第41話 今弾こう!
響の母は引っ越して早速、高槻でやっていた乳酸菌飲料の配達の仕事を始めていた。彼女の働きぶりが非常に真面目だった為に、高槻の支社が狛江の支社に紹介状を書いていてくれたのだ。
彼女の性格から言って、何もせずに時間をぼんやりと過ごすことは難しい。響もそうなる事を予測してはいたが、引っ越して一週間ですぐに仕事を始めるとは想定外だったであろう。だが、生き生きと働く彼女を見て、息子としてもホッと胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。
再び親子で住むつもりで借りた部屋ではあったが、響はなかなか引っ越しをしなかった。やはり一度一人暮らしをしてしまうと、誰にも影響されずに作曲ができる環境というのは捨てがたい。
母がいるだけで生活音が発生する。それはただお湯を沸かす音であったり、換気扇や電子レンジの音であったり、風呂の湯を張る音であったりと、本当に些細なことなのだ。だが、全ての音が音階となって聞こえる響には、それが苦痛に感じることがある。絶対音感とはそういうものなのだ。
「で、最近どう?」
詩音がコーヒーを二つ持って現れた。響は何を弾くというわけでもなく、適当にピアノの鍵盤を弄んでいる。
「母さんエラい張り切っとるわ。弁護士さんがムチャクチャ有能やって喜んどった。その人、お父さんは美術の先生やねんけどな」
「そっか。ちょっと心配だったもんだから良かったよ。向こうに居てもこっちに居てもその親子にお世話になっているなら、色々話が早くて便利だね。ところで今日は楽譜持って来てるんだろうね?」
「勿論や。ミニコンサートちゃうんや、ホールを隅から隅まで観客で埋めたらなあかんよってな」
そう、彼らは『よんよんまる』としてはミニコンサートくらいしかしたことが無いまま解散に追い込まれてしまっている。再結成と同時に、大きなコンサートホールでちゃんとしたコンサートをぶち上げようという計画なのだ。それも当初の予定通りクリスマスに、だ。
「それでな、オリジナルの他にクラシックから何曲かと思って、これを軽く書いて来たんやけど」
「どれどれ?」
響が出してきた楽譜を見て、詩音は満足そうに頷く。
「やっぱり響でないとダメだね。僕、こういうのやりたかったんだよ、響と」
ブラームスのハンガリア舞曲第一番。そもそも舞曲というのはテンポが揺れて揺れて揺れまくる。オケのように指揮者がいるわけでもなく、かといってソロではないので自分の好きなテンポで勝手に弾けるわけでもない。それが連弾の難しいところなのだ。
だが、不思議と二人ともそこに不安は持っていなかった。寧ろ息がピッタリのところを見せつけてやりたいという気持ちさえあった。それを実行するにはもってこいの曲であろう。
「僕が高音域かな?」
「普通に考えたら俺が高音なんやろけど、みんなイケメン見たいやろから、俺らの場合は全部上は詩音でええねん」
連弾というのは上手な方が低音側と相場が決まっている。この二人の場合はどう考えても詩音が低音域、響が高音域になるだろう。だが、ヴィジュアルを考えるとそれだけでは決められないのだ。
ピアノの屋根は右側から開ける。だから客席から見て左側が鍵盤側と決まっているのだ。自動的に高音域側に座る演奏者が客席からは良く見える。響はどうやら詩音を高音域側に座らせて、女性たちへのサービスを企んでいるようだ。
「響だって音大首席で出てるじゃん。家にピアノもないのに、ヤスダ電機の展示品電子ピアノでここまで弾くって普通じゃないよ。それに響のクールでワイルドな雰囲気は女性に人気があるんだよ?」
「ええねん、俺は作曲家やし人前に出る仕事とちゃうから、ヴィジュアルは詩音に任せる」
――どこまでも引っ込み思案だな、と詩音は心の中で笑う。響は自分のヴィジュアルの持つ破壊力を知らないのだろう。
「入れ替わりはこの曲では無理かな」
「アクロバットは別の曲でやろうや。クラシックは俺が低音弾いとくわ。実はこれもあんねん。低音をガンガン聴かせて、高音は繊細に決めたいし、詩音に上弾いて貰わなあかん」
そういいながら出してきた楽譜を見て、詩音はつい笑ってしまう。
ムソルグスキー『展覧会の絵』より『
ラヴェルのオーケストレーションによる大編成のものが有名だが、ムソルグスキーは元々ピアノ曲として書いている。原点回帰してピアノでやろうというのだ。
「ラヴェル版が好きやねんけど、俺らはピアノユニットやし」
「わかる。『サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ』のミュート付きピッコロペットだろ?」
「それや」
二人で顔を見合わせてクスクス笑う。もう何も言わなくても相手の言いたいことが通じている。
金持ちのサミュエル・ゴールデンベルクが貧乏人のシュミュイレのところに、貸した金の返却を督促に来る。「もうちょっと待って」と情けない声で嘆願するシュミュイレ。その声を、ピッコロトランペットで、しかもミュートをつけて吹く。情けなさ五百パーセントだ。この辺りにラヴェルのセンスの良さが伺える。
だがやはりピアノ二台か連弾でという事になれば、『バーバ・ヤーガ』からの『キエフの大門』が舞台映えするだろう。
「キエフの大門なんか、メインテーマの時ユニゾンスケールばっかりじゃん」
「うん。詩音が華々しくメロディー弾いとる間、俺ひたすら延々とユニゾンスケール。一心不乱にユニゾンスケール。明けても暮れてもユニゾンスケール」
詩音がお腹を抱えて笑っている。二人でこんなに笑うのは久しぶりだ。お互い、戻るべきところに戻ったという安心があるのだろう。
「いつまで笑ろとんねん」
「響だって笑ってるじゃん」
笑いながらも響はもう一つ楽譜を詩音の方へと差し出した。
「あとな、これやねんけど。どうしても詩音と連弾したくて、かなり本気出してアレンジしてきた。仮面舞踏会」
「え……まさか、ハチャトゥリアン?」
「それ。ワルツ」
「うわぁ!」
小学生のような純粋な反応で楽譜を受け取る詩音が、響には可愛くてたまらない。こんなにキラキラと目を輝かせている詩音を、響はどこかで見たような気がする。どこだっただろうか。
「ねえ、今弾こう! この情熱的な高音域は響に弾いて欲しい。僕、低音支えるから」
「え、今?」
「うん、今!」
――そうか、二人の旅行ロケで、山の中で遊んだ時だ。トカゲを手に乗せたあの時の目。あれ以来、俺は詩音の虜になったんだ――。
譜面を置いて椅子を二つ並べ、詩音が左側に座る。響が右側の椅子に座ると同時に、詩音は待ちきれないとばかりに予告もなく弾き始める。
響の
詩音の方もどんなふうに気持ちよく弾いても、溜めの長さから切れのタイミング、ひいては再開の出の音のバランスまで、完璧に響がついて来るのが心地良くて仕方がない。初見の楽譜でここまで息の合うパートナーもそうそう居ないだろう。
「これだから響、好きなんだよ。もう結婚しようよ、僕たち」
「そやな、そうしよか」
「あなたたち、やっぱりそういう仲だったのねぇ」
唐突に割り込んだ声に驚いて振り返ると、知らぬ間に花音が帰って来ていた。
「あ、おかえり小姑」
「誰が小姑よ。凄い話持って来たのに、教えてあげないにしよっかな~」
「なんやなんや、そう言わんと」
花音は十分勿体つけた後、ゆっくりと口を開いた。
「会場が取れたわ。復帰コンサートは半年後。アリーナよ!」
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