第12話 作曲家とピアニスト

 スタジオは池袋から西武線に乗って数駅の江古田というところにあった。近くに音大があるせいか、音楽スタジオがいくつもあるようだが、ここはオーケストラ用のスペースも完備しているらしい。事前にプロデューサーに聞いたところ、百畳の広さがあるという。約百六十五平方メートル相当だ。ステージに比べたらかなり狭くは感じるが、オーケストラスタジオとしては広い方かもしれない。

 ピアノはスタインウェイとヤマハのグランドがあるという。詩音が家で愛用していると言っていたのを聞いてか、ここにはスタインウェイが準備されていた。


 今回の企画は、十代続く伝説的なロールプレイングゲームのテーマ曲やバトルBGMなどをオーケストラで再現するコンサートだ。このゲームの初代が出たころ、響はまだ生まれていない。その頃から続く大御所中の大御所である。それを響のオーケストレーションで聴かせるのである。

 これにはソロピアノ曲も何曲かあり、そのプレイヤーとして『あの』大路詩音をゲストに招いている。ゲームファンは勿論のこと、大路詩音の熱狂的なファンも大勢押し寄せてくるだろう。響には緊張を強いられる仕事である。


 詩音はまだ到着していない。その間にオーケストラだけの曲をやっつけてしまおうと、音合わせに入る。

 響もアレンジメントの際にDTMで再現しているが、生音というのは思いがけない効果を生むことがある。その為、リハーサルの前に最終調整を兼ねてチェックしておくのが必須になる。


 少し前に響が担当した映画音楽は、彼の得意とする民族音楽がかなりの位置を占めている。今回のアレンジャーに響が抜擢されたのはそのせいだ。

 このゲームの曲には民族楽器が多く使われている。そのイメージを壊すことなく、生演奏のコンサートとして成立させる、響に白羽の矢が立ったのも当然の成り行きだったともいえよう。

 とは言え、シタールやバグパイプを生演奏でという訳にはいかないので、どうしても電子音に頼る部分はある。その辺りの電子音と生楽器を卓越したバランス感覚で融合させるセンスが、大神響の最大最強の武器なのである。


 その大神響だが、緊張するとどこかぼんやりと思考が寄り道することがある。今もそうだ。彼はこうしてオケのメンバーが思い思いのスタイルで楽器を構えているのを、他人事のような目で眺めている。

 ステージに立つときはみんな黒の上下に蝶タイだったり、黒のロングドレスだったりするのに、こうして練習に来るときは普通のおじさんやおばさんだ。ご近所に住んでいるのか、普段着にサンダルで来ている人も中には数人いる。

 もちろん自分も音大のオケに参加していたころは、みんなと同じように普段着で楽器を構えていた。だが、それは友達同士だから当たり前のような部分があり、正装している時の方がなんだか不思議な感じがしたものだ。

 今目の前にいるのは友達でもなんでもない、プロのオーケストラの人達だ。だが自分を含め、正装の人間など一人もいないし、そんな人がいれば逆に目立っているに違いない。

 この中に隣家の岩崎さんや、いつも行っているヤスダ電機の店長さんが紛れ込んでいてもきっと気付かないだろう。そんな飾らない普通の人達が、正装してステージに上がると途端に遠い世界の人に感じてしまうのだ。

 そしてそんな凄い人たちの演奏する曲を自分が書いているという事実に恐れをなし、逃げ帰りたくなってしまうのである。


 だがそんな弱気な事を考えている響も、実際に楽器が鳴り出すと途端に優先順位がひっくり返る。気になるところがあるとその場でどんどん直したくなってしまうのだ。

 少しでも良い曲に、少しでもそのゲームをやっていたころの気持ちにお客さんが近づけるように……そう思うと「もっともっと」と欲が出てしまう。こればかりはどうしようもない。

 

――すいません。今んとこ……クラリネット入るとこ。グロッケン入れましょう。クラが十六分で二個ずつ移動するやないですか、それを八分で一個ずつ……そうそう、それで行って貰っていいですか。


――ここのヴァイオリンとヴィオラ、コル・レーニョにするの、嫌……ですよね。ですよねぇ……でもここは火星のアタマみたくしたいっていうか。わかります?


