第40話 仮面

「ちょっと待ってよ、なんで再結成しないのよ」

「このまま再結成したって同じことの繰り返しだよ」

「そりゃそうだけど、でも、どうする気よ。その……」


 花音がそこで言い淀む。無理もない、今問題になっているのは響の父なのだから。


「すまん、俺のせいで」

「だから響のせいじゃないって。同じ事何度も言わせるなよ。もうその『俺のせい』っての禁止、言ったら口きかない」


 詩音が口をきいてくれないのが響にとってかなりのダメージがある事を、彼は学習してしまったようだ。案の定、響の顔に困惑がはっきりと浮かぶ。

 涼しい顔でコーヒーを一口飲むと、詩音は知らん顔で続けた。


「まずはDVに対する保護命令の申し立てをしよう。それでお母さんと響に接近できないようにする。そうやってとにかく手が出せない状態にしてから、ゆっくり考えようよ。お母さんの希望もまだ聞いてないんだし」


 確かに当事者は母なのだ。父と母の事を片付けなければならない。


「お母さんは離婚を望んでるの?」

「うん。今まで離婚せえへんかったのは、逃げるのが精一杯でそんなことまで頭が回らへんかったんやと思う」

「じゃ、今から離婚すればいいんだよ。離婚調停がうまくいかないなら、いっそ訴訟を提起したっていいんだからさ」


 響には調停と訴訟の違いすらよくわかっていない。詩音がついているというだけで、心強いことこの上ない。そういえば岩崎さんも言っていた筈だ、離婚訴訟を起こして慰謝料請求したらいい、と。


「お母さんが離婚を望んでいるならその方向で行けばいいし、離婚してからだったらストーカー規制法があるから、付きまとい案件として処理して貰える。前科がついちゃうから、その辺りはお母さんと響で相談すればいいよ。弁護士なら紹介できるよ」

「弁護士なら知り合いがる」

「もうマスコミからたくさんお金貰ってるから、付きまとって来ないんじゃないかしら?」

「スキャンダルなんてその時限りだよ。すぐにマスコミの熱なんか冷めてしまう、そうなったらまた響にたかって来るのは目に見えてるよ」


 どこまでも冷静だな、と響は感心する。一人だったらここまで落ち着いていられなかったに違いない。

 実際父が来てからの響は、ずっと父に翻弄されっぱなしだった。母を守って、自分の生活を守って、詩音と『よんよんまる』を守らなければならないと、自分で自分を追い詰めて勝手にパニックになっていた。

 だが、ここへきてもやはり詩音に守られている。優しい王子様のような顔をしていながらどこまでも強く、冷静で、不安に満ちた響を落ち着かせる。詩音が居なかったらどうなっていたかわからない。


「やっぱり俺、詩音がらへんかったらあかんわ。詩音にそばにいて欲しい」

「だから僕たちは離れちゃダメだって言ったのに」

「何言ってるのよ、詩音の方がずっとダメージ大きかったくせに。ピアニスト辞めるとか言ってたのは何処のどなたかしら?」

「あ、やばい、ピアノ弾けなくなってるかも!」


 慌てて鍵盤の蓋を開ける詩音を見て、自然と響も笑みが零れる。彼のピアノを聴くのは久しぶりだ。最近では二時間程度しか弾いていないと言っていた。正直、今の詩音の演奏を聴くのは勇気が要る。


「ここんとこ、ドビュッシーしか弾く気になれなくてさ」

「なんでドビュッシー?」

「ドビュッシーを弾いていると、響がそばにいてくれるような気がするから」


 突然ガタンと音をさせて立ち上がると、響は大股に詩音の側へ向かう。


「あーもう、あかん!」

「ちょ……何すんの、響」


 いきなり響に背後から抱きつかれて、詩音は耳まで赤くする。そのくせ拒否はしない。


「なんで詩音が赤くなってるのよ、ちょっとほんとにそういう関係?」

「もうそういう関係でも何でもええ。俺、詩音も詩音のドビュッシーも大好きや。早よ聴かせて」

「そんな抱きついてたら弾けないだろ」

「そやな」


 響は詩音から離れると、スタインウェイの屋根をフルオープンにする。彼がスツールに座るのを見届けると、花音と一緒にソファでその第一音を待った。

 詩音がピアノの中央に両手を狭く構え、神経質に顔を鍵盤に寄せる。右足が壊れものを扱うようにそっとダンパーペダルに触れる。

 響と花音が息を詰めてそのスタートを待っていると、繊細過ぎるAの音が、小さく、それでいて抉るように突き刺さって来た。僅か五度、AからEという狭い範囲で両手がひしめき合うように動き回る。


「マスク……」


 響の口からボソリとその曲名が漏れる。これを弾きながら自分をピアノに感じてくれていたのかと思うと、腹の底から得体のしれない感情が沸き上がって来る。その感情はこの曲と同じく、静かでそれでいて熱く、饒舌に響に語り掛けてくるのだ。

 マスク、それは道化師の仮面を意味する。己の内面を見せることなく、自分の役割を遂行する道化役者の最終兵器だ。詩音は響と会わずにいた一ヵ月間、ずっとその心にマスクをつけていたのか。

 いや、寧ろ普段からつけていた『プリンスのマスク』を投げ出していたと言った方が正しいだろうか。本当の気持ちをマスクの中に閉じ込め、いつも優等生の笑顔を振りまいていた、その仮面が響の喪失によって剥がれてしまったのかもしれない。


 詩音が右手の上から左手を被せるように、静かに最後の音を弾く。手首からゆったりとその手を鍵盤から離す瞬間は、誰もが呼吸を忘れてしまうほど神経を使う時間でもある。

 その手が、足が、完全に楽器から離れ、ピアニスト自身の体と呼吸が曲から分離するまで、聴いている側も曲が終わってはいない。寧ろこのこそが、響にとっては至上の時間なのだ。


 ピアニストがすーっと体中の息を全部吐ききって、やっと三人は新しい空気を体内に取り込んだ。


 やっとの思いで絞り出すかのように、詩音が小声で呟いた。


「響のこと思い出すたびにこの曲弾いてたんだ……これ弾くと響が戻って来てくれそうな気がして」


 今にも消え入りそうな細い詩音の声に、響の体内から質量と熱を持った濃密な何かが溢れそうになる。それは肺を圧迫し、心臓を鷲掴みにし、脳を攪拌し、彼の平常心をコントロール不能に追いやる。


「なんで響が泣くんだよ。寂しかったのは僕の方だよ」

「ほんまにピアノ界のプリンスやな。クオリティが全然下がりよらん」

「サボり倒してたよ」

「音に深みが増しとるわ」


 実際詩音はサボっていた。だが、今までの華のある演奏に深みが加わったのだとすれば、ほんの一時でも響を失った喪失感から得たものが大きかったのであろう。


「なぁ響。全部片づけて、心配事を失くして、『よんよんまる』再結成しよう。一人で全部背負わないでさ。僕たちはユニットなんだから。一人でできない事だって、二人なら乗り越えられるよ」

「そやな……ありがとう」


 しんみりとした二人の空気をぶち破るように、花音が明るい声で割り込んだ。


「ちょっと、私を忘れてないかしら? 矢は三本の方が強いのよ。本居宣長だってそう言ってるわ」

「それ……毛利元就ちゃうか?」


 三人は久しぶりに声を上げて笑った。

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