第42話 離婚
アリーナでの復帰コンサートまで半年の間、『よんよんまる』としての活動は無いにしろ、二人ともそれぞれに音楽活動は続けていた。
詩音は響と再会してからはいつもの調子が戻り、以前より音に深みが増したという評判から、いろいろな楽団にゲストピアニストとして呼ばれるようになっていた。
響の方は傷害事件の騒ぎなどで顔出しの仕事は無くなってしまっていたが、映画音楽の仕事はキャンセルには至らなかったため、汚名返上にと今まで以上に精力的に取り組んでいた。
二人がそうしている間にも、花音は曲目やプログラムの調整、ポスターやパンフレット、チケットなどの手配に追われていた。
二人のポートレイトも『よんよんまる』専用で撮り直したい、ポスターのデザインは何処に頼むか、衣装デザインはどうするか、構成は、演出は……花音には考えなければならないことが盛りだくさんで、目の回るような忙しさだった。にもかかわらず、彼女はこの上ない幸せを感じていた。
一方響の母も、高槻の岩崎さんの息子である岩崎弁護士とともに着実に動き始めていた。
父が週刊誌に話を持ち掛けたこともあり、彼の所在はあっさり割れたようだ。今でも久御山に住んでいるらしい。とは言え、昔家族で住んでいた家ではなく、狭い六畳一間を借りているようだ。現在は古紙回収業の仕事をしているようで、然程羽振りが良いとは思えない。だからこそ響の稼ぎをあてにしているのだろう。
岩崎弁護士は早速久御山へ赴き調停前交渉を試みたが、父はこれを拒否。母と相談の上、やむなく裁判所に離婚調停を申し立て、既に呼出状も届いていた。母のところに呼出状が届いているという事は、父のところにも届いているのだろう。
六月末の第一回の調停に響は仕事を入れてしまっていたが、母が「弁護士さんについて来て貰うから大丈夫」というのでそのまま頼むことにした。
結局、一回目の調停では話はつかなかったようだ。だが、岩崎弁護士の話によれば数回に及ぶのはよくある話で、一発で話が通る事ばかりではないらしい。
二回目は一カ月後だったが、離婚裁判に持ち込む用意があることを匂わせると、さすがに父も弁護士を立てるのが困難と見たのかここで折れて来た。逆にこんなに簡単に折れるとは思わなかったらしく、岩崎弁護士は「肩透かしを食らった」と笑っていたそうだ。それだけ彼が有能だったのかもしれないが。
こんなにあっさりと話が進むならさっさと離婚してしまえば良かったと今になってみればそう思えるが、あの当時は逃げるだけでも精一杯だった。まして日々の生活に追われていて、裁判所に助けを求めるなどという発想は無かった。
今こうして落ち着いていられるのは、大路姉弟と岩崎親子の協力の賜物であろう。
響の両親の正式な離婚がどうにかこうにか決まった時には、既に季節は夏になっていた。
「こっちはセミの鳴き方がちゃうんやね。大阪のセミは大阪弁で鳴いとったんかねぇ」
「鳴き方がちゃうんとちゃうねん、向こうにおったんはクマゼミや。ここにはクマゼミはおらへんねんで」
「そやったん?」
母は庭で育てたというトマトとピーマンを持って来ていた。結局響はそのままワンルームに住んでおり、母と二人で住むために借りた部屋は母が一人で住んでいる。
やはりいくら家族と言えど、プライベートが無いのは響には少々辛かった。どうしてもお互いが生活サイクルに気を使う、そしてその生活サイクルが必ずしも一致しているとは限らないのだ。
とは言え、同じ和泉多摩川だ。徒歩ですぐに行ける距離ではある。案外これくらいの距離感が双方にとって良いのかもしれない。
「凄いことがあったんよ。岩崎弁護士ね、高校生の時はバンドやってて、将来はギタリストになりたいって思ってたんやって。それがね、高校の特別授業で警察の人が来て『人権教室』っていうのやらはって、そこで『デートDV』って言葉を聞いたんやって」
デートDVというのは響も聞いたことがある。おぼろげな記憶では、普通に付き合っている間柄でも、相手の嫌がる事を強要することが該当すると言っていたような気がする。暴力をふるうのは勿論、避妊なしの性交渉の強要、自分以外の異性との交流を禁じる、毎日の電話やメールその他SNSの返信などに干渉することもそれにあたる。相手のメールや着信履歴をチェックしたり、自分との予定を優先させたりという事も含まれたはずだ。
「高校生だった岩崎少年は、警察という組織は事件が起こってからでないと動かないと思ってたんやね。それがこうして事件が発生しないように子供たちに教える仕事もしてることに感銘を受けたんやて。それで自分にも何かそういう手助けができひんもんやろかって考えて、弁護士を目指すことにしたんやて」
そこでその発想に行くという事は、根っからの『正義の人』なのであろう。そこから本当に弁護士になってしまったのだから、もともと優秀な人だったのだという事も推測できる。
「でね、その『デートDV』の話をしに来たのが、私たちが相談に行ったときに対応してくれはった三觜さん。覚えてる?」
「え? あの時の三觜さん?」
「そうそう。あの人のところに岩崎少年は何度も話を聞きに行かはったんやて。世間は狭いねぇ」
あれだけ参っていた母が、岩崎さん親子のおかげでこんなに笑えるようになっているのが響には嬉しかった。その話しぶりから、岩崎弁護士だけでなく、岩崎さんや三觜さんともあれから何度か会っていたのが窺えた。
「響、あのね、お母さんね……」
母が何か言いかけた時、部屋の呼び鈴を押す音が聞こえた。
「ごめん、ちょっと待っとってな」
ドアを開けると、むわっとした蒸し暑い空気の中、涼し気なウルトラマリンの仕立ての良いワンピースを着た花音が立っていた。
「ごめんね、詩音がずっとピアノ弾いてるものだから、今のうちに相談に乗って貰おうと思って来ちゃったの。お客様がいらしてるなら出直すわ」
花音の声が聞こえたのか、母が顔を出す。
「私はもう帰るからええよ」
ちょうどいいとばかりに響は母と花音をそれぞれ紹介し、お互い挨拶をしたところで「それじゃ、また来るからね。花音さん、ゆっくりして行ってね」と母は出て行った。
部屋に上がった花音の第一声は「お母様、お綺麗な方ね」だった。キョトンとする響に、彼女は饒舌に語り始めた。
「ノーメイクであれだけ美人なんだから、お化粧したら中高年の男性がほっとかないわよ。若い頃はモテたと思うわ。響の切れ長の目も、きりっとした眉も、涼し気な印象も、みんなお母様譲りなのね。ほんとよく似てるわ」
「そうか? 俺は花音の方がよっぽか綺麗やと思うけど。今日は熱出てへんで」
さらっと当たり前のように言う響の顔をじっと見つめた花音は、一言「だめだこりゃ……天然だわ」と笑った。
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