――あの! チューブラベル、ユニゾンで行けますか、オクターヴ下で。そう、そうです。


――そこのシンバルですけど、サスペンデッドに変更して貰っていいですか。マレットは硬めの羊毛巻きで立ち上がりは早い方がええ。剣の舞みたく。


 どんどん注文が出てくる。やはり生演奏は違う。自分のような若造がどこまでオケに注文を出していいのか、ドキドキしながらも直さずにはいられない。


 


 その時。

 静かにスタジオのドアが開いた。その場にいた全員がそちらを振り返る。


「おはようございます。よろしくお願いします」


 大路詩音。

 その男がスタジオに入った途端、この空間が一斉に彩度を上げたような錯覚を覚える。響と正反対の華やかなオーラを纏った彼は、ただ普通に歩いてくるだけで照明が強くなったのではないかと誤認識させるだけの効果を持っている。

 ワンウォッシュのストレートジーンズに白いVネックのTシャツ、ベージュのフレンチリネンジャケット。そのなんでもない服の一つ一つが高級品であることは見る者が見ればわかるのであろう。恐らく響のそれとは桁が違うということだけは、彼にも理解できた。


 詩音は指揮者に挨拶すると響の方へやって来た。


「今日、楽しみにしてたんです。先日のトルコ行進曲のリベンジに」

「え? リベンジ?」


 詩音はクスッと笑うと続けた。


「あれ以来もう頭の中が大神さんのトルコ行進曲でいっぱいになっちゃって。せっかくピアノ協奏曲並みのアレンジしてくださったんで、今日は僕の演奏で大神さんを腰砕けにさせますからね。覚悟してくださいね」


 編曲者アレンジャーにとってこれほど嬉しい言葉があろうか。響は俄然張り切ってしまう自分に苦笑いが隠せずにいた。

 プロデューサーの「大路さん、すぐに入れますか?」という問いに、詩音が応えるよりも先に響が割り込む。


「大路さんにウォームアップください。その間オケの皆さんには少し休憩して貰ってもいいですか。いきなり弾いたら指イカレてまうわ」

「大神さん、本当に大路さんのファンなんですねぇ」


 指揮者に笑顔を向けられて、響は恥ずかし気に顔を伏せると、聞こえるか聞こえないかという声でモゾモゾと言った。


「ファンとかそんなんちゃう、崇拝や」


 その声も途中から詩音のウォームアップの音にかき消された。

 両手で寸分の狂いもなく正確に再現されるクロマティックスケール。

 軽快且つ流麗に展開されるドミナントモーション。

 ダイナミックでワイルドな響の弾き方と対極を成す、繊細で優美な詩音の音色。


 が、突然その柔らかな音を切り裂いてBの音が耳に刺さって来た。Cis-E-G-Bのスタッカーティシモ・アルペジオ、このコードは……。


 フランツ・リスト、超絶技巧練習曲第四曲『マゼッパ』。こんな難度の高い曲を指慣らしに弾くのか――響はその場に凍り付いた。


 冒頭の分散和音に続く『音のカーテン』と呼ばれる長いカデンツァ。凄まじい速さで鍵盤を駆け上がる両手のユニゾンには、ほんの僅かなブレも確認することができない。あたかもピアノを弾くためだけに作られたマシンであるかの如く、正確な動きと完璧なバランスで白と黒の小さな木片の上を指が滑って行く。


 ピアノのタッチとしてよく話題にのぼる鍵盤の重さ。ダウンは五十グラム前後、高音域と低音域では五グラムほどの幅がある。逆にアップは約二十グラム、このアップとダウンのバランスがそのままピアノのレスポンスに直結し、演奏者の表現力を左右する。

 だが、大路詩音の前にはそれすらも取るに足らないことであるかのように見える。何を弾いても、どんなピアノを使っても、巧緻こうちを極めた美術作品のように格調高くエレガントな佇まいを見せる。

 それが大路詩音という青年のピアノ演奏なのだ。


 長い長いカデンツァから戻って主題が朗々と歌われる。フォルティシモで4オクターヴユニゾンのメロディの中に、三度の重音による伴奏を差し込んで行くという技法。しかも「必ず2と4の指で演奏せよ」という作曲者リストの指示付きである。

 フェルマータからの六小節ぶっ通し4オクターヴ単音ユニゾン。誰がこんなメチャクチャな事を考えるのやら……(もちろん作曲者のフランツ・リストに他ならないのだが)。

 再び主題に戻ったかと思えば、一小節ごとに出現する高音域への跳躍。左右の手でユニゾンをキープしたまま交互に半音階の移動を繰り返す怒濤の二小節を経て、曲は詩音らしい柔らかさを取り戻していく。

 メロディが左手に移行し、右手が重音で優しく囁く。広範囲にわたる分散和音の中に主旋律を入れる、リストの得意技である。


 ふと、詩音が指を止めた。うっとりと聴き入っていた響はハッと現実に引き戻された。周りを見ると呆けたように詩音を見つめるたくさんの目が視界いっぱいに入った。


「すみません、お待たせしました。もう行けます」

「え……もうちょっと聴いてたかったのに」


 独り言のように響が呟くと、楽団員が一斉に笑った。

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