ライバル

第11話 コーヒー

 薄暗い事務所に五十代半ばの男が、弁当屋の袋を下げて入って来た。汚れたTシャツから漂ってくるえたような汗の臭いと、袋に入っているらしい唐揚げの匂いに、彼より年上と思われる事務員の女性が一瞬顔をしかめる。

 彼女はガラガラとわざとらしく窓を開け放つと、冷たい麦茶を出してきて彼の前に乱暴に置いた。


「お疲れさん」


 明らかに迷惑そうな表情を見せながらも儀礼的に労いの言葉をかける彼女に、彼は礼も言わずに麦茶を飲み干した。


「エアコンは?」

「壊れてしもてん。寿命やね。さっき社長が中開けてみたんやけど、修理できるもんとちゃう言うて、ショージン電機に買いに行かはったわ」


 それだけ言うと、彼女は事務所のテレビを点けた。古紙回収業なので天気予報を見るためにテレビが設置されているが、お昼休みだけは好きなものを見て良いことになっている。

 とは言え、チャンネルの選択権はほぼこの事務員の女性が握っていて、他の連中はお零れに与る程度なのだが。

 今日も例に漏れず、毎日お昼に放送されるトーク番組にチャンネルは合わせられた。同じ女性司会者が毎日異なるゲストを呼んで、お喋りしたりゲストの得意技を披露して貰ったりする人気番組である。


 男は耳障りな女性司会者の声を意識から追い出すように、ガサガサと音を立てて唐揚げ弁当を出す。先ほどの事務員が「静かにでけへんのかねぇ」と顰めっ面でタバコに火をつける。

 九月末だというのに台風によるフェーン現象で真夏日になっているせいか、二人ともエアコンの効かない部屋で、虫の居所があまりよろしくない。


『本日のゲストはピアノ界に彗星の如く現れたお二人です。東のプリンス大路詩音さんと、西のウルフ大神響さんにお越しいただきました』


「いやー、イケメンやねえ。最近の子ぉは脚長いわー」


 事務員の独り言が癇に障る。こんな大きな声で言わなくてもいいだろうに、と男は彼女を一瞥する。


「こんな俳優さんみたいな美男子がピアノ弾かはるんやねぇ。ちょっと、大神さん、この子も大神さんやて。あんたに似ぃひんと、男前やで。名前一緒やのに残念やなぁ、あんた」

「大神?」


 男はテレビに視線を移した。


「ヒビキくんやて。デッカいなー、身長百八十七センチやって。あんたも無駄に嵩高かさだかいけど、この子の方がもっとか大っきいやん」

「大神響? コイツが?」


 男は割り箸を置くと、吸い寄せられるようにテレビに見入った。


「何やのよ、知り合いなん?」


 彼は事務員の問いかけを無視して食い入るように画面を見つめていたが、暫くして引き攣ったように笑い出した。


「こいつは……ははは、そりゃええわ」


 事務員が訝し気にその顔を覗き込む。


「どないしたん? 暑さで頭おかしなってしもたん?」

「アホ言いな。おもろい事教えたるわ。俺の息子の名前な、ヒビキ言うねん」



「こないだのん、やっと今日放送されとったわ」

「恥ずかしいし見んといて」


 とは言っても、やはり母が喜ぶ顔を見るのは響も嬉しい。せっかく入ったギャラで少しくらい贅沢させてあげたいと思うのに、母は響の活躍以外は喜んでくれないのだ。母を喜ばせるには、自分が活躍の場を広げる他無い。


「何言うてんのよ、職場の人、みんなあんたの応援してくれはってんねんで」

「ありがとう言うといてな」


 この小さな母から自分が生まれたのかと思うと、響はなんとも不思議な気分になる。響の記憶の中の父は、とても大きな男だった。それは彼がまだ幼かったからなのか、物理的に父が大柄だったのかは彼には確かめる術はないし、確かめる気もない。彼の親は母一人なのだから。


「明日から三日間東京やけど、一人で大丈夫?」

「お母さんのことは心配せんてええよ。あんたもついこないだまでオムツしとったと思ったのに、知らん間にお母さんの心配してくれるほど大きくなったんやねぇ」


 母も想い出話をするような歳になったのかと、響は少しやるせない気分になる。よく見れば白髪も増えてきた。染めたらいいのにとは思うが、化粧っ気も無くお洒落に気を使うような人ではない、きっと言ったところで「ええんよ」で終わってしまうだろう。

 今までも何度か再婚を勧めてみたが、「あんたがいればそれでええねん」と取り合ってくれなかった。再婚すれば経済的に少しでも楽になっただろうに。

 母の気持ちがわからないわけでもない。母は響を連れて父から逃げ出してきたのだから。同じ轍は踏みたくないのだろう。


「今回の仕事はどんなん?」


 母の声にハッと我に返った響は、何事も無かったかのようにコーヒーを淹れにキッチンへと向かう。


「ちょっと前にゲーム音楽のオーケストレーションやったやん、あれのコンサートや。ゲストピアニストに大路詩音さんが呼ばれてはる。最近、大路さんと一緒の仕事が増えて来たわ」

「良かったやん、ピアノ界のプリンスのネームバリューにあやかれるなんて、あんたホンマについとるわ。日頃の行いがええねんな」


 母を何より大切にする響だが、こんなふうに母に褒められるのは実はあまり好きではない。

 響が中学生の思春期真っただ中の頃、母は四十代になり、それまで勤めていた夜の仕事を辞めたのだ。水商売に三十代後半を雇っていてくれただけでも親切なお店ではあったが、流石に四十になるころには若い女の子たちから煙たがられるようになった。必死に客に媚びを売り、その客に「潮時じゃないか」と言われて追われるように辞めたのだ。

 その時の客に媚びる母の姿がいつまでも脳に焼き付いている。響はあの頃の母が嫌いだったのだ。

 その一方で、自分を学校に行かせるために必死だったという事も理解していた。自分が母にあんな惨めな事をさせているのだとわかっていながらも、それをする母を蔑んでいる、そんな自分が嫌だった。


 母に後悔させられない。自分にできることは、高校で真面目に勉強して優秀な成績を修め、「この子を育てて良かった」と母に思わせることだ、それしかない。そう思ってアルバイトもせずにひたすらに勉強した。

 成績優秀者は学費免除という私立の音大の付属高校に入り、成績トップでそのまま音大に入った。高校も大学も学費は完全免除だ。そして音大も主席で卒業している。

 学費が払えない。この動かしようのない現状が、その後の彼を作ったのだと思えば、貧乏も悪くないと思える。


 今、母は自分をどう思っているのだろうか、育てて良かったと思ってくれているだろうか。響がぼんやりと考えていると、彼女の声が割り込んだ。


「どうしたん? お湯、沸いとるで」

「あ、ボケっとしとったわ」

「あんたいつもそうやん」


 笑う母の元に、安い粉で淹れたインスタントコーヒーを二つ持って行く。今の響にはこの時間が幸せだった。

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