこで遊ぼうって気にはなれなかったよ」


 布団にうつ伏せになった詩音が、両手で頬杖をついたまま話す。枕元に置かれた和紙シェードのベッドスタンドから漏れる柔らかな光が、ただでさえ線の細い詩音の顔を必要以上に儚げに映し出す。

 響は仰向けで両手を頭の下で組んだまま、詩音の柔らかい焦げ茶の髪を眺める。


「周りに期待されるのは嬉しかったけど、プレッシャーに潰されそうになったこともあるよ。行動も制限されていて、いつも母か花音がやってくれるから自分じゃなんにもできない。だから、なんでも自分でできちゃう響を見てると、ほんと凄いなって思うんだ」

「俺は好きでやってたわけちゃうねん。自分でやらへんかったら誰もやってくれへんよって。うち、母子家庭やし」


 母子家庭。初めて聞く事実だった。その辺の事情を訊きたい気もしたが、話す気があるのなら響が自分から話すだろう、詩音は続きを待った。

 そのまま寝てしまうのではないかというほどの間があった。が、彼は言葉を継いだ。


「母は俺を育てるために、昼間はスーパーで働いて、夜は水商売やっててん。せやから俺が家の事やっとった。つっても飯作んのと、掃除と洗濯だけやで。あとは繕いもんくらい。靴下に穴開いたら、自分で縫っとったわ。貧乏やってゲームとか買ってくれとは言われへんし、金かからんよって図書館で本読んどったな」

「ピアノはどうしたの?」


 やっとずっと聞きたかった疑問を詩音は口にした。電子ピアノと言っていた筈だ。それはどうやって手に入れたのか。


「幼稚園の時、近所の小学生のお姉ちゃんがピアノ習っとってな、その子んとこに遊びに行っては電子ピアノ弾いとってん。そのうちにそこんちアップライト買いよって、その電子ピアノ譲ってくれてん。俺、嬉しくて嬉しくて毎日弾いとった。そんで親に頼んで、お姉ちゃんが習いに行ってるピアノ教室に通わして貰ったんや」

「それでドビュッシー?」

「そやな。その先生にコンペティションに出るように言われて。でもその後すぐ、小学校に上がって両親が別れて、俺は母と一緒に大阪に引っ越したんや。そん時に電子ピアノ置いて来てしもてん。それまでは京都の南の方、久御山くみやま言うところにおった。言うてもわからんか知れんけど、平等院と石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうのちょうど真ん中くらいのところ」


 関東住まいの詩音が知る筈も無いが、その名前を聞くだけでも京都らしさは伝わってくる。とは言え、かなり外れの方ではあるが。


「その時の引っ越し先が今住んどるとこやねんけど、近所にヤスダ電機があんねん。そこの電子ピアノ売り場に毎日遊びに行って、勝手に弾いとった」


 ヤスダ電機と言えば大手の家電量販店である。全国展開しているので詩音も知っている。そんなところで毎日売り場の電子ピアノを弾いて、何も言われなかったのだろうか。


「大阪のもんは世話焼きが多くてな。俺が毎日弾いてるもんやから、店長さんに声かけられてな、叱られるかと思ったら褒められてん。『坊主がここでデモ演奏し始めてから、ピアノがよう売れるわ』って。んなわけあらへんのにな」

「作曲は何処で勉強したの?」

「小学校のピアノ弾いとったら、音楽の先生がうちに遊びに来い言うてくれて、先生の家でソルフェージュを教えて貰ってん。めっさ作曲にハマったわ。俺んちの家庭の事情知っとって、ただで教えてくれはった。音楽の先生、音大で作曲科やってんて」


 彼は家庭環境には全く恵まれなかったが、周りの環境に恵まれていた。彼の性格が周りにそうさせたのかもしれない。

 唐突に我に返ったのか、響は照れたように頭の下に組んだ手を外して視線を外した。


「こんな話したん、詩音が初めてや。喋りすぎてもーた」

「僕は響の話が聞けて嬉しいよ」

「せやけど、もう寝ぇへんと起きられへんな」

「そうだね」


 それからすぐに寝たものの、暫くして詩音は響のうなされる声で目覚めた。


「あかん……やめて……」

「響?」


 詩音が覗き込むと、悪い夢でも見ているのか、響は苦し気に顔を歪めたまま唸っている。


「おい、響」

「……苛めんといて」

「え? おい、ちょっと響!」


 彼の肩を掴んで強めに揺すると、響は突然「やめろ!」と叫んで詩音の手を振り払った。


「大丈夫?」

「あ……詩音。俺、ごめん」

「いや、僕は平気だけど。どうしたの? 悪い夢見たの?」

「父さんが夢に出てきた」

「え? お父さん?」

「起こしてすまん、ホンマごめんな」


 そう言って響は詩音に背を向けた。これ以上は踏み込んではいけないという事だけが、詩音には理解できた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る