第39話 泣かんといて

 詩音が最後に響と話してから、かれこれ一カ月経つ。

 花音の話では、響は母を引っ越させるため大阪と東京を何度となく往復しているらしい。『よんよんまる』のことなどかまっていられないのだろう。

 詩音も頭では理解している。響は今『よんよんまる』どころではないのだ。DVが原因で亡くなる人もいると聞く、一分一秒も早く母親を父親から遠ざけるべく東奔西走しているにちがいない。

 そんな響に詩音がしてやれることは何一つない。


 いくつか協奏曲の話が来ていた。だが、全部断った。今の自分の精神状態で、まともに弾けるとは思わない。

 ピアノが恋人だと言い切っていた詩音が、ピアノ以外の事に心を奪われることなど、今まで一度たりとあっただろうか。それが今、心の殆どを響に占拠されてしまっている。

 あの日、隅田川で彼に出会わなければ、こんなことにはならなかったと言い切れるだろうか。いや、遅かれ早かれ作曲家の彼とは、どこかで出会うはずだ。

 そう考えると、その出会いが隅田川で良かったのかもしれない。そして結局同じ道を辿るのだ。


 最近の自分はどうかしている、という自覚は詩音にもあった。

 これまで徹底して作り上げてきた『プリンス像』。いつだって上品に、常に笑顔で、そして穏やかに、と紳士であることを心掛けてきた。

 その『絶対的プリンス』がキレるなど論外だ。だがあの記者会見では自制が利かなくなっていた。


 何が自分をそうさせたのかわからない。だが、響を侮辱されたことでスイッチが入ったのは確かだ。もしもそれが詩音本人に対する侮辱であれば、いつものように涼しい笑顔でさり気ない毒を含んだ言葉を吐いていただろう。それができなかった。自分の感情を制御しきれなかったのだ。


 昨日は遂に姉を怒らせた。何があっても詩音の味方をしてくれていた彼女を。自分の態度が原因であることくらい、詩音自身が一番よく理解している。それでも尚、自らを御しきれず、意地を張っているのは何故なのか。何に対して意地になっているのか。


「帰って来てよ……響」


 一人溜息をつきながら、詩音はソファに沈んだ。


 


 いつの間に眠ってしまったのだろうか、ソファから体を起こそうとして、ふと詩音は違和感を覚えた。コーヒーの香り?

 弾けるように跳ね起きると、体に掛けてあったハーフケットが床に落ちた。


「あら、起こしちゃった?」


 花音が帰っている。これは花音が掛けてくれたのか……などと思ったのも束の間、自分を見つめるもう一対の目に詩音は気づいた。


「響……」

「やっと目ぇ合わせてくれたな」


 ドキンと一際高く心臓が脈打つのを感じた。

 どんな顔で会ったらいいのかわからなかったから、いつも部屋に籠っていたのに。今更慌てて自室に逃げ込むわけにもいかず、詩音は渋々ハーフケットを畳んでそこに座り直した。

 それを見て、花音は静かに部屋を出て行った。二人で話せということか。これは腹を括るしかなさそうである。

 よく見ると、響の右手に白く包帯が巻き付いている。怪我でもしたのだろうか。

 まさか、記者会見で危惧されていたようなことが……。


「詩音……痩せたんちゃうか」

「響こそ、その手はどうしたんだよ。ピアニストの大事な手だろ」

「ああ、うん。親父が来ていろいろあって、ナイフの刃を素手で握ってもーてん」

「なっ……」


 詩音が言葉に詰まっていると、響がいきなり「すまん」と言い出した。ハッと顔を上げると、響とまた目が合った。


「まさか詩音があんな風に怒るとは思わへんかった。俺、自分の事で手一杯で、他の事まで気が回らへんかった。俺がきちんと話さなあかんかったのに、ああやってまた詩音に助け舟出して貰って。俺、一体何やってんねやろ」

「助け船なんかじゃないよ」

「え」

「そんなつもりはない。あれは僕の本心だよ。思ったまま言った」


 沈黙が訪れる。今までなら二人がこの部屋に集まると、ピアノの音と笑い声に満ちていた筈だ。それが今ではコーヒーの香りと静寂に支配されている。


「許せなかったんだ。響を侮辱されたのが。響が家庭環境の事でどれだけ苦労したか、どれだけ大変な子供時代を過ごしてきたか。お父さんがお母さんを殴るなんて、そんなことをまだ幼いうちに目の前で見せられて、どんなに怖い思いをしていたか、どれだけ傷ついたか。お母さんが精神的に追い詰められて、そんな過酷な生活の中で、子供ながらにお母さんを必死で支えて。入学して間もない学校をいきなり転校して、友達もいなくて、それでもお母さんに心配かけないようにって幼いなりに気を張って……そういうことをこれっぽっちも想像できないような連中に、響を侮辱する権利なんか…………ひび……き?」


 突然だった。響が包帯の痛々しい手で詩音の頬を撫でたのだ。


「泣かんてええし。泣かんといて、詩音」

「えっ?」


 慌てて頬に手をやった詩音は愕然とした。


「ありがとう。ありがとうな、詩音。ほんまにありがとう」


 響の長い腕が詩音の華奢な肩を静かに抱きしめた。


「俺、自分でも泣いたことあらへんのに、勿体ないわ、世界のプリンスが俺みたいな野良犬の為に」

「野良犬なんかじゃない。僕の大事なパートナーだ」


 腕の中でそれでもまだ涙声で反論する詩音がどうにもこうにも愛おしく、響も「うん、そやな」とつい言ってしまう。

 そして花音の言葉を心の中で反芻する。――詩音は響を独占したいんだわ――。詩音にだったら寧ろ独占されたいくらいだ、と響は心の中であの時の花音に反論してみる。


「なんだよ。何笑ってるんだよ」

「あ、すまん。詩音が可愛くて、なんか嬉しなってもーたわ」

「可愛いって言うな。いつまでこうしてるんだよ。いい加減放せよ」

「ええやん。もうちょっと」

「なんだよ、僕はノーマルだからね」

「俺もや」


 そんな二人を眺めてホッと胸を撫で下ろしつつも、花音は部屋に入るタイミングを失っていた。

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